EVERGREEN : 常盤の守護精

第二章 アザーサイド・フォーレスト(4)




 その日、ありさは森に来ていた。大学の夏休み中、母の結婚相手である、スティーヴ・マーロン氏の家に滞在して、一週間がたった頃である。彫刻工芸家であるスティーヴ氏がいつも材料を取りに行く森とは、かつてありさが迷った場所だった。ただし、オートキャンプ場のある、かつて伯母たちと一緒に来たという所とは離れた、東側の端のようだった。南側は野原で終わり、北側は山に続く。東側の端は道路で途切れ、その向こうは牧場のようだった。
 いつかは訪れてみたいと思っていたその森を前にした時、ありさは軽い震えのようなものが走るのを感じた。
『ここって、「ジ・アザーサイド・フォーレスト」ですか?』
『ああ、そんな名前で呼ばれているらしいね』
 マーロン氏は微かに肩をゆすって笑った。
『この西側にはオートキャンプ場があって、結構うるさいんで、そっち側には近づきたくないんだがね』
『わたし、ここに子供のころ、そのオートキャンプ場には、来たことがあります。母と、伯母一家と』
『ああ、聞いたよ。アリソンが言っていた。君はその時、迷子になったらしいね』
『ええ』
『母娘揃って同じ場所で迷子にならなくてもいいのに、とも言っていてね』
 えっ――ありさは母の夫だった人を見上げた。
『母が――? 母も、この森で迷子になったっんですか?』
『ああ。彼女が六歳のころだったらしい。やっぱり一家でキャンプに来て、ウサギを追いかけて、広場を越えて、迷い込んだって。子供のころには、その時の夢を何回か見たそうだ』
 ありさは返事を忘れ、前方の森を見つめた。母もかつて、自分と同じ経験をした――?
『どうかしたかい?』
 ありさがしばらく黙っていたので、マーロン氏も少し不思議に思ったのだろう。
『いえ、少し驚いてしまって』ありさは微かな笑顔を浮かべた。
『わたしも、時々夢に見たんです。ここ一年くらい見ていませんが――母は、どうやって戻ってきたかは、話していませんでしたか?』
『それが不思議なことに、記憶がないそうだ。気がついたら広場に戻っていて、探しに来た人たちに発見されたと。君も見つかった時、同じようなことを言っていたのが、なおさら奇妙に感じたと言っていた』
『そうですか……』
『ここでは迷子にならないように、気をつけておくれ』
 スティーヴ氏は陽気な調子で言い、小さく肩を叩いた。
『材料を探している間、君たちには待ってもらうことになるが、一人で行動してはダメだよ。ジェイと一緒にいてくれ。それと、ニックとな』
 氏は手にした細いロープの端を木に結びつけると、森の中に入っていった。道などはなく、生えている木の隙間を通って行く。地面は湿っていて、朽ちた葉がところどころ積もっていた。道の脇にはシダやコケが生え、時々低い灌木がある。マーロン氏の後から、ありさはジェイとニックとともに、ついていった。動きやすいように、長袖のシャツとジーンズ姿だ。ジェイも長いシャツとカバーオールにすっぽりとくるまり、犬は身軽にそのそばを走っている。先頭を行くマーロン氏は大きな布製のバッグを肩から下げ、背中にはリュックをしょっていた。進むにつれて、彼の手から赤いロープがシュルシュルと伸び、帰りの道しるべとなっていく。
 しばらく歩いたところで、小さな小川を渡った。橋はなく、飛び石を踏んで対岸へ。その先には、少し開けた空間があった。真ん中に大きな切り株があり、その周りには短い下草とシダが茂っていて、ところどころ大きな石がある。マーロン氏は荷物を地面に置き、リュックからのこぎりを取り出した。布袋を肩にかけたまま、片手にのこぎりを持つと、振り返って告げる。
『では、私はこの辺りで材料を探すから、しばらく遊んでいてくれ』
『うん』
 ジェイが頷き、石の一つに座って、背中に背負っていた小さなリュックをおろした。そこから本を取り出し、見始める。犬はその傍らに寄り添うように、座っている。彼らはきっと、何度も父親とともに来ているので、慣れているのだろう。
 ありさも座り心地の良さそうな石を選んで、腰を下ろした。同じく背中のリュックをおろし、水を取り出す。暑い日だが、森の中は涼しい。でもしばらく歩いたので、少し咽喉が渇いていた。
『ジェイも、お水飲む?』
