The Sacred Mother - Part 1 The New World

第一章  プレリュード(1)




 音も光もない、なま暖かい空間。不思議な安らぎを感じる闇の中を、僕は漂っていた。肉体を持たない魂のように頼りなく、静穏な気分に満たされて。
 下方の闇にぽつんと小さな穴が開いたように、一筋の細い光がさしてきた。それが見る間に拡大し、僕の目の下に風景となって広がっていく。
 小さな部屋だった。壁も床も粗く削ったような木張りで、絨毯も壁紙もない。一つだけある窓に、色あせたモスグリーンのカーテンがかかっていた。裾に茶色い模様が入ったそのカーテンが、窓から入ってくる風のためか、かすかに揺れている。天井から下がった飾りのないライトが、ぼうっと部屋を照らしていた。
 古びたベッドの上に寝ている男の人は固く目を閉じ、両手を胸の上に組み合わせている。手の下には聖書と十字架が置かれ、寝具の上から黒い法服が広げられている。この人は、神父さんだったのだろうか。黒い僧服のシスターが、ベッドの傍らの床にひざまずいて祈っていた。シスターの隣には、銀髪の司祭が聖書を抱えて立っている。
 ベッドに寝ている人は、臨終を迎えているのだろうか。でも、まったく知らない人だ。四十代後半、いや、もう五十くらいだろうか。明るい茶色の髪にはいくぶん白いものが混じり、目元や口元の感じも決して若くはない。
 男の人の指が動いた。シスターがはっとしたように頭を上げ、その手に取りすがる。
「兄さん!」
 男の人は瞼を上げた。緑の――僕自身の眼の色にも似た、その眼が一瞬キラッと光ったように見えた。
「大丈夫だ、アンネ……私は……すぐに……戻ってくる。それが……私の、運命……」
「どういう意味ですか、兄さん?」
「見届け……る……起源の……子と……世界の……」
 やっと聞き取れるほどかすかな言葉は、途中で消えた。その人は再び目を閉じ、息を吐き出した。
 あの人は、死んだんだ――そう思った瞬間、びくっと震えるような衝撃を感じた。まるで、自分自身の臨終に、立ち会ったような気分だ。いや、まさか――たしかに髪や目の色は同じようだけれど、その人が僕の三十数年後の姿だとは思えない。うちはプロテスタントだし、僕は間違っても神父さんにはならない。妹も、シスターだなんて――いや、そんな駄洒落があるもんか。性格的にもあり得ないし、妹は灰色の目じゃない。名前も変だ。父方の祖母はドイツ系らしいけれど、あとはアングロサクソンの系統だ。アンネではなく、アンだろう。アンか――妹の名前はジョイス・アンだけれど、そのミドルネームは僕のクロードと同じで、フルネーム以外めったに呼ばれない。
 別人だろうな、たぶん。いや、絶対に。でも、いったい誰なんだろう? それに、なぜ僕が彼らに対し、説明のつけられない憧憬のような気持ちを感じてしまうんだろう。
 その時、世界の外側から浸透してくるように、声が響いてきた。この世のものとも思えない声というのは、こういう感じだろうか。澄み切った、それでいて荘厳な声。
『そして今、その約束された運命が動き出そうとしているのです』
 世界全体が、激しく震えた。
 ベッドの上の人は、もう動かない。傍らの司祭は頭を垂れ、臨終の祈りを捧げている。シスターはシーツに取りすがり、嗚咽を漏らしながら呼んでいた。
「兄さん、兄さん……」
 その声がだんだんと遠くなっていく。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
 声が再び大きくなった。トーンも変わって。聞きなれた声。
「お兄ちゃん! ジャスティンお兄ちゃん! 起きて! もう七時半よ!」
「えっ!」
