The Sacred Mother - Part1 The New World

第二章   異邦人(2)




 でもすぐに、また壁にぶつかった。崖のような垂直の断層が行く手を阻んでいる。下りた分だけ上らなければならないのは当然なのだが、下りるより上る方が、遥かに難しい。二階の窓より高い段差。ここを登らないと先に進めない。でも、よじ登るには地層がもろすぎて、無理だった。
「木でもあれば、ロープの先に錘つけて引っかけて、上がれるんだけどなぁ」エアリィが崖の上を見上げながら言ったが、木らしいものはない。
「アクションゲームみたいだな、それは」ジョージが肩をすくめる。
「誰か一人でも上に行ければ……ロープを持っていって垂らしてくれたら、それを使って登れるんだが」ロブが眉根を寄せながら、上を見て考えているようだった。
「でも、どうやって上に行く? 僕もこんなに高くは無理だよ、たぶん」
「いや……本当に無理か?」僕は考えるまもなく、そう問い返していた。
「本気で言ってる、ジャスティン? これ、四メートルくらいあるよ」
 エアリィは崖に沿って手を伸ばした。たしかに普通に考えれば、オリンピックの選手だってできはしないだろう。でも期待をかけるとしたら、エアリィの人間離れさだ。人間技ではできないことでも、彼にはできる。勉強もスポーツも。だからこの場でも、もしかしたら、できるかもしれない。そうも思えたのだ。
「おまえ、前に天井のワイヤーに絡んだシャトルコックを取っただろう? このくらいの高さはあったぞ」
「あの時は、バスケゴールが足がかりになったから。でもここ、何もないし」
「いちおう、トライしてみてくれないか」
「ああ……うん。じゃあ、やるだけやってみるけど」
 エアリィは少し自信なさげではあったが頷くと、一度川辺で解いたロープを、もう一度右手首に巻きつけた。そして、「ちょっと助走がいるなあ」と、十メートルほど後ろへ下がってから、崖に挑み始めた。ぽん、とその場で小さく跳んでから、走って、踏み切り。そのジャンプは、まるで重力が消えたような高さだ。エアリアルのニックネームは、だてじゃない。上の地面に指が届いた。そのとたん、土がぽろっと崩れる。「あっ!」と小さく叫びを上げて、彼は落ちた。でも、そのままどすんと下へ落ちるようなことはない。途中の崖に手をつき、ポンと反動をつけて一回転、そのまま地面に降りた。
「大丈夫か?」と駆け寄る僕らをよそに、彼は、「ああ、そっか。一気に上がんなくてもいいんだ。こうやれば……」と、頭を振りながら呟いている。
 二度目のトライ。上の地面に手が届くまでは一回目と同じだ。でも今度は土をつかもうとはせず、ぎゅっと押し付けた。それを反動にして、ポーンと再び身体が舞い上がる。そしてくるっと一回転し、上の地面に降り立った。
「本当に上がっちゃったよ……」僕は唖然とするだけだ。言ってはみたものの、本当に出来るかどうか、僕も半信半疑だったから。他の四人も驚きに満ちた表情で、ため息をついている。
「わぉ! できた! って、痛!」
 ジャンプの反動で舞い上がったロープが、着地した後で肩から背中にかけて当たったらしい。エアリィは身体に絡んだ紐を手繰り、「なんか今日は凄くロープにいじめられてる感じだなぁ」と肩をすくめてから、下にいる僕らに声をかけてくる。
「で、みんなはこれにつかまって、上がってくるんだよね」
「ああ。だが、おまえ一人では負荷がかかるだろうから、もし上の地面に何か結びつけられそうなものがあったら、それに結んだほうがいいんだが」ロブが見上げ、答えていた。 「うーん。残念ながら、何もないや。岩もないし、切り株とかもないし。ほっそい小さい木はあるけど、草とたいして変わんなさそう。そんなのに結んだら、きっとさっきの潅木以上に悲惨なことになると思うよ」
