The Sacred Mother - Part1 The New World

第三章   メビウスの環(5)




 眠りは深く、暗く、暖かい水に沈んだようだった。音もなくイメージもない、概念もない混沌の世界に、心地よく沈み込んでいく感じだ。ここでの眠りは、いつもそんな記憶しかない。胎児に戻って、羊水のゆりかごの中で安らいでいるように。でもこの夜は、一条の光と一つの声が、この暗く暖かい空間に入り込んできた。
『ジャスティン・ローリングスさん……』
 声が遠くから響いてくる。清澄な、柔らかい、雨だれのようなコントラルトの響きは、まるで銀色のベルが低く鳴っているような印象だ。この声は、以前にも聞いたことがある。夢の中で聞こえた、『天の声』だ。
(あなたは誰ですか?)
 僕は意識の中で問い返した。そして半ば無意識に続けていた。
(遠い昔に聞いた、そしてアリステアが言っていた不思議な声は、あなたのなのですか?)
『ええ』声は、ゆっくりと答える。『姿を現せないのが、残念ですけれど。今の私は、すでに実体はありませんから。それに以前の場合も声だけで、お目にかかれませんでしたね。あの方が目覚めないと、私も具現化ができないのです。その時に、改めてお目にかかりましょう』
(あの方って誰ですか? 目覚めって?)
『二元論を知っていますか?』それには答えず、声は静かに語り続けた。『万物はすべて、陰と陽とで成り立っています。電極にもプラスとマイナスがあり、原子には電子と陽子があり、光には影があり、紙やコインには表と裏があります。私もあなたも、陰の立場に生まれたものです。しかし、どうか字面の印象だけで、受け取らないでください。二元論は善悪とは違います。男と女のようなものです。もしくは、監督と俳優の関係でしょうか。私もあなたも基本的には、行動する立場にはない。しかし、時おり捻じれが生じるのです。たとえば私たち影は、最初のグランドパージには会う。でも、二度目は見守っているだけです。逆に陽の立場の光たちは、最初はやりすごします。そして二度目に遭遇するのです。先行して起こる、このタイムトリップもそうです。わたしもかつて、あなたの立場にいた時に経験しました。だから今は、こうして見守っているのです。でも、彼らは違います』
(どういうことですか? 彼らって、誰ですか?)
 僕は漠然と問い返した。しかし、答えはなかった。暖かい闇と静寂が心地よく僕を包み、さらなる深みへ誘っていこうとしていた。

 目が覚めると、七時を過ぎたところだった。日が昇るところで、窓の外にうす紫に染まりつつある空が見える。でも僕が一番、早起きというわけではなかったようだ。昨夜と同じように、寝間着のままのエアリィが窓のところに佇んで、外を眺めていた。遠くを見ているような表情で、僕に気がつかないらしい。そばへ寄って肩を叩くと、彼は少し驚いたように振りかえった。
「おはよう。おまえ昨日から、ずいぶん外ばかり見てるなあ」
「おはよ。うん。ひょっとして、そろそろ見納めかもしれないからさ。今日は晴れてるね。ドームごしでも、空がきれいに見えるよ。ここのニューヨークも、やっぱり同じような夜明けの色してるって、なんだか不思議に思ってたんだ」
 エアリィは少し肩をすくめて、窓に背を向け、僕を見た。
「ずいぶん早いんだなぁ、ジャスティン」
「そういうおまえこそ。いったい何時に起きたんだよ」
「十分くらい前かな。六時五十分くらい。なんか変な夢見ちゃって」
「また、物騒な夢でも見てないだろうなあ。あのバスの中で見たおまえの夢って、結局正夢っぽいじゃないか」
「あれとは違うよ。あれはもう、本当に二度と見たくない……」
 彼は再び窓の外へ目をやった。そして視線を動かさないまま、言葉を継ぐ。「けど今もさ、なんか変な気分なんだ。怖いんじゃないんだけど、なんだか……」
「どんな夢を見てたんだ?」
「笑わない?」
「保証はしないけどね。まあ、話してみろよ」
「最初は、真っ暗だった。そこへ、声が聞こえたんだ。『こんにちは』って、女の人の声が。『こんにちは、もう一人のわたし。不思議なものですね。こんな形で会うのも』って。え、なに?って、最初はわけわからなかったけど、なんか懐かしい感じがして、意識の中で、手を差し伸べてた。向こうからも、手、ていうか、光が伸びてきて、その光が手に触れたとたん、パチンって何かがはじける感じがして、次の瞬間には、まったく別の風景の中にいたんだ」
「へえ。どんな場所なんだ?」
 エアリィはしばらく答えず、チラッと僕を振りかえった後、再び窓の外に目をやった。