 見開いた茶色の瞳と、目が合った。何かが頬をかすった。お下げに編んだ、栗色の髪の先端だ。僕はしばらく、至近距離にある妹の顔を、ただ見ていた。
「ああ、やっと起きた」
「あっ……」
 妹を少し押しやるようにして飛び起きると、枕元の目覚まし時計をつかんだ。午前三時十五分と表示されたままだ。
「えっ……目覚まし、止まってるじゃないか!」
 思わず髪をくしゃくしゃとかきむしり、向き直った。「起こしてくれて助かったよ、ジョイス。ありがとう。人の部屋に勝手に入ってきたのは、この際目をつむろう。今、何時だって?」
「七時半よ。八時前には出るんでしょう?」
「ああ」僕は枕元にたたんであった服をつかみ、妹を見た。
 ジョイスは小さく肩をすくめ、ドアのほうに歩いていく。
「今朝は降りてくるのが遅いから、母さんもホプキンスさんも心配していたの。だからあたし、見てくるって言ったのよ。ああ、部屋の鍵、もとから開いていたわよ」
「そうか。昨日は鍵をかけるの、忘れたんだな」
「家の中でいちいち鍵をかけなくても、いいと思うんだけれど」
「いいから出ていってくれよ」
「はーい」
 一人になると、我知らずため息が漏れた。変な夢を見た。ただの奇妙な夢と言うより、もっと重大な意味がありそうな感じもする。見も知らぬ神父の死が自分にどんな関係があるのか、さっぱり見当もつかないが。
「と、そんなこと、考えてる暇はなかったな」
 思わず小さく声に出してから、大急ぎで着替えた。赤系チェックのフランネルシャツ、グレーのセーター、ブルージーンズ。
 僕は机の上をに目をやった。透明なカヴァーの下に、コンサートチケットがある。なくしたりしまった場所を忘れたりしないよう、いつも目に触れられるように、ここに置くことにしたのだ。そこに記された日付を、改めて見る。二〇〇八年十二月十日――壁にかかった、デジタルカレンダーの表示にも目をやる。同じ日付。ついに今日だ。僕はカヴァーを持ち上げてチケットを取り出し、慎重に財布の中に入れた。学校から会場に直行する気はないけれど、万が一忘れたら困る。
 十五才になるまで、ロックコンサートなどに行ってはいけない。子供は夜の八時以降に出歩くものではない――父母のその方針を、僕は忠実に守ってきた。でも去年の夏に出会った彼らは、今まで聞いたどのアーティストより強い衝撃を僕に与えた。Swifter。トロント出身の四人組バンド。もうベテランの域に達している地元のヒーローで、名前は前から知っていたけれど、僕はそれまで聴いたことがなかった。でも友人の兄からその音楽を聞かされた時、僕は軽い電流が背中を走り抜けるのを感じた。
 それから出ているCDを買い集め、ブートレッグまで手を出して、夢中で聴いた。ファン暦はまだ一年半と浅いけれど、熱心さではベテランファンの誰にも負けないつもりだ。この十月に彼らは新しいアルバムを発表し、先月から北米ツアーが始まった。そして今日、ここトロントに彼らは凱旋する。
 チケットが売り出された八月の末、夏休み中だったことで、僕は売り出し開始時間前からパソコンに張り付くことが出来た。三月に十五才になっていたから、コンサートに行く許可も取れた。水曜夜のショウということで、翌日の学校には絶対に響かせないと、約束させられたが。そしてビギナーズ・ラックなのか、フロア十五列目の上手という良席を引き当てることが出来た。あの時の興奮はいまだに薄れていない。Eチケットはまだそれほど普及していなかったし、記念に取っておきたいと、紙のチケットにした。封筒から取り出して眺めた時、ライヴに行くのだという喜びと実感が新たに湧いた。

「あら、やっと来たわね、ジャスティン。おはよう」
 食堂に入ると、母がコーヒーカップの向こうから、笑顔を向けてきた。父は新聞のかげから少し顔を出し、咳払いを一つする。挨拶をしろという意味だ。