 声をかけたが、少年は本から眼を上げることなく、首を振る。マーロン氏の姿は、木々の間に見えなくなっていた。しかし、もう一度近くの木に結びつけていった赤いロープがガイドになり、きっとそれをたどって、ここに戻ってくるのだろう。
 ありさは空を見上げた。ぽっかりと丸く、青い空と、ところどころ浮かぶ白い雲が見える。この空間の真ん中にある切り株は、刃物で切られたようにすっぱりとした斬り口ではなく、ギザギザで、中に大きな空洞があった。その周りにも、木の残骸らしいものが散らばっている。かなり朽ちてることから察すると、かつてはこの木がここに立っていたが、それが枯れて倒れ、その後に広場を残したのだろう。枯れるまでは相当大きな木だったことも、また枯れてから何年もたっていることも、察せられた。
 ありさは周りの連なる木々を見、地面に目を落とした。ジ・アザーサイド・フォーレスト。かつて自分が迷い、何度も夢に見て、一度現地に行ってみたいと思った場所だが、かつての記憶にあったところとは違う地点に入っているせいか、心の奥底で動くものは感じられなかった。ありさも荷物の中から小さな本を取り出して、読み始めた。

 やがてジェイが本をたたんで、リュックにしまい、立ち上がった。そして歩き出す。そばでまどろみかけていたニックも、伸びをしてのそっと立ち上がり、その後に続いた。
『どこへ行くの、ジェイ?』
 ありさも本をたたみ、眼を上げて問いかけた。
『この流れを、たどるんだ』
 少年は振り返らず、答える。
『迷っちゃうわよ』
『迷わないよ。ただ、戻ればいいだけだから』
 たしかにそうか、とは思いながらも、ありさも立ち上がって後を追った。万が一、迷子になったら困る。犬も一緒とはいえ。
 小川沿いは、小石がゴロゴロとしていて、歩きにくかった。ぎりぎりまで木が生えている場所もあった。ジェイはその間とポンポンと跳ねるような足取りで歩いていき、ニックもしっぽを振りながら、嬉しそうに走っていく。ありさは不安定な足元を気にしながら、弟と犬を見失わないように、後をついていった。時々ジェイは立ち止り、足元から何かを拾ったり、周りを見回したりした後、再び進む。
 ありさは普段から腕時計をしていないので、正確な時間はわからない。スマートフォンも、リュックの中だし、それもさっきの広場に置いてきてしまった。スマートフォン自体、マーロン氏のところに来てからは、ほとんど電波が入らないので、あまりできることはなく、しょっちゅう充電が切れた状態になっている。だが体感時間で、この小川をたどりだしてから、一時間ほどはたっているように感じた。
『ジェイ。そろそろ戻りましょう。お父さんが戻って来るかもしれないわよ』
『うーん』少年は頭を振って、立ち止まった。
『時間が足りないなあ』
『何の?』ありさは近くにより、そっと問いかけた。
『この流れの源』
 ジェイは小川の上流を指さした。その行く手は、森の深部のようだ。
『遠くない?』
『うん。遠いよ。だから、時間が足りないんだ』
 ジェイは踵を返し、来た道をたどり始めた。ありさもほっとして、後に続く。
『この流れの源には、何があるの?』
 ありさは問いかけてみた。その時ふと、頭の中にひらめいた思いがあった。それは従兄が言っていた『願いの泉』と同じものだろうかと。
『願いの泉なんか、ないよ』
 ありさは思わず足を止めた。この思いは口に出しては、言わなかったはずなのに。少年は立ち止って振り向き、ありさの目をじっと見てきた。
『そこには、“彼”がいる。でも“彼”は、願いは叶えない』
「え?」
 ありさは目を見開き、弟の目を見つめ返した。少しグレーがかった緑のその眼は、澄み切っている。その時再び、奇妙な感覚が襲ってきた。もっと純粋な緑の瞳――そのまなざしを、かつて見たことがあると。
 ジェイは何も言わずに視線を外し、再び歩み始めた。その後ろから、白いむくむくした犬がついていく。ありさも遅れまいと、その後を追った。
 
 さっきの広場に帰った時には、マーロン氏もすでに戻っていた。石の上に腰を下ろし、水筒の水を飲んでいる。彼は顔を向けた。特に心配した様子はなく、普通の表情だ。戻った時に息子がいないことも、珍しくはないのだろう。
『帰ったか。それじゃ、お昼にしよう』