「それなら、仕方がない。大変だろうが、そのまま手首につけていてくれ」
「おまえが落ちたら水の泡だから、しっかり踏ん張れよ、エアリィ!」ジョージも声をかけている。
「わ、きつそう、それ」エアリィは頭を振ったが、他に方法がないだけに仕方がないことはわかっているのだろう。彼は後ろへ下がっていった。同時にロープが少しずつ地面から上がっていき、一メートルくらいの高さになったところで止まった。上から声がした。
「一番軽い人から来てくれない? 最初は僕一人だし、今あんまり手に力入んないんだ」
 まあ、そうだろうな。川岸で、とんでもない綱引きをやった後だ。実をいえば、僕もいつもより握力がなくなっている。もともとエアリィの二倍くらい、握力はあるのだが。実際僕が彼にスポーツテストで勝てたのは、握力と背筋力、それに持久力だけだ。
「そうだな。もっとも、おまえが一番軽量なんだが……次はロビンか?」ロブが少し考えるように、一瞬間を置いてから答えていた。
「うーん、ロビンか。そっか……」
「ああ、でも僕、運動が得意じゃないから、上るのに時間かかりすぎるかもしれないし、君には負担かもね、エアリィ」当のロビンは、自信なさげだ。
「じゃあ、その次に軽いメンバーは……ジャスティンかな。彼に先に行ってもらうか?」
「ジャスティン、体重どのくらい?」と、エアリィが聞いてくるので、
「六三キロ――百四十ポンド弱くらいじゃないかな」と、僕は答える。
「ロビンは?」
「六〇くらいかな」
「うーん、体重差が七ポンドで、時間が倍くらいとしたら……やっぱ、ジャスティンから来てもらったほうが無難かな。あ、でも握力戻ってる?」
 そうはっきり言うなよ。おまえに悪気がないのはわかっているが、暗にロビンがとろいと言っているようなものだろ。あいつが傷つくじゃないか。
「一応、大丈夫だと思う。いつもよりはないけどな。じゃあ、僕から行こう」
 僕は苦笑しつつ、下がっているロープをつかんだ。断層の土は足をかけようとすると、ぼろっと崩れる。足場にするのさえ難しかった。いっそのことロープをたぐって棒登りのように上にあがったほうが早い。
「すぐ行くから、ちょっとだけ踏ん張れよ!」僕はそう声をかけ、思いきって登った。手に力はあまり入らないが、なんとか登れる。上の地面に手が届いた――僕は反射的にそれをつかもうとした。
「あっ、だめだって! そうやっちゃ!」エアリィの声がしたと同時に、地面の土がぼろっと崩れた。いきなり反動をつけて僕の全体重がかかったため、綱は勢いをつけて引っ張られ、彼も一緒に引きずられて倒れてしまったようだ。でもロープの長さに余裕があったので、エアリィは五メートルぐらい崖から離れたところにいたらしく、落ちずにすんでいた。ロープが、一メートルあまり下がっただけだ。僕は気を取り直して再び登り、地面をつかまずに押し付けて、這い上がった。上にあがったとたん、怒られた
「ったく、ドジなんだから、ジャスティン! 僕もそれで失敗したのに!」
「ごめん! 忘れてたよ! つい上がることだけに、一生懸命になってた。おまえ、大丈夫だったか? 怪我しなかったか?」僕は言い訳をせず、謝った。
「うん。つんのめって転んだけど、大丈夫」
「もう、ロープほどいていいぞ。あとは僕が支えるから」
 ロープを巻いた右手首から、血がにじんでいる。僕の体重がかかったために、こすれたのだろう。
「結構結び目固くなっちゃったから、解くの時間かかると思う。みんなが登ったら切ってもらうから、このままでいいよ」エアリィは首を振るので、僕は極力彼に負担がかからないように、手前で両手にロープを握った。そして、下に向かって声をかける。
「ロビン! あわてなくていいから、がんばってのぼってこいよ!」