「おはよう!」僕は苦笑しながら、通学バッグを脇に置いた。
「おまえにしちゃ、珍しいな。寝坊するなんて」出勤するスタイルになっている兄は、もう食事を終えたらしく、立ち上がりながら言う。
「間に合うの?」大学生の姉は、やや心配そうに問いかけてきた。兄も姉も、今はともに自宅から通っている。兄は大学卒業後、姉は三年生になった時に、寮から家に帰ってきていたからだ。
「大丈夫だよ。でも、食べてる暇はないな」
「まあ、いけませんよ、ジャスティン坊っちゃん。朝食抜きだなんて。朝は一日の活力の元です。食べないと力が出ませんよ」僕が生まれる前から家にいる、住み込み家政婦のホプキンスさんが声を上げた。
「そうよ。時間がないなら、牛乳とバナナだけでもおあがりなさい」
 母がミルクのジャーを差し出しながら言う。
「わかったよ」
 席につき、牛乳をコップに注いで飲んだ。ついでバナナを一本と、オレンジを一切れ。
「ごちそうさま!」
 ナプキンで口を拭い、時計をちらっと見やって、僕は立ち上がった。玄関でイヤーマフをつけると、濃いグレーの通学用コートをひっかけ、ボタンをはめながら外へ出る。
「うわっ、寒い!」
 外へ出たとたん、冷たい風が吹き付けてきた。雪は降っていないが、空は重たい灰色だ。
「坊ちゃん、マフラーもどうぞ。今日はとりわけ冷えますよ」
 ホプキンスさんが通学用マフラーを持って、出てきた。
「ああ、ありがとう」
「耳当てより、帽子の方が良と思いますよ。横の方に、少し寝癖が立っていますから。もう少しさっぱり、お切りになればいいのに」
「いや、まだこれでいいよ」僕は肩をすくめると、髪を軽くなでつけてからマフラーを受けとり、首に巻いて、小走りに駆けだす。
 ホプキンスさんはいい人だ。子供の頃は良く彼女に話を聞かせてもらったし、遊び相手にもなってくれた。でも、僕も来年には十六才だ。ここまで世話を焼いてくれなくともいいのに、と時々思ってしまう。それに坊ちゃんと呼ばれるのも、なんとなく抵抗があった。
『ローリングス家は古い立派な家柄なのですよ。それに旦那さまの病院は、私立病院の中ではトロント一大きくて、設備も整って、評判の良い病院なのですからね』
 ホプキンスさんはよくそう言った。最近はさらにこう続く。『ジャスティン坊ちゃんは、この病院の跡取りなんですからね。幸せなことですよ。ええ、ジョセフ坊ちゃまは病院をお継ぎにならないで、コンピュータエンジニアなどになってしまわれましたし、旦那さまの期待はもう、ジャスティン坊ちゃんだけですからね。坊ちゃんは素直だし飲み込みも早いと、旦那さまも前からずっと期待していらしたんですから。医学部に入れるように、がんばって学業に励んで下さいよ。ええ、坊ちゃんは優秀ですからね、大丈夫ですよ』
『ああ、ああ……うん。わかったよ』言われるたびに、僕はそう生返事していた。
 医師という職業は立派だと思っている。父のことも誇りに思う。それは、たしかだ。兄も僕も子供の頃から医学の本を読まされ、病院で扱った患者さんたちの症例の話も、よく聞かされてきた。明らかに父は、僕ら兄弟を自分の後継者にしたかったのだろう。でも兄はそんな父への反発もあったのか、血を見ると気分が悪くなるせいなのか、結局医師にはならなかった。
 医学そのものには、興味がある。分厚い医学書を読むのも、父の話を聞くのも好きだった。血はあまり見たくはないけれど、それほどうろたえもしないと思う。でも、なんとなく医師としての自分は想像できなかった。白衣を着た僕を。病院の院長におさまった姿を。