「すごくきれいだけど……変なとこだった。一面水色の花が咲いてる、緩やかな丘が広がってて、金色の幹をした木がちらほらあって、ものすごく広々とした景色だった。空は緑がかった明るい青で、白い雲が浮かんでて。けどさ、太陽が二つあるんだ。白とオレンジの。それがお互い、ちょっと離れた距離にあって、二つの光が微妙に重なって見えるんだ。僕はいつのまにか子供になってて、花畑の中に座り込んでた。それも、たぶん女の子。それで誰かがそばにいて、一緒に遊んでるみたいな感じだったな。そっちはたぶん男の子で、茶色のまっすぐな髪と緑の目をして、紫と青の中間みたいな服を着てた。その子は僕のことを、違う名前で呼ぶんだ。目が覚めたらどうしてだか、その名前は思い出せなくなってたけれど。でも僕は、それが自分の本当の名前なんだって思ってた。いや、たぶん名前っていうか、愛称だけど。僕は、すごく幸せな気分になってた。無上の幸福感って感じで。ああ、帰ってきたんだなあ、なんて、ものすごくほっとしたような、有頂天な思いがした。丘のてっぺんには、透明な光る神殿みたいな建物があって。僕は花畑の中にダイビングしたりして。それも空に浮かび上がって、ふわりと落ちるんだ。花を潰さないように。ちっちゃな白い、耳のないウサギみたいな動物が、花の中からぴょこんと顔を出したりして、それがすごく人懐こくて。遊んでいるうちにお腹がすいたから、咲いてる花をつまんで食べたんだ。それが最高においしかった。甘いんだけど、砂糖や蜂蜜の甘さじゃなくて、なんて言うか、ふわっとエネルギーの塊が身体の中に入って、浸透してくみたいな感じで」
「はあ……?」
「なんか呆れてない、ジャスティン?」
「ああ」僕も思わず苦笑して、頷いた。「予想以上に、とんでもなく変な夢だな。まるで桃源郷みたいじゃないか? ちょっと危ないんじゃないか。ミックに話してみろよ。精神分析させてくれって、言われるぞ。さもなきゃ、あの世に片足をつっこんだみたいじゃないか。ぞっとしないな」
「ま、あそこは天国じゃないと思うけど、自分でも目が覚めて、そう思ったよ。ちょっと、やばいなあって……」エアリィは小さくため息をついて一瞬黙り、そして言葉を続けた。「僕は時々、妙な夢見るんだ。自分でも、すごく変だって思うような。もしかして僕自身が変なのかなって、疑ってるんだけど。何がどう変なのかって、深く考えたくはないけどさ。僕はたぶん、他の人と少し違う。それって、特殊体質のせいなのかな。スタンディッシュ博士――僕の検査に立ち会った主任さんが、そう言ってたから。二回目の検査の時に」
「まあ、そうなのかもしれないな。おまえと知り合った頃は、あまりにいろいろ桁外れすぎて、僕も相当ぶっ飛んだからな。今じゃ慣れたが。そう……その話は、僕もここの人に、ちょっと聞いたな。おまえは超人遺伝子の持ち主だって、その人は言っていたんだ。だからあれだけ人間離れしたことが、あっさりできるんだろうな。僕からすれば、正直少しうらやましいと思うよ」
「なんで? やだな、超人遺伝子だなんて。人間離れしてるなんて、言われたくないし。まあ、よく言われることは、たしかだけど。『おまえ、ホントに人間かよ?』とか『おまえ、人間じゃないよ』なんて。けど、そう言われると、ものすごくドキンとするんだ。うそだろ? 僕だって、人間だよって……相手は別に悪意があるわけじゃないって、わかってても、その台詞だけは、やだな。僕は自分じゃ人間のつもりでいるけど、ほんとは違ったり、なんてこと、まさかないよなぁって、思わず悩みたくなったりするし」
「おまえが気にするなら、僕は出来るだけ言わないよ。でもさ、その台詞はたぶん相手にとって、八十パーセントくらいは、ただ感心しているだけだと思うよ。残りはジェラシーかな。本気でおまえを人外だと思ってるやつなんて、いないさ。でも、おまえが人の言葉に傷つくなんて、ちょっと意外だったな、エアリィ」
「僕をなんだと思ってんだよ、ジャスティン。よっぽど無神経な鉄面皮だとでも、思ってたわけ? ひっどいな、その台詞!」
「違うよ。おまえは気丈だし楽天的だし、めったなことじゃ動揺しないからさ。ここへ来てからも、おまえ一番落ち着いてただろ。後から考えたら。僕らの中じゃ一番若いのにな。だから、細かいことは気にしないかと思っただけだよ。怒るなよ。悪かった」
「怒ってやしないけどさ。それに、ホントに自分が人と変わってるってことはたしかなんだから、言われても、しょうがないのかもしれないけど……」
 エアリィは一瞬沈黙したあと、窓枠の上に両腕を組み、外を見つめて言葉を継いだ。
「けどさ……なんで僕って……ここにいるんだろう? ジャスティンはそんな感じって、したことない? 不思議だなあって……」
「ああ、僕も、もちろんそう思ってるよ。ここに来て以来」
「違う。ここって、この未来世界じゃないんだ。昔から漠然と思ってたんだ。だからなのかもしれない。ここへ来たこと自体は、さほどショッキングなことじゃない。ただ、舞台が変わっただけだからって、そう思えたのは。ほら、博士たちに、なぜ二一世紀に帰りたいかって聞かれた時、みんなは『あの世界が僕らの故郷だから』って言ったじゃない。でも僕は、あれ、ホントにそうなのかなって、なんか一瞬、変な感じがしたんだ。故郷……僕の故郷って、どこだろうって。今朝、夢から覚めて、また強烈に感じたんだ。なぜ僕はここにいるんだろうって。帰りたい。でも、帰れない。そう思ったら、涙が出そうになった。僕は一人だ。寂しい。切ない。小さい頃から、ずっと心の奥で、そう思ってたのかもしれない。そう思ったら、ホント……あ、やばい。ホントに泣けてきそうな気がする」
