2 武蔵國の高麗郷


高麗郡は、716年(霊亀2年…奈良時代のはじめ)に、「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国の高麗人1799人を以って、武蔵國に遷してはじめて高麗郡を置く(『続日本記』)と伝えられている。ここにある高麗人とは、朝鮮半島で7世紀半ばまで栄えた高句麗出身の渡来人のことである。
  江戸時代の郡域は、現在の日高市、飯能市の大部分と川越、入間、狭山、鶴ヶ島、坂戸の一部が含まれていた。

武蔵國で郡が設置された年代が文献で確認できるのは、高麗郡と新羅郡(新座郡)の二つで数少ない例である。

朝鮮半島との交流はすでに弥生時代からあったが、この時代、東国の高麗人を集めて武蔵國に新しく郡を設置したのは、7世紀後半の朝鮮半島の情勢が大きく影響している。それまで渡来した人々や滅亡した高句麗から渡ってきた人々をたばねることが必要になり、高麗郷が置かれたものであろう。
  また、当時の大和政権にとって東国の支配と北武蔵の開発をすすめるためには、高度な知識と技術をもった渡来人の力が欠かせないものであった。

高麗郡には、「高麗郷」と「上総郷」の二つの郷が置かれ(当時の行政単位は国・郡・郷)、高麗郷は今の高麗神社がある日高市一帯にあった。また、上総郷は上総(千葉県)からの移住者が中心になって開発された地域と推定されている。
  高麗郷一帯は今も古代朝鮮文化を色濃く残したところで、西武池袋線高麗駅をおりると、朝鮮半島で境界線を示すといわれる、「天下大将軍」「地下女将軍」の巨大な「将軍標」(トーテムポール)がたっている。



戻る 次へ  TOP