「うん」ロビンは頷いて、唇をぎゅっと噛み、青ざめた顔でロープに手をかける。
 たぶん時間にして五、六分ほど奮闘したあと、彼もようやく上ってきた。
「ごめんね、二人とも! 迷惑かけちゃて!」ロビンは上がってくるなり、ぜいぜい息を切らしながら謝っていた。さっきの川での奮闘もあり、両手のひらはあちこちすりむけてひりひり痛かったが、僕は笑って答えた。
「気にすんな。上がってこれて、よかったよ」
「そうそう。予想よか早かったし」エアリィも、にこっと笑っている。
「うん……ありがとう」ロビンはほっとしたように息をつき、かすかに笑った。そして、「今度は僕もがんばるよ」と、僕らの前でロープを握った。
 三人になれば、いくぶん楽だった。ジョージは重さがあるけれど、上ってくるのはあっという間だ。四人になれば、さらに負荷は軽くなる。ロブもするすると登ってきた。最後のミックは多少時間がかかり、重くもあった。でも五人で支えれば、さほどつらくない。
 全員が上がりきると、みんな一斉にほっとため息をついた。上の地面は相変わらず草が深い。その真っ平らの草原の向こうに、さっき見かけた小さなオブジェクト、とりあえずの目標がまだ見えていた。みんなの荷物は、ミックが登る前にロープの端に全部くくりつけておいてくれたから、ロープごと引っ張って回収できた。

 僕たちはみな、再び自分のバッグを肩に担いで歩きはじめた。その時、背後でどおっと水音がした。振り返ると、さっきまで渡っていた断層――河川敷全体が川になっている。ちょうど満潮の時間が来たのだろうか。海のほうから上流へと水が渦を巻いて、激しい勢いで逆流していく。危なかった。もうちょっともたもたしていたら、川に飲まれて死んでしまうところだった。これが夢でないのなら。
 しばらく水が川を遡って行くのを眺め、それからまた歩きだした。前方に見える町らしきものは歩くにつれて、よりはっきり見えてくる。
「けど、あの町、光が上のほうで反射して見えるよ。なんでだろ」エアリィが歩きながらその方角を見つめ、首を傾げていた。
「まさか蜃気楼じゃないだろうな」ジョージが苦笑して、不吉な意見を口にする。
「冗談じゃないよ」僕は当惑して首を振った。
 さらに二十分ほど歩いた時、エアリィが手をぽんと打ち合わせて声を上げた。
「わかった。なんで光が変な風に反射して見えたのか! ドームだよ、透明なドーム。よくSF未来都市なんかに出てくるやつ。あれが町にかぶってるんだ。わあ、なんか本当にこれ、夢オチでも驚かないな」
 その口調は、まるで半分他人ごとのようだった。僕も半分はそんな感じがしていた。もう少し歩いて、実際本当に町がドームをかぶっているらしいことを自分の目でも確認した時は、さすがに驚きを感じたけれど、あまりにも現実離れしすぎている状況の中で、実感は薄れていく。
 なぜ、僕らはこうしてここにいる? 半日前までは、真夜中のハイウェイをニューヨークに向けて走っていたはずなのに。今ごろ、まだ車に乗っているはずだ。長い旅がやっと終わりそうだと、今夜は憧れの大舞台を踏むことができると、そんな思いを抱いて。それなのに、なぜこんな深く果てしない草原を、こうして歩いているのだろう。しかも行こうとしているところは、透明なドームで覆われた町。こんなこと現実のはずがない。僕は今、夢を見ているんだ。あの時きっとバスが事故にあって、気を失ったんだ。それで夢を見ているに違いない。恐ろしく現実感のありすぎる夢だけれど、こんなこと現実にはありえるはずもないのだから。
 みんなほとんど何も言わず、ひたすら歩いていた。同じことを考えているように。でも足に絡み付く草が邪魔になって、早く歩けない。平坦なところを歩いているより二、三倍は疲れる。おまけに河川敷で奮闘してきた後だし、バスの中で朝残っていたサンドイッチとスナックを食べたきりなので、お腹もすいていた。のどもからからだ。