 エアリィは本当に一瞬、泣き出しそうな表情になった。困惑と悲しみ――それは僕が初めて見た、彼の弱い部分。その表情は一瞬だけで、窓の外に視線を投げたあと、再び僕に向き直った時には消えていたが、僕はふっと安堵感を覚えた。アーディス・レインもすべてにおいて、スーパーマンなわけじゃないのだな、と。僕は微笑し、その背中を軽くぽんと叩いた。
「いや、帰れるさ、大丈夫。それに、おまえは一人じゃない。僕らがいるじゃないか」
「うん……まあ、そういう意味じゃないとは思うんだけど……ありがと」
「あんまり無理するなよ。おまえもまだ十四なんだし、それで、こんな異常な体験をしてるんだ。しかも、今日帰れるかどうかの結論が出るんだ。誰だって緊張して神経が高ぶりもするし、変な夢の一つや二つ、見るだろうよ。おまえは、表面では自覚してないだけなんじゃないかな」
「無理はしてない……と思うよ。多少の不安も、ないわけじゃないけど。ただ、ここからは帰れるんだろうなって、そんな気はするんだ、昨日の夜に言ったみたいに。そういう点じゃ、僕は心配してないんだ」
「じゃあ、どうして帰れないって思うんだ」
「わからない」エアリィは再び首を振り、窓の外に視線を投げて沈黙した。
「そういえば僕も昨夜、変な夢を見たんだ」僕は軽く頭を振り、少し話題を変えようと――まあ、同じ夢つながりだが――言った。「いや、見るって言うと、正確じゃないかもしれないな。声だけしか聞こえない夢だったんだから。おまえの夢も最初は声だけだったと、さっき言っていたが、僕のは最初から最後まで声だけだったんだよ。視覚は一切なくて、ずっと真っ暗だった」
「へぇ、そうなんだ。映像なし?」
「そう。なぜ映像なしなのかは、わからないけどね。ひょっとしたら、生まれつき目の見えない人だと、ああいう感じの夢なのかなって思えるくらいさ。おまけに言ってることは、全くわけが分からないんだ。覚えているのは『二元論』がどうとかいうくらいさ」
「二元論? 中国の陰陽道みたい。なんか、ミックが喜びそうって感じ」
「たしかに、そう言うのが好きだからなあ、彼は」
 僕も笑った。そしてしばらく、僕たちは無言で朝の空を見ていた。ドームごしの空は、まるでいつも窓ガラスの向こうにあるように見える。
「外から来ているような夢の中の声って、なんなんだろうな」
 僕はあの声の内容を思い出しながら、思わず言った。「前にも経験したんだ。誰かはさっぱりわからないけれど、妙に荘厳で、でも清澄な感じがする声が響いてくるのを。今まで二度ほど、それを聞いたよ。妙に印象的だけれど、わけのわからない夢の終わりにね。昨夜はその声と、僕は話したんだ。でも、いったい僕は誰と話したんだろうな」
「その人は女の人? 男の人?」
「声だけではわかりづらいっていうのは、おまえなんか、まさにそうだけどな、エアリィ」
「どうせ僕は女っぽいよ。見た目と声は」
「ハハ、冗談だって。腐るなよ。でもあの声も、ちょっと中性的なんだよな。でも……どっちかっていうとあれは、男の人みたいな気がするな」
「男の人か。ふうん。じゃあ……」エアリィは言いかけて、言葉を飲み込んだように、窓の外を見ていた。
「心当たりがあるのか?」
 僕はそう聞いたが、彼は微かに首を振り、僕を見た。
「ユングの夢分析だと、そういう天の声ってのは、普遍的無意識や自分の中のセルフ、自己からのメッセージなんだっていうけどね。でも、その声は違うと思う。それに僕も、たぶん同じ声を聞いてると思う。その声が、最後に僕に呼びかけたんだ。『あの頃は至福の時でしたね。でも記憶はずっと残りますよ、このように。そうでしょう、もう一人のアルフィアさま』って……そう、アルフィアだ、あの夢に出てきた名前は」
「はあ? なんだ、それ」
「いや、なんでもない。もうやめた、夢の話は!」
 エアリィは苦笑して頭を振り、ついで肩をすくめた。「シャワー先使っていい? 寝間着のままでうろうろしてるのも、なんだから。九月にステュアートの家に泊まった時、朝うっかりパジャマのまま下へ降りてったら、ミル小母さんに叱られちゃったしね。『あら、アーディス。あなたはいつも朝パジャマで居間へ降りてくるの? だらしがないわよ。起きたら、すぐに着替えなさい。あなたがそんなだと、エステルに示しがつかないでしょう?』て」
「いいよ。それにしても、まるでホプキンスさんが言いそうな台詞だな。僕も子供の頃、言われたことがあるよ」
