3 高麗郷と高麗神社


(1)高麗人(高句麗)の渡来


北武蔵への渡来人の移住は、6世紀の末頃までさかのぼることができる。6世紀末、律令制下の武蔵國ができる前、それぞれ壬生吉志が男衾郡、飛鳥吉志が橘樹郡、日下部吉志が横見郡で活躍したと伝えられている。この人たちに共通することは、「吉志」という名前であり、これは朝鮮の王を示す「コンキシ」「コキシ」と同一語といわれている(森山悌『古代の武蔵』)

その後、渡来人の武蔵國移住が本格化したのは、7世紀後半からのことである。666年(天智5年)百済人2千余人が東国移住。
  それから16年後の684年(天武13年)百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移し、687年(持統元年)には高麗人56人を常陸に、新羅人14人を下野に、さらに高麗の僧侶を含む22人を武蔵へと、渡来人の東国移住が次々と行われた。
  こうして、716年(霊亀2年)に高麗郡が設置されたのである。高麗郡は、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の各国の高麗人によってつくられた」とあるように、各地の高句麗からの渡来の人々をまとめて、武蔵國に郡を置いたものである。

高句麗系渡来人は、はじめ相模國に渡来し、「相模川下流の開拓を行いながら、大陸の先進文化を広め……その後、霊亀2年(716年)武蔵國に移った」といわれる。
  東海道線の大磯駅を出て東京方面に向かうと、左手に小高く広がる湘南平と高麗山が見えてくる。その高麗山の麓に高来神社があるが、高来神社は1897年(明治30年)までは高麗神社と呼ばれていた。この高麗神社周辺が、高句麗系渡来人の移住した地域で、その渡来集団が高麗王若光の一族ではないかといわれている。



(2)高麗王若光


また、別の記録によると666年(天智5年)に、「玄武若光」という人を含む高句麗国からの使者が日本に来たが、その一行は、668年に高句麗が滅び帰国する機会を失い、そのまま日本にとどまることになってしまったと伝えられている。

一方、703年(大宝3年)には、従五位下「高麗若光」に王姓を与えられたという話が伝わっている。「玄武若光」と同一人物ならば、37年を経過して高句麗王族の一人として王姓を認められたということになる。それから13年後、高麗郡の設置にあたって若光もその一員として移住したのだろうと推定されている(以上は新編『埼玉県史』)。

確固とした記録がないのでたしかなことはわからないが、高句麗国からの使者の一員であった「若光」あるいは、相模国に上陸した高句麗系渡来人の「若光」が、集団で武蔵國に移住して、高麗郡が置かれたとみていいだろう。
  武蔵國の高麗郡や高麗神社、相模國の高来神社(高麗神社)、東京都狛江市の「コマ」、山梨県の巨摩郡など、各地に残る高句麗渡来人の足跡と指導者=高麗若光の存在はたしかなものといえる。
  なお、高麗若光については「高麗王」若光としている文献が多いが、「王姓を与えた」という記録から、高麗の「王」というわけではないのではないか。高麗の「王若光」という名前として理解するのが正しいと思われる。



(3)高麗神社


高麗神社の高句麗渡来人の指導者であった王若光を祀った神社で、1300年の歴史をもつ。若光の子孫が代々宮司を努めてきた。現在は、第59代の高麗澄雄さん(72歳)。

高麗家の家宝として「高麗氏系図」が残っているという。この系図は、『高麗神社と高麗郷』(高麗神社で買い求めることができる)にも記載されている。
  これをみるだけでも、1300年の歴史の重みを感じることができる。高麗神社は出世明神として有名だが、別名白鬚神社と呼ばれ、武蔵國に多数ある白鬚神社は高麗神社の分社で、そのため高麗総社といわれている。

おもしろいことに本殿の扁額に、高麗の字の間に「句」という字が小さく掘り込まれ、本来は「高句麗」神社であることを表していて、高句麗からの渡来人としての誇りが伝わってくる。



(4)重要文化財の高麗家住宅


社務所裏手には1600年代(江戸時代前半・慶長年間)に建てられたという高麗家住宅があり、国の重要文化財に指定されている。

建物は入母屋造りでカヤぶき。なかは5部屋と土間があり、一番広い部屋は21畳くらい。柱は手斧で仕上げられているそうだ。
  戦後まもなくまで使用していたといわれるが、現在は住宅として使っていない。なかに入ることはできないが、外から見学ができる。






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