「うわあ!」突然ジョージが悲鳴を上げ、座りこんだ。その鼻先をバッタが跳ねていく。草原なのだから、小昆虫はいても不思議はない。小さいバッタや蟻は、これまでにも何匹か見てきた。でも今彼の鼻先で跳ねたのは、ゆうに手のひらほどの大きさがあった。
「大丈夫、兄さん?」ロビンも驚いた表情だったが、そう声をかけていた。
「ああ。でもなんだ? あの大きさは。まるでバッタの化け物だな」
 ジョージは身を起こしながら、目を丸くしている。
「まだバッタでよかったね。あのくらいの大きさの蜂だったら、ちょっとやばかったかも」エアリィは飛んでいく虫を見送りながら、肩をすくめた。
「冗談じゃない。死んじまうぞ。そんなものに刺されたら」ジョージは苦笑しているようだ。
 でもなぜ、そんなに大きな虫がいるのだろう――そんな疑問は、たぶん誰もが感じていると思う。でも、誰も何も言わなかった。こんな状況の中、今さら巨大バッタの一つや二つにかまってはいられないのだろう。僕もそうだった。

 かなり日が傾きかけた頃、ようやく町の外壁に着いた。目の前に高さ五メートルくらいの、濃い灰色のスティールでできたような壁がそびえている。その上に三、四メートルほどの高さで、半透明の膜を挟んだハニカム状のネットが張りめぐらされ、そこから上は透明な堅い壁になっていて、ドーム状に街を覆っているようだ。透明な壁を通して、大小さまざまなビルディングが建っているのが見える。でも、どうやって中に入るのだろう。見まわしてみても、入り口らしいものはどこにも見当たらない。
「とりあえず、このまわりに沿って歩いていけば、どこかに入り口があるだろう」ロブがしばらく考えこむように黙った後、うなるように言った。
「ああ! まだ歩くのか?!」誰からともなくそんな声が上がったけれど、ほかに仕方がない。幸い町自体、そんなに大きくはなさそうだった。
 その場で右へ行くか左へ行くかを決めるためにコイントスをして、結果右側へ回った。壁には、ところどころ大きなエアコンの室外機のようなものが埋め込まれていて、微かに暖かい排気を出している。町全体が、気温調整されているのだろうか。さらに歩いていくと、今度は町に隣接してもう一つ、少し小さめのドームが見えた。透明な壁を通して見える内側の様子からみて、どうやら農場らしい。
 ドーム同士が隣接している境目あたりに、人が立っている。複数の人影だ。四人いる。僕たちは心持ち足を早めて近づいていった。でも、相手の姿をはっきり確認したとたん、僕は思わず立ちすくんだ。人がいると思ったけれど、本当に彼らは人間だろうか? たしかに人間の形はしていたけれど、緑色のビニールでできたようなジャンプスーツを着た相手は、銀色に光る金属の肌をしていた。頭はつるりとしていて、赤い眼球はまるでガラス球のようだ。
 ああ、本当にもう何なんだ、これは……なんて夢なんだ。そんな思いしか感じられない。僕は思わずその場にぺたんと座りこんだ。何人かが、同じことをしている。みんな、同じ気分なのだろう。疲れた。お腹もすいた。こんな夢はもう終わりにしてほしい――。

 でも、終わりにはならなかった。四人いるロボット(たぶん、そうに違いない)たちのうち二人が近づいてきて、少し距離をあけて立ち止まると、丁寧に頭を下げた。
「みなさま、ようこそ、ニューヨーク市へ」
「え?」予想通りの機械的で抑揚のないトーンに、驚いたわけじゃない。その言葉が信じられなかった。ここがニューヨーク? このちっぽけな、ドームにおおわれた町が? 第一、地理上のニューヨークは、もっと北東のはずだ。僕たちが遭難したところがボルチモアとフィラデルフィアの中間点を過ぎたくらいなら(ちょうどスィフターの事故地点あたりだ)、ここはいいところ、ペンシルバニア州を出たところくらいだろう。夢に説明をつけるのも変だ。それはわかっているけれど、あまりにも現実感が生々しく、どうしても混乱せずにはいられない。