 僕は肩をすくめながら、頷いた。同じ注意でも家政婦さんに言われるのと、血の繋がらない継父のお姉さんに言われるのとでは、かなり受け止め方は違うだろうなと思いながら。エアリィの言い方に、苦さはまったく感じられないが。
 一人になった僕は、窓に歩み寄った。時代も場所も違うニューヨークでも、たしかに夜明けの色は同じだ。不思議な気分だった。もっとも、僕は元の時代でニューヨークへ行ったことはない。行くはずだったというだけだ。
 ニューヨーク公演は、どうなったのだろう。その次のボストンも、無理だろうか。あの声は、何を伝えようとしていたのだろう。この世界は、本当に現実なのだろうか。僕たちの世界は、本当にもうすぐ終わりなのだろうか。僕たちは、ここから帰れるのだろうか。それぞれの思いがジャグラーの玉のように、頭の中をぐるぐると旋回する。最後の質問の答えは、今日出る。でも、どうやって待っていたらいいだろう。

 そのうちに、全員が起き出してきた。シャワーと着替え、そして朝食を済ませてまもなく、キャビネットの端末が音を立てた。画面にメッセージが現われている。
【本日十三時より、大会議室に全員来てください。五分前にお迎えに行きます】
 心臓が跳ね上がった。いよいよ来たか。とうとう帰れるか、とどまるかの結論が出る。イライラ待っているのは耐えられない。午前中はいつものように公園に行き、ここの人たちとドッジボールやキャッチボールをして遊んだ。完全に忘れ去ることに成功したとは言えなかったが、少なくとも落ち着かない熊のように部屋をうろうろしているより、遥かに時間がたつのが耐えやすく感じたことは、たしかだ。仕上げにジムへ寄って、日課の運動をこなした。
 部屋へ帰って昼食を食べようとしても、ちっとも食欲を覚えなかった。お昼は会議の後で食べた方がよさそうだ。飲み物だけ、かろうじて喉を通った。他のみなも同じようだったが、初コンサートの時と同じく、エアリィだけは「おなかがすいた」と、パンとフルーツをつまんでいた。
 最初の通知通り、午後一時五分前に、マネキン型のメイドロボットと銀色アンドロイドが一体ずつ、迎えにやってきた。結論が出るのは怖い。でも、宙ぶらりんのまま毎日イライラと過ごすよりも、たとえ最悪の結論が出ても、今後の身の振り方がきちんと決まった方がいい。僕は覚悟を決めた。みなもきっと同じだろう。僕らは顔を見合わせ、頷きあった後、機械仕掛けの案内人に導かれて、隣の第一庁舎、最上階一つ手前の四四階にある、大きな会議室に足を踏み入れた。

 広い部屋だ。調度も大統領室のホールと同じくらい贅沢な作りで、ビロード張りの赤い椅子もふわっとしているけれど、身体が妙に沈みこむことはなく、しっかりと支えてくれる。四角く並べられた大理石張りのようなオフホワイトのテーブルの前に、二十人ほどの人が並んで座っていた。奥の正面、一番上座がタッカー大統領、その隣がアンダーソン市長、その周りに十人ほどいる見知らぬ人たちは、政府を運営する委員会のメンバーと、他の四都市――オタワ、トロント、モントリオール、ボストン市の市長さんらしい。それからゴールドマン博士とパストレル博士、そして最後に行われた社会科学者たちとの面接で会った、主任科学者のライト博士。僕は会ったことはなかったが、何度か名前を聞いた生理学者主任のスタンディッシュ博士(座席の前の名札で分かった)。そしてシンプソン女史。末席には、アイザックとヘンリーの顔も見える。
 僕たちが席に着くと、全員が一斉にこっちを見た。タッカー大統領がアンダーソン市長に頷いてみせ、それを受けて市長が立ち上がった。
「来たね。では、あいさつ抜きで本題に入ろう。科学者たちの総合調査の結果が出たんだ。その結果が真実であることも確認された。結論から先に言おう。君たちは元の時代に帰っている。それは間違いなく事実だった」
「え?」僕たちはお互いに顔を見合わせ、次の瞬間、躍り上がって声を上げた。
「じゃあ、僕たち……帰れるんですか?!」
「そうだ。それも、帰れるなどという生易しいものではなく、ぜひ帰らなければならないのだ。そうしないと、私たちの世界の存在が、危うくなってしまうのだから。その点について君たちに詳しい説明はできないが、さしつかえのない事実だけを、それも絶対に必要な点だけを、二、三話しておこう。君たちが昨夜ゴールドマン君の甥たちと話していたという『アイスキャッスルで当日コンサートを開いた楽団』、それは紛れもなく、君たちだ。『始原の三賢者』も、間違いなく君たちの近親者たちだ。君たちの直系子孫も、ちゃんとこの世界に存在している。何人かは重要な役割をはたしている。だから君たちには、もとの時代に帰ってもらわなければ困るのだ」
「帰れるのなら……帰れるのなら、こんなにうれしいことはありません」ロブの声は(喜びのあまりだろう)、上擦っていた。「でも、どうやって帰れるのですか?」
「その鍵はゴールドマン君が持っている」
 市長と入れ替わりに博士が立ち上がり、手に持った封筒を僕らの前に押しやった。