「医者が長髪だったら、まずいのかな……」僕は髪に手をやり、小さく声に出して呟いた。アメリカのテレビドラマに出てくる医者には、たまに長髪を束ねた人がいるけれど、僕が知っている限り、うちの病院では見たことがない。僕はずっと、長い髪に憧れていた。八十年代や、それより前、ロックという音楽が反逆者の叫びから生まれた頃、今のように変に洗練されない時代では、長い髪はそのスピリットの現れだったと思う。男が長い髪をしていたら、変だ? そんなことは、あるもんか。でも現実問題、そう思う人は多いらしい。学校に髪型制限はないといっても、髪の先が肩に触れないくらい、肩の上、一、二センチの長さが精一杯だ。それ以上伸ばすと、なんとなくまわりの生徒や先生たちの視線が痛すぎる気がした。今ですら、父やホプキンスさんから、もう少し髪を短くしろといつも言われる始末なのに。

 数分走ると、友達の家の門に着く。いつも一緒に学校に行っている幼馴染が、小柄な身体をキャメルのコートに包み、手袋をはめた両手を打ち合わせながら、僕を待っていた。頭には、耳あてのついた暖かそうな茶色の帽子を、すっぽりとかぶっている。彼の家の車で一緒に行くのだから、中で待っている方が寒くないのに、いつもその丸い頬を真っ赤にして、外に立っていてくれる。
「おはよう、ジャスティン! 今日はちょっと遅かったね」
「おはよう、ロビン! 待たせてごめん。ちょっと寝坊したんだ」
 ロビンは僕の、ほぼ生まれた時から一番の、いや唯一の親友だ。同じ病院で(うちの病院だ)、同じ日に出産になった母親同士が、入院中に意気投合して友達になったという。よくあることなのかどうかはわからないけれど、それで必然的に僕たち子ども同士も友達になった。家が近いせいもあるけれど、幼稚園、小学校、ジュニア・ハイからハイスクールに至るまで、ずっと一緒の学校に通い、クラスもほとんど、ずっと同じだ。
「ねえ、ところでジャスティン、ショウは七時半からだったよね。どうする? 君はたしか、バスケットボールの練習日だよね。一回家に帰る? それとも、学校からそのまま行く?」車に乗り込みながら、ロビンは聞いてきた。
「一回帰ろう。練習が終わるのは五時半だから直行もできないことはないけど、この格好で行くのはイヤだよ。学校の荷物も邪魔だし」

 その夜、とうとう待ちに待った時間がやってきた。初めてのロックコンサート。その興奮と陶酔感を言葉で説明するのは難しい。
 一度家に帰って、長袖のバンドTシャツの上にピンズやバッジをいっぱいつけたデニム地の上着を着、寒くないように上からボアの着いたダウンのコートを羽織った。ロビンと合流し、会場に行く。チケットをチェックされた後、建物に入ると、すぐに物販の列に並んでツアーブックと新しいTシャツを買い、元のシャツの上から重ねて着た。スタンドでコーラとポップコーンを買って、アリーナの中へ。そこは日常を離れた異空間だった。ステージにセットされた機材、吊り下げられた照明装置やスピーカー、ステージ後ろと横に設置されたスクリーン、流れる音楽。ショウが始まる前に流れるBGMは、同じような系統の、他バンドの曲が多い。その音楽を聴きながら、指定された席に着く。十五列目は結構近い。肉眼でメンバーがしっかり見えそうだ。「僕は背が小さいから、前の人たちが立ち上がったらステージ見えるかな」と、ロビンは少し不安そうだったけれど。
 最初は空いている座席が、徐々に人で埋まっていく。Swifterはもうデビュー二十周年を超えたベテランバンドだから、ファン層は僕らより年上の、三十代から四十くらいの男の人が多い。女の人は二割くらいか。僕たちのような十代の観客は、一割もいない。実際、同級生たちは今はやっている音楽しか聴かない奴ばかりだ。彼らと話が合わない一端は、そういうところにもあるのだろう。
 ワンマン形式のショウのため、オープニングバンドはいない。休憩を挟んだ二部構成だ。開演時間が迫るにつれ、緊張と期待感が高まってくる。本当にあの舞台の上にあの人たちが出てきて演奏するのだと思うと、この場にいられることの喜びと興奮を感じる。