 相手はこちらの様子は、ほとんど気に留めていないようだった。たぶん、そこまではプログラミングされていないのだろう。口調を変えず、質問してくる。
「みなさま、歩いていらっしゃったのですか? お車はどうしたのですか?」
「ああ、車は動かなくなったから、途中で乗り捨ててきたんだ……」ロブがためらうような口調で、そう答えていた。
「壊れたのですか? 連絡をくだされば、迎えに行きましたのに」
 もう一人が頷くような動作を見せた。「のちほどレスキュー隊に要請して、車を取ってまいりましょう。あなたがたは、どこからいらしたのですか?」
「アトランタからですが」
「アトランタ? そんな町はありません」
 僕たちはお互いに顔を見合わせた。オリンピックもやったほど、大きな都会のはずだ。いくらロボットだって、そのくらいの情報はインプットされているだろう。
「アトランタから、ワシントンDC、フィラデルフィアを経由して、ニューヨークへ向かっていたんです」ロブが首を振りながら言うと、相手も首を振る。
「ニューヨーク市はここですが、それ以外の地名は、聞いたことがありません」
「えっ?」アメリカの首都も知らないだって? ここはたぶん、アメリカのはずなのに。
「あなた方の出身都市はどちらですか?」相手はそう聞いてきた。
「カナダのトロントです」ロブは答えている。
 まさかそれも聞いたことがないと言われないだろうなと、僕は内心ビクビクしたが、相手はどうやら知っていたようで、頷くような動作を見せた。
「トロント市ですか。遠くから、ご苦労さまでした」
 ロボットたちの背後の壁にそって、二棟の小さい詰め所のようなものが、五、六メートルほどの間隔をおいて建っていた。彼らは僕たちをその左側の詰め所へ導くと、そこに設置されている、幅一フィートくらいの箱のような機械を指さした。真ん中に、ちょうど手が入るくらいのすきまが空いている。
「ここに、左手を入れてください」
「……僕からやってみよう」ロブが少しためらうように腕を動かした後、手を差し込んだ。そのとたん、ピーっと鋭い警告音が鳴った。機械の上の赤いランプが点滅している。ロブはぎょっとした顔になり、慌てた様子で手を引っ込めていた。
「あなたは、IDリングを着けていらっしゃらないのですか?」
 ロボットの一人が言った。「それは、すべての市民の義務です。血管照合も該当がないのですね。ほかの人たちも、やってみてください」
 僕たちはもう一度お互いに顔を見合わせてから、順番にそろそろと同じことをやった。まるで『真実の口』みたいだ。僕たち全員、誰も嘘は言った覚えはないが、結果はみんな同じだった。警告ブザーと赤ランプだ。
 番人たちは困ったような動作をした。もしロボットに困惑した顔ができるなら、そうしたに違いない。彼らの一人が左側の詰め所の中へと入っていき、五、六分たって、再び出てきた。
「申しわけありませんが、治安本部まで御同行願います」
 言葉は丁寧だった。でも有無を言わさぬ動作で、そのロボットは右手を伸ばしてロブの腕を捕まえ、左手でミックの腕を取った。さらに二体のロボットが近づいてきて、それぞれ両手を伸ばし、僕たちを二人ずつ捕まえる。痛くはないけれど、その力は強く、逃れることは出来ない。残った一体のロボットが右側の建物についている緑のボタンを押すと、二つの詰め所の間の壁が真ん中で割れ、両側にすっと開いた。ロボットたちは僕たちの腕を捕まえたまま、そこを抜けて、町の中へと連れていこうとした。
 あらがう気はまったく起きなかった。中に入る時、僕は開いたゲートの上の壁に、金色の文字で何か書いてあるのを見つけた。