「この手紙を見たまえ」
 それは、黄色に変色した紙の封筒だった。ここの世界で、プラスティックじゃない紙製品を見たのは初めてだ。四隅に、ほとんど消えかかったようなピンクの花模様がある。手紙は開封されていた。たぶん何度か読まれたのだろう。封筒の上の、ほとんど退色していないブルーのインクで書かれた宛名を見て、僕は目を疑った。
【わが父、ジャスティン・ローリングスさま、そして一緒に来た五人のみなさまへ】
 父? 僕は子供なんか持った覚えはないのに――。
「これは私の家のファミリートレジャーボックスという、家族の証を入れておく箱の中にあったものなんだ」ゴールドマン博士が説明を始めた。
「この手紙はその中の、平たい緑色の小さな箱の中に入っていたんだが、タイマーロックという時限式の鍵がかかっていて、開かなかった。しかし、そのロック期限が昨日で解けていた。昨日の夕方、タッカー大統領が歴代大統領の申し送りファイルを詳しく調べていらっしゃる時、私の家の箱を開けよという記述にぶつかったらしい。大統領は連絡を下さり、私は開けた。中には、その手紙が入っていた。その前に甥のアイザックと遠縁のヘンリーが、アイスキャッスルと始原の三賢者に関する君たちの話を持ってきていた。それまでの逆行調査により、君たちの直系子孫らしい人々の存在がすでに確認されていたが、その事実とこの手紙の内容が一致することが、最後の一環になった。手紙を書いたエヴェリーナ・ラズウェルという女性は、新世界の黎明期から創立期にかけて生きていた人で、わがゴールドマン家の、九代前の先祖にあたる。建国宣言の五年近く前に亡くなっているが、その直前にこの手紙を書いたらしい。読んでみたまえ」
 封筒を開けると、わけのわからない図や数式がいっぱい書かれた色褪せたブルーの紙が数枚と、便箋三枚に書かれた手紙が出てきた。元は薄いピンクに花柄を散らしたものだろうと思われる色褪せた紙の上に、鮮やかなブルーのインクで、女性らしい丸みを帯びた文字で、手紙は綴られていた。

【お父さん、はじめまして、ではないですが、あなたはきっとこの手紙を読んでいる時には、私のことは知らないでしょう。他の五人のみなさんも。
 私の名前は、エヴェリーナ・ローリングス・ラズウェル。以前の世界の終焉から、七年後の九月に生まれました。私の父は私が子供の頃に亡くなりましたが、その父が生前に書いていた記録を、私は十四才の誕生日に読むことになりました。私は驚きながらも、やがて時が来たら、私自身がこの手紙を書かなければならないことを悟りました。あれから四十年以上の年が過ぎ、病の床で自分の一生の終わりを間近に迎えた今が、その時なのでしょう。

 二○二一年十一月二日、未曽有の大災害が起き、人類はわずか八千人を残して滅亡した事実を、この手紙が読まれる頃には、父たちみなさまも、もう知っていることと思います。三百三十年も時を飛び越えたその理由は、あなたがたが新世界の発端となるため――唯一の救いの地に、ちょうどそのとき人を集めること。完全な滅亡から救い、一筋の希望となるために、この手紙が読まれる頃にはすでに歴史となっている事実がみなさんの知識となることが、必要だったからです。
 知識を得るだけでは、世界は救えません。元の時代に帰らなければ、環は閉じないのです。その手段は、逆方向のタイムリープしかありえません。
 新生紀元二四八年十一月十七日の二二時ちょうどに、最初に彼らが遭遇したタイムトンネルのようなものの、未来側の入り口、二四世紀側の入り口が出現します。場所は、最初に来た地点から北に三度北東よりに、三・七キロ離れた地点です。みなさんは最初に見たのと同じ赤いエアロカーに乗り、そこに飛び込むことになります。出た先は、再びみなさんのなじみ深い、昔の世界となるでしょう。

 みなさんの時代に戻ったら、お願いしたいことがあります。歴史のシークエンスを壊さないため、新世界が無事に設立されるため、これだけはやってほしいのです。まず新世界での体験は、カタストロフが実際に起きるまで他言しないこと。ジョージさんとロビンさんのスタンフォード兄弟は、お祖父さんや今後の責任者になるはずのお父さんに働きかけて、アイスキャッスルの建設位置を現在のプリンスチャールズ島、西経七六度、北緯六七・五度、という正しい位置へ持っていってください。実際にしなければならないことは、簡単です。もとの世界へ帰還し、正しい時の流れに戻ってから三日後、みんなで夕食をともにしている時、アイスキャッスル建設の話が出ます。予定地は本土に建てるつもりだったのが、気象条件その他の障害で暗礁に乗り上げたと話すはずです。その時『本土にこだわらないで、島でもいいんじゃないか』と、言うだけでいいのです。後は正しい結論に自然に導かれるでしょう。飛行機の離着陸に適した気流の安定地域であることなど、立地条件に恵まれていることが、その後の調査で明らかになるはずですから。