 ついにBGMが途絶え、ライトが消えて、ショウが始まる。観客たちから大きな歓声があがる。フロアはほぼ総立ち。僕たちも立ち上がる。大音量で音楽が轟く。CDで何度も聞いて細かいところまで覚えている曲が、新鮮な感動を持って聞こえた。ステージから紡ぎ出される音の迫力、躍動感、七色のライトとレーザー、パイロテクニック。DVDで何度も見てきたシーンだが、目の前で展開されるそれは、それ自体が一つの煌びやかな空間となって包み込んでくる。僕はその中に幻惑され、陶酔し、ビートに乗って身体を揺らしながらエアギターをした。曲が終わるたび、我を忘れて喝采した。それは異世界だった。魅惑的で眩惑的な別世界だ。

 ショウが終わり、会場を出て家路についた僕たちは、ほとんど口をきかなかった。心の中で何度もショウを反復しながら、ゆっくりと地下鉄駅へ。機械的に足は家に向かっていたけれど、帰りたいとは思わなかった。家庭や学校という日常に入ったら、この快い興奮が少しずつ消えてしまいそうな気がした。
 電車を降り、駅の長い階段を上ると、しんと静まり返ったいつもの住宅街だ。夜の十一時半過ぎ、ほとんど人もいない。僕たちはどちらからともなく、深いため息を吐いた。
「ちゃんと見えたか、ロビン?」
「うん。人の隙間から見えたよ。まるで道が出来たみたいに」ロビンは頬を紅潮させて頷き、そしてささやくように続けた。「本当に素晴らしかったね、ジャスティン」
「ああ」
 それ以上の言葉は必要ないように思えた。僕たちはマフラーを首にしっかり巻きつけ、コートについているフードを被って、歩き続けた。それでも十二月の夜の風は冷たく、顔が痺れるほどだ。でも、気にはならない。
 しばらく黙って歩いた後、ロビンが立ち止まり、空を見上げた。
「ねえ、雪が降ってきたよ」
「本当だ……」
 暗い空から、白い小さな雪のかけらがひらひらと落ちかかってきた。と、またたく間に勢いを強めて降ってくる。街灯の白い光に照らされて、無数の雪が乱舞している。僕はその光景をじっと見ていた。
 突然、強い衝動が突き上がってくるのを感じた。家路をたどってくる間ずっと、心の底でうねっていた思いが大きく膨れ上がり、渦を巻いて、噴き出してきたように。
「僕もああなりたい――」言葉が、無意識のうちに口をついて出てきた。そのとたん、心の中の火はよりはっきりとした形となって、燃え上がった。今まで僕の中に眠っていた思い、音楽への情熱、ギターへの愛情が、堰を切ったように溢れ出てくる。僕がなぜ医師としての自分に実感が湧かなかったのか、はっきりとわかった。医者は僕の天職じゃない。僕が本当にやりたいことは、彼らの世界に入ること。眩惑的な異世界に観客としてではなく、アーティストとして参加すること。客席ではなくあの舞台に立ち、七色のライトを浴びながら、熱狂する観客たちに向かって演奏すること。それが生涯の夢だったのだと。十二才の時からずっと音楽を聴き、ギターを弾いていた、その時から心にあった熱い思いが、その時、明確な目標となった。思わず身体が震え出した。
「そうだね!」ロビンも何かに打たれたような表情になった。
 僕は友を見、ロビンも僕を見た。彼も僕と同じ夢、同じ熱望に衝かれていることを、その目は語っていた。ロビンもここ三年半の間ずっと僕と同じ音楽を聴き、ベースギターの練習をしていた。二人でCDにあわせて弾いてみたこともある。
「一緒にやろう、ロビン!」僕はその手をつかみ、叫んだ。「どうしてこんな簡単なことに、今まで気がつかなかったんだろう。そうだ、一緒にやって、二人でプロをめざそう!」