【ニューヨーク市   人口九四二一人】
 一瞬のことで、読み違えたんだと思った。ニューヨークに、一万人にも届かない人しか住んでいないなんていうことはない。このくらいの都市の規模なら、それくらいの人口でも不思議はないけれど……でも、それ以上のことは考えられなかった。驚きの感覚は、もうマヒしかけていた。

 ゲートを抜けて町の中に入ると、大型の黄色い車が目の前に止まっていた。半流線型でタイヤのない、空を飛ぶ、まさにSF映画で見るエアカーだ。僕らはその中へ押し込まれ、ロボットの一人が運転して、車は走り出した。町の中を飛び進み、中央部にある、ベージュ色の外壁の大きなビルの前へ。車から下ろされると、建物の前に待ち受けていた三体のロボットにまた二人ずつ腕を捕られながら、建物の中へと連れていかれた。玄関を抜けて、エレベータで二一階まで運ばれていく。廊下を少し歩き、ドアを開けると、その中に半ば押し出されるように入れられた。
「しばらく、ここでお待ちください」
 ロボットたちは外からドアを閉め、去っていったような足音がした。ロボットだけに、人間のものとは少し違う、金属が小さく鳴る響きと、かすかなモーター音。

 入れられたところは、シルバーグレーの壁に四方を囲まれた、窓のない広い部屋だった。三人掛けの黒い布張りソファが二つと、二人掛けの柔らかい人工皮革のようなものが貼ってある濃いグレーのソファが一つ置いてあり、ガラスのような素材でできた四角い大きなテーブルが、二人掛けのソファの前に置いてあった。テーブルの上には何ものっていない。壁の一角は作り付けのキャビネットになっていて、真ん中の棚にテレビかパソコンのようなものが設置されている。床はクリーム色のリノリュームのような感じで、鏡のようになめらかな光沢を放っていた。
 僕は黒いソファの一つに腰掛け、ただ部屋を眺めていた。連れてこられる時に見たこのドアの表には、治安維持局の第一控え室というプレートがかかっていた。そうすると言葉は違うけれど、ここは警察に近い組織の部屋だろうか。僕たちは、ここの警察に捕まったのだろうか?
 これからどうなるのだろう。留置場みたいなものに、入れられたりするんだろうか――そんな不安も感じたけれど、それ以上にぼんやりとした気分が支配している。考える意欲もすっかりここまでにすりきれて、使い果たしてしまったようだ。どのくらいの時間、この部屋で待っていたのかわからない。腕時計を見る気力もなく、話をする気さえ起こらず、僕は黙ってソファに座っていた。ドアはぴったり閉ざされていたし、開け方もわからないから、ただそこにいるしかない。
 他の五人も同じだったようだ。ソファに腰を下ろすと、ロブは身じろぎもせずドアを凝視し、ロビンはうつむいて床を見つめている。ジョージとミックは目を閉じて上を向いているけれど、眠っているかどうかはわからない。エアリィはソファのアームに寄りかかって、完全に寝ているようだ。僕もいつしかソファにもたれて、うとうとと眠ってしまった。疲れたのと、もともとの寝不足のせいだろう。

 ドアが開く気配に、僕は目を覚ました。二人の人が部屋に入ってきていた。一人は五十才前後くらいに見える女性。いくぶん白髪が交じった濃い金髪を耳のあたりで短く切り揃えていて、穏やかそうな灰色の目をしている。もう一人は三十代前半くらいの男の人だ。短く刈りこんだ黒い髪に黒い目の、東洋系の入ったような顔。二人とも同じ服装だった。襟の付いた紺色のゆったりしたデザインの上着、足に適度にフィットしたグレーのパンツ。白いバレーシューズのような靴。上着の袖や衿、パンツの裾についたライン飾りの色が違うだけだ。女の人は銀色で、男性は白。彼らはさっき会ったロボットたちとは違い、本物の人間のように見えた。皮膚は肌色で、男の人と女の人で少し色合いが異なり、リアルな感じだ。顔には小じわが、特に女の人の方には多少あり、小さなそばかすやシミもある。手も人間の手そのものだし、瞬きもしている。髪にも白いものが混じっている。そして表情が動く。もしこんなに人間そっくりのロボットがいるなら、最初に見たようないかにもロボット然としたものがいるというのも変だから、たぶん二人は人間なのだろう。そう願いたい。