 マイケル・ストレイツさんは同じ時期に、その頃国土開発企画庁長官になった父親との間で、同じ話題が出ることと思います。その時、お父さんは北方開発計画の促進と、ロシアや中国、中東などの紛争地域での情勢が不安定なことを理由に、アイスキャッスル自体をいざという時のために大規模な核シェルターとして、設計され運営されるように配慮しようかと思うが、どう思うかと意見を請われるはずです。ここで、ただ同意すればいいのです。その必要性をさらに少し説いておけば完全でしょう。そうすれば非常時のシェルターという設定ゆえに、必要なさまざまな設備を整えることもできます。
 アーディス・レイン・ローゼンスタイナーさんと、それからお父さん――ジャスティン・ローリングスさんは、この経験を決して人に話さないということ以外は、さしあたって何もすることはありません。ただミュージシャンとして活動し、十一年の年月を過ごして、当日に始原の三賢者たちをアイスキャッスルにつれてきてください。お父さんの方は問題がないはずですし、アーディスさんも難しいことではないと思います。
 ロバート・ビュフォードさんは同封の書類を保管して、カタストロフの後、オタワに移動してから、それを三賢者に見せてください。後は彼らがそれを解いてくれるはずですから。これはロボットを作る上で必要な、核となるパーツと回路の設計図です。それにステュアート博士の新コンピュータ理論と、アランさんのプログラミング能力、そしてジョセフ・ローリングスさんのハードウェア知識が加われば、ロボットの原始モデルが完成できるはずです。あなたにこれを頼むのは、管理者にある立場上、ものの保管には適していると思うからです。お願いいたします。

 運命の日、世界は突然崩壊しました。それからのことは、詳しく書きたくはありません。あまりにも悲惨なことです。ただ生き残った人々が多くの苦難と絶望の中から、私たち後世の新世界のために希望をつないでくれたとだけ、書いておくことにします。
 私は二五三年後、父たちが新世界を訪れる時のために、この世界が無事に確立されるために、この手紙を書きました。従兄の息子の一人が専用の箱を作ってくれましたので、私はこの手紙をその中に入れ、時が来たら封印が解かれるように、二番目の娘ヴィクトリア・ラズウェル・ゴールドマンに託すことにします。やがて時が来たら、彼女の子孫がこれを再発見するでしょう。

 私の記憶の中にかすかに残る父に対して、話したいことがもっとたくさんあります。でも父が再びこの世界を訪れる時、私たちが生きてきた過去は、父にとってまだ未来なのです。未来を知りすぎることは、つらいことです。喜びもあるけれど、何よりも大きな悲劇が、人類全ての上に待ち構えているのですから。私は日記から、父の思いを知りました。でもこの手紙を読む時には、まだ何も知らない父やみなさんに、私は何を書くべきか、言葉が見つかりません。ただ、その世界での幸せを大事にしてください。その恐れも、嘆きも私は知っているけれど、同時にあなたがたみなが勇気を持ち、希望を持ち続けてきたことも知っています。私は父の娘として生まれたことを、誇りに思っています。

 あなたがたが無事に二一世紀の世界へ帰り、それぞれの責務を果たし、三三〇年に渡る大きな時の円環を閉ざした時、私たちの新世界は初めて確立されるのです。私はその勇気と努力、涙に感謝をし、祈ることしかできません。そしてどうか私たちの未来に、多くの幸福と平和がありますように。

      SS暦六五年十一月十七日
        エヴェリーナ・メイ・ローリングス・ラズウェル】

 僕は手紙を何度も読み返した。最後の方に丸い小さな水滴の跡があり、文字が少しにじんでいる。彼女はこれを書いて泣いたんだ――そう気づいて、軽い衝撃を感じた。まだ見ぬ娘が、どんな思いでこれを書いたのだろう。その涙の跡に、世界が崩壊してから、彼女がこの手紙を書き残すまでの間の思いを、かいま見たような気がした。
 自分の娘と言われてもピンとこない、あと十数年後にこの世に生まれるはずの我が子が人生の終わりに書いた手紙。それをまだ十七才の僕が、それから二五〇年以上先の世界で見ることを、彼女は知っていた。不思議な時間のねじれの中で。まるでメビウスの輪のように時間は再び裏返って繋がり、過去へと戻るのだろうか。
 この手紙の行間には、まだ書かれていないその間の歴史が、たくさんありそうだ。未来は未来が語る。今の僕には知る必要のない、やがて時がたてば教えてくれる多くのことが。それでも僕の頭は、勝手にいろいろなことを考えてしまっている。世界崩壊から七年後というと、十八年先――僕が三五才の時に生まれる子供だ。少なくとも僕は、それまでは生きているわけだ。子供の頃に死んだと書いてあるし。その時生まれた娘が子供の時というと、僕はいくつまで、この子の成長を見守っているのだろう――?