「それは……いい考えだね」ロビンは少しためらうような口調だった。でもその目は輝いている。隠せない興奮をのぞかせて。「でも……僕が君と一緒にできるかな、ジャスティン。君は本当に上手いから。君だけなら十分にプロだってなんだって目指せると、僕はいつも思っていたよ。でも、僕はあんまり自信がないんだ。一緒にやって、君の足を引っ張るようなことになるんじゃないかって、心配なんだよ」
「そんなことあるもんか! おまえだって十分上手いよ。僕はお世辞なんて嫌いだから、本当のことしか言わないさ。もっと自信を持てよ。協力してくれなくちゃだめだよ。一緒にやる仲間がいなきゃ、ギタリスト一人だけじゃ、どうしようもないじゃないか」
「ありがとう、ジャスティン。でも、ギタリストとベーシストの二人だけでも、やっぱりどうにもならないと思うよ」
「そうだな。まず最低限、ドラマーは必要だな。でなければバンドにならない」
 バンド――僕たちのバンド。その言葉が、歓喜の響きに聞こえる。
「ドラマーか。誰かできる人がいるかなあ」
「ジョージ兄さんは、ドラムスをやっているよ」
「そうだったな」
 ロビンは三人兄弟の末っ子で、ジョージは下の兄、三兄弟の真ん中だ。一昨年、大学に入って、今は寮にいる。でも兄弟なのが信じられないほど、容貌も性格も違う。ロビンはまっすぐな栗色の髪で、小柄だけれど、ジョージは比較的背が高く、がっしりした体格をしている。髪も黒っぽく、縮れていて、顔も似ていない。ロビンは鼻や口が小さく、目は丸く、顔の輪郭も丸っこいけれど、ジョージは顔のパーツが大きく、目は切れ長で、頬骨は高い。ロビンの話だと、『ジョージ兄さんは母方の伯父さんに似ていて、僕は家のお祖母さんに似ているらしいよ』――それで、まるで似ていない兄弟になったらしい。
 僕は小さい頃からロビンの家によく行っていたから、彼の家族ともほぼ顔なじみで、特にスタンフォード夫人とジョージは、良く声をかけてくれた。今は週末と長期休暇にしか家には帰ってこないが、昨年の夏、スィフターの音楽を僕らに初めて聞かせてくれたのも、ジョージだった。『大学で知り合った友達がファンらしい。おっさんだが、俺もなかなか面白いと思った。そいつからCD借りてきたから、聞いてみろよ。おまえらはわりと捻った音楽が好きみたいだから、趣味に合うかもしれないぜ』と。ジョージがドラムスをやっていることも、何かの話に聞いたことはあった。実際に音を聞いたことはなかったけれど。
「兄さん、大学でバンドを組んでいるんだよ。だから、僕らのほうまでは無理かも」ロビンは少し肩をすくめて、そう付け加えていた。

 それから数日後、ジョージに時間を作ってもらい、学校帰りにカフェで待ち合わせた。僕らが思っていることを話すと、ジョージは苦笑を浮かべた。
「話があるっていうから何事かと思ったら、そういうことか。おまえらがバンドを作りたいなら、けっこうなことだ。だが、俺は悪いが付き合えないな。俺が今のバンドで忙しいことは知っているだろう、ロビン? おまえらのお遊びにまで、手は回らないんだ」
 ほぼロビンの予想通りだが、“お遊び”という言葉は気に入らない。僕は思わず抗議した。ロビンも同じように思ったらしく、ほぼ同時に声を上げている。
「お遊びじゃないよ。僕らは本気なんだ!」
「おっと、悪かったな。おまえらが真剣なら、それはそれでいいさ。でも悪いけど、俺は今、本当におまえらには付き合えないんだよ。俺たちも本気でバンドをやっているからな。親父たちには内緒だが、これでも一応プロを目指しているんだ。二つのバンドを掛け持ちする余力はないってことだ。そっちに集中したいんだよ」
 ジョージはコーヒーカップを取りあげ、中身をいくらか飲んだ後、僕らに目をやり、再び困ったような笑みを浮かべた。「そうがっかりした顔をするなよ。もし今のバンドが解散でもしたら、考えてやってもいいぜ。でも、俺をあまりあてにはするな。学校で仲間を探したほうがいいんじゃないか? そのほうが楽しいだろう、おまえらだって」