 男の人が口を開いて、グレーのソファに座っていたジョージとミックに、黒い三人掛けソファに移るように要請した。そのあと彼は女の人とともに二人掛けソファに並んで座り、テーブルを挟んで僕らと向き合った。女の人が薄い銀色の箱をテーブルの上に載せ、画面を開いた。携帯用のパソコンのようだ。そして顔を上げ、僕らをじっと見ている。奇妙な表情だった。好奇心と驚きが入り交じったような。男の人も同じような表情を浮かべて、僕らを凝視している。僕も相手を見返した。自分がどんな表情をしていたかは、わからない。たぶんきっと、他のみんなも含めて、疲れきった半ば放心したような、それでも不安は隠せない、そんな顔だったかもしれない。おっと、エアリィはまだ熟睡中だ。「おい、起きろ!」と、あわてて僕とジョージが強く揺り起こし――しばらく無反応だったが、彼もやっと目を覚ました。そして「ここ、どこ?」などと言っている。
 女性はそんな僕らの様子を、じっと見ていたようだ。でも気分を害したような表情はなく、少し驚いたような感じの後、微笑を浮かべていた。
「はじめまして、みなさん。私はエリザベス・シンプソン。ニューヨーク治安維持局の、移民管理官です。こちらは助手のトーマス・アーロン。みなさんのお名前と出身都市、それから生年月日を聞かせてください」
 穏やかな、なだめるような口調だった。その言葉と彼らの反応を見ている限り、二人とも正真正銘の人間のようだ。ほっとした。この町にロボットだけしかいなかったらどうしようか――そんな危惧もかすかに感じていたから。
 僕たちは順々に言われた質問に答えた。でも、なぜ彼女も助手もひどく困惑したような、不思議そうな表情を浮かべるのだろう。
 シンプソン女史はため息をついて頭を振っていた。
「何かそれを証明するようなものがありますか?」
「免許証やパスポートなら……」
「では、それを渡してください。それからDNAパターンを調べますから、このテープを腕に貼り付けて、はがしてから二つに折って閉じてください。それをそのIDカードにつけてください」
 言われるままに渡された小さな四角いテープを腕に貼り付け、はがして二つに折り、男の人から渡された接着テープのようなもので自分の免許証の裏側に張りつけてから、パスポートと一緒に手渡した。他の五人も同じようにしている。女性は渡されたものを一つ一つ手にとって、しばらく不思議そうに眺めたあと、助手に渡して短く命令していた。
「鑑定に回して。証明が本物かどうか。それに、全都市住民のDNAパターン照会もね」  男の人は「はい」と声に出して頷くと、それを持って部屋を出ていった。シンプソンさんと名乗った女の人は、再び僕たちをじっと見ている。相変わらず不思議そうな、怪訝そうな表情で。そしてまた不意に微笑んだ。
「もう十八時を回っていますね。夕食にしましょう」
 彼女は銀色の薄型パソコンのようなものに向かって、食事を要請していた。