 とんでもない! 自分の寿命が本当にいつ尽きるかなんて、そんなことは知りたくない。自然終息寿命だっていやなのに、正確な自分の死期を知るなんて。それに、そのエヴェリーナという娘の母親は、ステラだろうか? 僕の希望はそうあってほしいけれど、そんなことは、それこそわからない。手紙に母親の言及は何もなかった。なぜだろう? ただ単に重要なことじゃないと、彼女が判断したからか。それとも、未来を知ることは、僕にとって都合が悪かったんだろうか――?
「SS暦というのは、新世界が正式に発足するまでの間、暫定的に使っていた暦らしい。オタワに移住した翌年がSS元年で、SS七〇年の二月からNA暦が始まっている。その他のことは、改めて私たちが説明するまでもないだろう。すでに必要なことは、みなそこに書いてあるのだから」
 タッカー大統領の声で、僕は我に返った。
「ひとつ、はっきり言えることがある。君たちのタイムトリップは単なる偶然の悪戯ではなく、それなしにこの新世界はありえないという、必然的な理由があったのだ。私たちの新世界が完全に確立されるためには、君たちが無事に過去へ帰り、この手紙に記された通り、各自の責務を果たさなければならない。君たちがここへ来る直前から、帰還するまで、この三三〇年の時間は輪になっていたわけだ。この手紙の日付にある君たちの帰還予定日は、明日だ。明日の夜、君たちが帰り、この時の円環が閉じられた時、初めてこの世界は完全に存在することができるのだよ。それまでは、この新世界はまだ確定ではなかったのだな。そのことを知って、私たちはみな非常に驚き、畏怖を感じている」
 大統領は僕らの方に視線を合わせ、一人ひとりゆっくりと見ていた。
「我々の人知を超えた何物かが定めた運命の不思議さが、この時の円環の中に感じられるのだよ。君たちが、新世界の創立を導く者だったということに」
「新世界の創立を導く者……?」
 僕は言われた言葉を繰り返し、次の瞬間、こめられた意味の重さにぎょっとした。そんなばかな……そんなことが……重すぎる。そんな重責を、負う自信なんかない!
「すべては、あらかじめ定められていた……そう、百年前オタワから、ここニューヨークに遷都したわけも。それも、歴代大統領の申し送りだったようだ。まだ人口一万三千人をやっと超えたくらいの規模だったオタワから、遠く離れたこの場所に町を建て、大型シャトルを作り、人口の半数をここに移動させて、以降の首都とした。それも、君たちがここに来るから、それゆえだったようだ。オタワでは遠すぎるからね」
 タッカー大統領は相変わらず静かな口調で言い、少し身体を横に引いて、言葉を続けた。
「君たちに、もう一つ見て欲しいものがあるんだ。私の後ろの壁にあるパネルをごらん」
 正面の壁に大きく掲げられたパネルが、はっきりと目に入ってきた。金色の枠で縁取りされた白地の中央に、絵が描いてある。左側には、天使か妖精のような子供。青い髪をなびかせ、柔らかい色合いの白い衣装をつけ、こころもち横向きに立ちながら顔は正面を向き、何かものといたげな微笑を浮かべている。まっすぐ横に伸ばした左手は、ほぼ背丈と同じ大きさの、金色の星に触れていた。星の中央部には、二つのルーン文字のような赤と青の不思議なマークが、交差するように入っている。この図案の下に、ロイヤルブルーの文字で何か書いてある。こう読めた。
『THE NEW WORLD―NEO MUNDUS SOCIETAS』
「これは?」
「これが、我々新世界の国旗なんだよ」
 大統領は答え、もう一度僕ら一人一人に視線を据えて見たあと、続けた。
「そしてこれが、君たちの音楽集団の、シンボルマークでもあったのだ。今国名が書いてあるところに、君たちのバンド名が飾り文字で入っているのが、オリジナルだということらしい。それが受け継がれて、この新世界の国旗になったいきさつがあるというんだ」
「ええ!?」
 これが僕らのバンドロゴ? デビューする時、何かかっこいいロゴはないかと話したことはある。でもあの時は良いアイデアが浮かばなかったし、時間がなかったこともあって、特定のロゴマークを設定することは出来なかった。この可愛いくも不思議な図案が、僕らのロゴになる? なんだか妙な気がするけれど、記録がある以上、そうするしかないのだろう。図案自体は悪くない。でもこれが、やがて新世界の国旗になる――?