「気が合えば、まあ、そうだけれど……でも僕らが知ってる友達で、ドラムスをやってる人の心あたりがないんだよ」僕は肩をすくめた。
「ネットででも募集してみたらどうだ? 学校のページに、そんなコーナーがあるだろう」
「でも……ねえ」
「どんな人が来るか、わからないし」
 思わず顔を見合わせた僕たちに、ジョージは肩をすくめ、指を振った。
「初対面の奴と、バンドなんかできないっていうのか? バカだなあ。そんなふうだから、おまえらは世界を狭くするんだ。誰でも、最初は初対面に決まってるさ。でも、そいつはいい奴かもしれない。気の合う奴かもしれないし、とてつもなく上手い奴かもしれないじゃないか。おまえらの知ってる狭い人間関係をもっと広くしたほうが、いい奴に会える可能性も高くなると思わないか?」
 たしかにそうだと納得はしたものの、とりあえずは心当たりの人を探したい。お互いに知っている人のほうが気楽だから。僕のその考えに、ロビンも「絶対その方がいい!」と強く頷いていた。彼はシャイな性格で、かなりの人見知りだ。僕も人のことは言えないけれど。でも知人やその友達まで広げても、フリーのドラマーは見当たらなかった。

「やっぱり、学校の掲示板に書き込みするしかないのかなあ」
 こうして部屋で二人、CDにあわせて弾いているより、やっぱりちゃんとしたバンドが欲しい。思う存分音を出し、みんなで研鑽しあっていけたら最高だ。
「うん……どんな人が来るのか、ちょっと怖いけれど」
 ロビンも不安は隠せない表情ながら、やはり同じ思いを感じているのだろう。
「ドラマーを募集します。腕に覚えのある人求む。うーん、こんな感じかな?」
「でも募集するのは、ドラマーだけ?」
「いや、ヴォーカルもだな。でも、まずはドラマーだ。歌い手は、それからでもいいよ。ああ、ジョージが来てくれたら、いいんだけれどなあ」
「無理だよね、きっと。兄さん、今のバンドに一生懸命らしいから。メンバー全員十九になって、やっとクラブに出られるようになったから、今までより出演の機会を増やせるって言って、張り切っているから。春には、コンテストにも応募したんだって」
「コンテスト? どこの?」
 返ってきた答えに仰天した。今やロックにしろポップにしろ、動画サイトか、プロのオーディションを兼ねたコンテストしか実質メジャーデビューへの道はないが、その最大手のコンテストだ。
「本気なんだな、ジョージたち。それで、結果は?」
「うん。一次であっさり落ちたって」
「そうか、やっぱり厳しいんだな」
 小さくため息が漏れた。でもとりあえず、可能性はほんのわずかにすぎないにせよ、ジョージたちは夢の扉をたたくところまでは来ているのか。僕らはまだ、バンドすらない。
 年末年始休暇が終わり、学校が始まるとすぐに、ロビンと僕は学校のサイトにある学生間のフリー掲示板に投稿した。
【ドラマーを募集します。ジャンルはテクニカル・ハード・プログレ系。よって、初心者は不可。腕に自信のある人、お待ちしています】
 それに対してなかなか返信は来なかったが、ようやく一週間後、【僕はドラムが出来るから、もしよかったら手伝ってもいいよ】と、書いてきてくれた人がいた。昼休みに場所を指定して会ってみたら、一学年上の人だった。ほとんど初対面に近い。学校内で見たことがあるかな? という程度だ。それはまあいい。でもその人が好きで聴いている音楽は、ストレートなメインストリームロック。そのバンド名を聞いただけで、肩をすくめたくなった。もうその時点でお引き取り願いたかったけれど、一応スタジオを借りて、音あわせだけはした。
 三十分後、僕はこう言うしかなかった。