 三人はリュックを開き、一昨日店から買ってきたパンに、ハムとチーズ、トマトときゅうりを挟んだサンドイッチを取り出した。ジェイは時々パンの切れ端を、ニックにやっていた。一度、ありさもやりかけたことがあるが、マーロン氏に止められた。
『悪いね。でも我々はニックには、いつもやるごはんの他には、ジェイがわける分だけにしているんだ。それ以上やりすぎると、太ってしまうからね』と。
 お昼休憩がすむと、再びマーロン氏は袋とのこぎりを手に、森の奥に入っていった。ジェイも再び本を出してページをめくり、ニックは眠り始めている。
 ありさは氏が帰ってくるまでの二時間ほどを、持ってきた本を読んで過ごした。ジェイも今回は小川辿りをせず、本に飽きると、石を積み重ねてみたり、水の中で泳ぐ魚を眺めたりして、時間を過ごしている。
 やがてマーロン氏が森の中から、大きな布袋を肩に下げて現れた。それは来る時には空っぽだったが、今は集めてきたのだろう木片の形にでこぼこと膨らみ、入り口からもいくつかの枝が飛び出している。氏はのこぎりをリュックにしまうと、告げた。
『待たせたね。かなり収穫があった。もう帰ろう』

 その夜、ありさは夢を見た。ここ一年以上見ることのなかったあの夢、「森の中で迷う夢」が、再びやってきたのだ。いつもと同じ光景、同じ展開。ただ、最後は光ではなかった。
 彼女は疲れ果てていた。もう帰れないのかもしれない。そんな絶望感が心を満たしていた。もう歩けなくなって、彼女はその場に座り込んだ。毛虫や変な虫にたかられるかもしれない。そんな恐れより、今は疲れでどうしようもなかったのだ。泣こうとしたが、もう涙も出てこなかった。枯れてしまったのだろうか。
 水の流れる音が聞こえた。微かなせせらぎ。昼間聞いた、小さな小川の音。それよりも微かな。それがさわさわと誘うように、耳に響いた。彼女は立ちあがった。のどが渇ききっていた。お水が飲みたい――。
 音のする方に歩いた。それは小さな開けた空間で、岩の間から水が流れ落ちていた。よろよろと進み、小さな手を差し出し、水をすくう。
――もしかしたらこれが、願いの泉なのだろうか。そんな思いが湧いた。だとしたら、お願いを言わなければ。ママと――いや、それよりも最初に、この森から出たい。もし二つ目の願いをかなえてくれるなら、ママのことを願おう。
 冷たい水がのどを滑り落ちる感触とともに、彼女は光を感じた。いつも夢の最後に出会う、あの光。振り向くと、誰かが近くにいた。その顔は、光でよく見えない。ただ、それほど大きくはないようだ。洋服は緑――手に抱いた、今は両手で水をすくうために脇に挟んだ、小さな人形のような。

 そこで目が覚めた。気の早い朝の光が、部屋を満たしていた。一年以上見なかったあの夢を見たのは、正確には同じ場所ではないにしても、再びあの森に行ったからだろうか。
 ありさは起き上がった。枕元の時計は、四時を過ぎたところだ。この小さな屋根裏部屋には、細い窓がついているが、カーテンはかかっていない。そのために、かなり緯度の高いこのあたりでは、八月の今は夜の九時くらいまで明るく、朝は四時前から光が差してくる。ベッドの頭側ではなく、窓が足側に来るように寝ているのだが、それでも早くに明るくなるため、早朝に目が覚めてしまうことも、たびたびだった。眠りの誘いが強い時には、再び眠るのだが、この日は目がさえていたので、ありさはベッドから出た。Tシャツとジーンズを身に着け、その上からコットンのシャツを羽織る。靴を履いて階下へ降り、まだ寝ているスティーヴ氏とジェイを起こさないように、さらにソファの隣で丸まって眠っているニックを踏まないようにも気をつけて、洗面所へ。顔を洗ってから、ドアを開けて外へ出た。
 日本の自宅、特に祖母が生きていて手入れをしていたころのようには整っていないが、マーロン氏のこの庭も、親しみやすくて美しいと、ありさは感じていた。最初に来た時から。庭は芝生ではなく、茶色い地面に雑草が生えていて、家の右側には花壇とブルーベリーの灌木、左側には菜園がある。敷地には、三本の木が生えていた。一本は家のそばの右側に、もう一本は灌木の後ろ、三本目は門のすぐ横に。家のそばにある木は楓で、灌木の後ろにあるのはブナの木、門の横にあるのは樅の木――どれも、常盤家にも生えている木だ。子供が生まれる時、その守り神として木を植える。祖母がそう説明してくれていた。ブナの木は祖父の木、樅の木は健叔父の、そして楓はありさの木だ。ただ、日本の楓とは違い、この庭にある木は、カナダの国旗にあるようなサトウカエデだが。