 そこまで考え至ると、その事実の重さに、またもや押しつぶされそうな気がした。僕らが導く世界――たしかにそれを象徴する。でも、そんなとんでもないことが──。
「そう構えなくとも、大丈夫だよ」大統領は穏やかな口調になって、微笑した。
「パストレル君の言い草ではないが、おそらく運命が君たちを選んだのだろう。君たちには、それだけの強さがあるのだよ。自分を信頼したまえ。ここに君たちが滞在するのも、あと三十時間足らずだ。もとの時代へ帰ったら、ここの記憶はできるだけきれいさっぱりと忘れてしまうといい。もちろん、やることはやってもらわないと困るがね。それ以外は意識の底にしまうことだ。そうして、残された時間を楽しむといい。君たちにとっては、貴重な猶予期間だからね」
「そう。十一年間と言えば、けっこう長い時間だ。その間に君たちのここでの記憶も、だんだんと薄らいでいくだろう。夢かもしれないと思える時も来るはずだ。私たちはそれでもいいと思っている。ただ定められたことだけ、守ってくれればいいんだ。とくに音楽会を開くのは、忘れるんじゃないぞ」
 アンダーソン市長は、どことなく悪戯っぽそうな笑みを浮かべていた。そして僕に向き直った。「ジャスティン・ローリングス君。その手紙に書いてある通り、君は記録をつけておく必要があるな。君の娘さんに、その手紙を書いてもらうために。なに、大雑把なあらすじでも何でもかまわないが、その手紙の文句だけは、しっかり書く必要がある」
「はい……」僕は頷いた。「日記はつけているんですが……毎日じゃないんですが、それをまとめて、ノートに記録しておきます。手紙は……写させていただけませんか?」
 僕はロブからメモ用紙とペンを借り、内容を写した。元々文章を書くことは嫌いではないけれど、この役目はちょっと気が重いかもしれない。まだ見ぬ娘へ向けての記録か。そう思うと不思議だ。いや、もしこれからの世界が限られているのなら、自分が生きた記録、その証を次の世代に残しておくのも大切なことだ。自分のために。
 会議の終わりに、アンダーソン市長は僕らに向かい笑顔で、しかし真剣な口調で言った。
「私たちみなは、君たちに好意を持っている。風変わりだが、新鮮だ。それに君たちの心は、旧世界の弊害に犯されてはいないようだ。この二週間、私たちも結構楽しい思いをさせてもらったよ。君たちと別れなければならないのは、私にも少々残念だが、仕方がない。そうするより他はないのだからな。君たちの時代でも、その精神の輝きが失われないことを願おう。そして君たちが限りある未来の中でも、幸せになれるよう願っているよ」
「市長が私の言いたいことを、すべて仰ってしまいましたね」
 ゴールドマン博士は苦笑を浮かべ、言葉を継いだ。「私が付け加えることはあまりないが……私は君たちに出会えて、よかったと思っている」
「過去へ戻ることは、重大な宇宙論理の抵触だが」パストレル博士は重々しい口調で言い出した。「しかし、宇宙が君たちに過去への逆行を許すのなら、おそらく君たちがそこでどんな行動をしても、必然的にこの結果へ戻ってくるだろう。私はそういう点、心配はしていない。君たちも、出来るだけ気楽に構えなさい」
「はい」
 それぞれの人の善意が言葉の間から伝わってきて、思わず涙ぐみそうになったほどだ。
「色々ご親切に、本当にありがとうございます。みなさんのことは忘れませ……」
「さっさと忘れたまえ! 大統領もそう言われただろう。私も言ったはずだが」
 アンダーソン市長が陽気な調子で遮り、出席している人たちの間に小さな笑いが起きた。
「ありがとうございます!」もうそれだけしか、言葉がなかった。
 この世界での経験も、もうすぐ終わりだ。明日の夜、僕たちはもとの時代へ帰る。十一年間の猶予つきの、未来の途切れた世界へと。でも、これからどうなる所へ帰ろうとしているのかなんて、考えたくはない。ここの人たちも、心からの親切で言ってくれた。早く忘れてしまえ、と。ここの記憶が薄れることは、未来の出来事への確信を薄れさせることでもあるのだから。でも、本当に意識から追い出せるだろうか? 猶予の十一年がたっていく間に、完全に記憶から消せるだろうか? たぶん無理だろう。意識の底に封じることは可能かもしれないし、何年か過ぎるころには、あれは夢だったのだろうかと思える時も、あるかもしれない。でも、すっかり消えてなくなることはないだろう。もう未来に対して、子供のように希望に燃えることも、無邪気に向きあうこともできない。いくばくかの恐怖が、必ず付きまとうだろう。ここへ来た最初の夜に見た夢の言葉のように、僕たちの無邪気な時代は、終わってしまったのだから。




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