「ごめんなさい。せっかく来てもらったけど、僕らの音とはなんだか合わないから」
「そう。まあ、君たち上手いものね。僕はその手の音楽はあまり得意じゃないし」
 その人は苦笑して帰っていった。
 一月中に、あともう二人書き込みをくれたが、みな同じ結果に終わった。それから誰も応募してこなくなった。僕たちの要求水準が高すぎるという噂が、狭い学校ではすぐに知れ渡ってしまったらしい。
「そんなに高いレベルを要求しているつもりじゃないのにな」
 僕は思わずため息をついた。でも、譲れない最低線というものはある。

 二月半ばの土曜日に、ジョージのバンドが、僕らの学校の体育館でライヴをやった。何組かのアマチュアバンドを集めて行われる、ソフトドリンクが一杯ついた、入場料五ドルほどのギグだ。ロビンから知らされて、チケットを入手し、見に行くことにした。
 ジョージのプレイは、派手ではない。さほどテクニカルでもないと思う。でも、気持ちの良いビートだ。思わず身体が動いてしまう。それに彼は天性のリズムキーパーだ。決して乱れない、鉄壁のリズム。オカズの入れ方も、目立たないけれど、センスが良いと思う。
 でも、あのバンドではダメだ。彼の実力は生きない。あのバンドのギタリストたちやベーシストより、ロビンと僕のほうがよっぽどましだ。うぬぼれていると、言われたくはないけれど。ベーシストは微妙にリズムが揺れる。リズムセクションの相棒がそんなありさまでは、ジョージの天性のリズムもノリも殺されてしまう。それに、せっかくキーボードがいいセンスを発揮しているのに、ギターは凡庸だ。二本もいるくせに芸がない。ヴォーカルも声の線が細く、歌唱力もいまいちな上に、時々音程がフラットする。僕とロビンが同業者をオーディションするなんてことはないけれど、もしメンバーを募集していてあの人たちが来たら、絶対お断りするだろうな。しかも、オリジナル曲が壊滅的につまらなかった。知人のバンドをこき下ろすのは趣味が悪いとは思うけれど、正直な感想だ。

「そうだ、ジャスティン。兄さんたちのバンド、解散したんだって」
 三月に入ってすぐの月曜日、いつものようにロビンと二人、学校の食堂でランチをとっている時、彼はそう切り出してきた。
「本当か?!」僕は思わず叫んだ。
「うん。週末に帰ってきた時、今度はいつライヴをやるの、って聞いたら、当分ライヴはなしだ、バンドは解散したからって」
「理由は、何か言っていたか?」
「うん。僕も聞いてみたんだ。そうしたら、せっかくクラブにも出られるようになったから、いろいろとあたってみたけれど、全然だめだったって。それでバンドのリーダーさんが、今のメンバーではらちが明かない。一回解散して作り直そうって、言ったんだって。それで兄さんも賛成して、新しいバンドを作ることにしたって、言ってたんだ」
「そうか。僕らにとっては、チャンスだ! 一緒にやれるかもしれない」
「そうだね。でもジョージ兄さん、今のバンドが解散したら考えてやるなんて言ったこと、きっと忘れているよ」
「忘れていたって別にいいさ。頼むだけ頼んでみよう。今日か明日か、ジョージの都合の良い時間に会えるように、連絡してくれないか、ロビン」
「うん。それはもちろんだよ、ジャスティン」ロビンは頷き、メールを入れたようだ。
「じゃあ、明日、一緒に夕飯を食べないかって言ってきたよ。大学のキャンパスの近くにあるレストランで」
「わかった」
「明日、君はバスケの練習日だったよね。じゃあ、僕はまた図書館で待っているよ」
 ロビンはサークル活動に参加していないので、僕が遅くなる時には、いつも図書館で勉強しながら待っている。先に帰ることは、決してしない奴だ。



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