 常盤の家には、菜園や果樹などはなかった。ほとんど観賞用の花や葉植物だ。スティーヴ氏の庭は、木以外はほとんど実用目的のようだ。庭の半分近くを占める菜園でとれる野菜で、家で消費する分を半分以上賄っているようだし、今が盛りのブルーベリーの実も、ジャムやゼリーなどに利用する。花壇の花は、母の写真に供えるためだという。
 ありさは空を見上げた。早朝の空は濃い水色に染まり、ほとんど雲もない。太陽の日差しは、朝のためか、まだ柔らかさを感じる。風が吹きすぎていき、木がかすかに揺れ、ありさの髪も揺らした。周りの景色は、濃淡はあっても、緑一色だ。畑の緑、牧場の緑、そして木々の色。その中にところどころ、色とりどりのマッチ箱のような、小さな家々が点在する。
 ふっと記憶が脳裏をかすめていった。まだ一家が幸せだったころ。父にお休みが取れて、継母と桃香と四人で、夏休みに信州に行った時。色は微妙に違うし配置も違うけれど、やはりこんなふうに、緑一色の景色だった。それに見入っていた妹。窓ガラスに顔をくっつけるようにして、「きれいねえ」と、何度も繰り返していた。
――桃香もここに来られたら、きっと喜んだに違いないのに。ふっとそんな思いが湧き、胸の奥と目頭が熱くなるのを感じた。妹は植物を愛していたから。庭の木も、花も、公園や山の植物も。

 背後のドアがぱたんと開いた。振り向くと、ジェイが庭に出てきていた。パジャマ代わりの、黄色いTシャツと白いショートパンツ姿だ。
『あら、目が覚めたの? まだ四時半くらいよ』
『うん』
 ジェイは頷くと、ありさのそばを通り過ぎ、菜園へと向かっていた。
『でも、ときどき早く起きるんだ』
 ありさも弟の後について、菜園に行った。それほど広くはないが、親子二人で維持するのなら、このくらいの規模が適しているだろうとも思える。そこは、畝ごとに異なる野菜が植えられていた。トウモロコシ、トマト、インゲン、ブロッコリー、かぼちゃ、じゃがいも、レタス、きゅうり、たまねぎ――収穫できるものを食べる分だけとり、他の野菜には水をやり、状態を見る。ありさもここへ来てから、何度か手伝った。
 ジェイはベランダに置いてある桶を持ち上げ、菜園の入り口に置いた。収穫した野菜は、この中に入れて家に運ぶのだ。
『朝用のお野菜を取るの?』
『うん』
 ジェイはトウモロコシの列を歩き、一本一本、実を一つ一つ見ていくと、手を伸ばして三つ取った。ありさも手伝おうとしたが、収穫の選別はわからない。以前何度か手を伸ばしかけて、『それ、まだだよ』と、ジェイに言われていた。それゆえいつも、『どれを取るのか教えて。それを取るから』と、弟に声をかけている。
『そのブロッコリーとって、エリッサ』
 ジェイが指さしたので、ありさは一度家に引き返し、包丁を持ってきて、その株を切った。その間に弟はトマトを二つ取り、キュウリの一本を『取って』と指示してきた。ありさが取ると、ジェイも別のところから一本とっている。実際に、弟が取っている野菜は、食卓に乗せると、どれもみずみずしく、まさに食べごろという感じだった。
『すごいのね、ジェイは。食べごろの野菜の見分け方、教えて』
 ありさはそう問うてみた。ジェイは振り向き、しばらくじっと見たあと、頭を振った。
『教えられない』
『あら、残念ね』
『だって、やさいの声、聞こえないでしょ?』
 ジェイはなおもじっと見、表情を変えずに言う。
『野菜の声?』
『うん』
『あなたには、聞こえるの?』
『うん』
『なんて言っているの?』
『食べて。今が食べごろだよ』
『ええ?』ありさは思わず、あいまいな笑みを浮かべた。
『それと、あのジャガイモは病気。だから、抜かないと』
『え?』
 ありさは指さした方に行って、屈みこんだ。たしかに、微かに茎が茶色くなり、葉っぱに斑点が出かかっている。
『どうすればいい?』
『抜いちゃって。あとで、パパに言うから』
『わかったわ』
 ありさはその株を引き抜いた。小さなジャガイモをいくつか根元に付けたまま、それを手に持って、菜園の外に置いた。
『それと、あれとあれには、アブラムシがたかってる』
 弟が指さしたものには、たしかに虫がいた。びっしりではないが、増えると厄介だ。ありさは再びベランダに行き、木炭と酢で作った虫よけを振りかけた。