 まもなく、えんじ色の髪をしたメイドが、髪の毛と同じ色のワンピースのような制服を着けてやってきた。その手に、いくつものトレーを重ねて持っている。このメイドは一見してロボットとわかるのだけれど、銀色の肌ではなくて、マネキンのような感じだ。動作はわりと自然でも、その目は瞬きをせず、表情も動かさない。ロボットメイドはテーブルの上に白いプラスティックのトレーを一つ置き、残る六個のトレーを、僕らに一人ずつ手渡した。缶に入ったポークビーンズと、パックされた乾パンが五枚、そしてスキムミルクを溶かしたような飲み物がプラスティックの白いコップに入っている。トレーの隅には濡れたペーパータオル(たぶんお手拭きだろう)と、小さな白いプラスティックスプーンが添えてあった。
「これが私たちの普段の食事だとは、思わないでくださいね」
 シンプソン女史は再び微笑を浮かべていた。「あなたがたはご存じかどうか知りませんが、今日は特別な日なのです。この日、世界中の市民がみな三食この食事を取って、先駆者たちの受難を忍び、感謝を捧げることになっているのです」
 何を言っているのだろう。よくわからないが、とにかくお腹がすいた。僕たちはトレーを膝の上に乗せ、手をきれいにしてから、食べ始めた。空腹は最大の調味料なのだろう。まるで非常食のようなこのメニューでも、けっこうおいしく食べられる。量は全然もの足りないけれど。シンプソンさんも食物を口に運びながら、考えこむように黙って、僕らを見守っているようだった。その表情には時々、かすかな当惑が見て取れた。
 食事が済んだ頃、銀色のパソコンがピピッと音を立てた。彼女は画面をのぞきこむと、耳を傾け、時々驚いたような声を上げながら、小さく何度も頷いている。
「そう……そう。まあ!やっぱり、そうなの?! ええ? まあ、本当に?! そうね、もう少し詳しく調べてみないと、何とも結論は出せないけれど……そうね。その可能性は大きいわね。アンダーソン市長に、至急その旨を報告してちょうだい。彼らにはこれから科学検査を受けてもらうことになっているから、データを検査部に送ってね。今日はもう遅いから、検査だけで終わりでしょうね。終わったら、市庁舎の一時滞在室に泊まってもらうことにしましょう。六人部屋は三つとも空いているから、とりあえず三号室に。それからのことは市長に決めていただいて……他の人への連絡? そうね、ゴールドマン博士と、それとパストレル博士にも連絡した方がいいでしょうけれど、それは結論が出てからでもいいでしょう。でもスタンディッシュ博士には、今伝えたほうがいいわね。検査に間に合うように。よろしくね。それが終わったら、今日はもう帰ってもいいわ。ありがとう」
 彼女はボタンを押し、しばらく何か操作をしていたが、やがて再び話しだした。
「科学検査部ですか? 連絡はもう受けていますね。ええ、休日の時間外で申しわけありません。これから被験者たちを送るわ。ええ、全部で六人です。私が連れていきますわ。ええ、たぶん私一人でも大丈夫だと思うから、護衛はいりません。私の指示に、素直に従ってくれていますので。詳しいデータはアーロンがそちらに送ります。ええ、よろしく」
 どうやらこの銀色の携帯型パソコンは、通話も出来るらしい。僕らの時代でも珍しくはないけれど。シンプソンさんは通話を終えると、僕たちのほうに向き直った。
「食事はすみましたね。これから科学検査室へ移動して、検査を受けてもらいます。私が案内しますわ。ついてきてください」
 科学検査? いったい、どんなことをやられるのだろう。でも彼女に従うしか僕らに選択肢はない。僕らは女史のあとについて部屋を出た。広い廊下を渡り、エレベータホールに行って、十五階までおりていく。シンプソン女史は白塗りの大きなドアの前に立ち、僕らに告げた。
「さあ、着きました。ここですよ」
 そしてこちらの心配を見透かしたように、にこやかに微笑んで付け加えている。「大丈夫ですよ。検査に苦痛はともないません。リラックスして受けてください」




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