 たしかに見れば、それとわかる。弟は何度も菜園に出入りしているから、知っているとも言える。食べごろの作物も、眼と質感で判断しているのかもしれない。
 それでも、普段からジェイが植物に接する様子は、まるでその気持ちをわかっているように思える時があった。庭の隅にある小さな井戸から水をくみ上げ、菜園や花壇にまく時も、さっと済ますものと、念入りにまく時があった。一度聞いてみたら、『水を欲しがってるのと、それほどじゃないのが、あるんだ』と答えていた。
 もしかしたら、妹や祖母よりも、この子は〈みどりの人〉なのかもしれない――いつか、大学の友人から聞いた話を、ありさは思い出した。植物に寄り添い、愛しんで育てられる人。ありさの脳裏に、庭の手入れをしていた祖母の姿が浮かんだ。大きなじょうろを抱え、水撒きをしていた妹の姿も。
『その子って、だれ?』
 ジェイが振り向き、聞いてきた。ありさは心臓の鼓動が小さく跳ね上がった。
『その子って?』
『あなたが思ってる、女の子』
 ありさの鼓動は再び跳ねあがった。そう言えば、森に行った時も、こっちの思うことをわかっているように言ったことがあったが――。
『あなたより少し小さいくらいの、日本人の女の子?』
 そう聞くと、相手はこっくりと頷く。
『わたしの妹よ――』
 ありさは固唾をのみこみながら、少し乾いた声で答えた。
『妹?』
『ええ。あなたはわたしの弟だけれど、その子はわたしの妹。わたしのお父さんの娘だから、あなたとは血はつながっていないけれど、どちらもわたしの兄弟』
『その子って、亡くなってる?』
 再びそう聞かれ、ありさはしばらく言葉に詰まった。
『どうして、わかったの? あなたのお父さんに聞いたの?』
 そうだ。スティーヴ氏はベリンダ伯母を通じて、ありさの境遇を知っているはずだ。そう思ったが、少年は首を振った。
『じゃあ、どうして――知ったの?』
『なんとなく、そんな感じがしたんだ』
『ええ』
 ありさは頷き、少し力が抜けるのを感じて、ベランダの段に座った。ジェイもそのそばに来て、腰を下ろす。
『どうして、その子は亡くなったの?』
『あのね……』
 ありさは語った。桃香のことを簡潔な言葉で。植物を愛し、庭を愛していた妹。ピクニックに行ったこと。そこでいなくなり、見つかったこと。それからもそういうことがあり、三度目に妹は、永遠にいなくなってしまったことを。
 ジェイはその灰緑色の眼を開いて、じっと聞き入っているようだった。そして、言った。
『その子は、呼ばれちゃったんだね』
『そうね。神様に呼ばれて、行ってしまったのかもしれないわ……』
 涙があふれてくるのを感じた。あれから六年がたっても、やはり妹のことを話すたびに、悲しみの感情が沸き上がってくるのを止められない。
『ううん、違う』少年はかぶりを振り、ありさを見つめてきた。
『その子はきっと、“彼”に会ったんだよ。それで、呼ばれたんだ』
『“彼”――?』
 ありさは反復した。そう言えばこの子は、森でもそんなことを言っていた。流れをさかのぼっていって源まで行くと、“彼”に会える。あのテントウムシ――おつかいちゃんは、“彼”が近くにいる印だとも。
『“彼”って……誰?』
 その質問に、答えはなかった。少年は遠くを見やるような視線で、言った。
『“彼”は、助けを求めているんだ』
『え?』
『“彼”は呼ぶ。笛を吹く。いつか、ぼくも行くと思う』
 その言葉に、軽い戦慄を感じた。何か言う間もなく、後ろの扉が再び開いた。
『驚いたね。二人とも早起きだな』
 マーロン氏が声を上げながら、大股に近づいてきた。
『おお。もう野菜を取ってくれたのか。じゃあ、朝食を作ろう』
 氏は野菜の入った桶を持ち上げ、少年もその後に続いた。ありさも立ち上がったが、軽い震えを止められなかった。弟は、普通の子ではない。それはわかっていたが、それゆえに、普通の人にはわからない何か、大きな深い何かにつながっているのだろうか。いや、単に普通でないから、その言っていることに意味や脈絡は、それほどないのかもしれないが――ありさは両腕を身体に回し、眼を閉じた。




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