武蔵の男衾郡−「踊る埴輪」の江南町と川本町の鹿島古墳群
武蔵國の男衾郡をしらべてみようと、「踊る埴輪」で有名な江南町役場の教育委員会を訪ねた。江南町役場の建物は、びっくりするぐらい立派な建物で、一階ロビーは建物の真中が広々とした吹き抜けになっていて、カウンターサービスも本当に気持ちがいいところだ。ロビーには踊る埴輪のレプリカが展示されている(発掘された埴輪は上野の東京国立博物館におさめられている)。
教育委員会の方の親切な説明を受け、案内図をもらって、まず江南町の古墳遺跡を訪ね、その足で川本町の鹿島古墳群、荒川の白鳥の飛来地を訪ねてみた。
男衾郡は、比企丘陵の北側、今の江南町から川本町、寄居町、小川町、滑川町など荒川右岸一帯にあった。そのなかでも、平安時代、男衾郡の太領(郡司)であった壬生吉士福正が住んでいた榎津郷にあたる(…と思われる)江南町から川本町には、数々の古墳遺跡があって、歴史の重みを感じるところだ(埼玉県史は榎津郷を寄居町方面に比定しているが、江南町から川本町の古代遺跡などからこの方面を考えてみた)。
今回は東松山から深谷市にぬける県道47号線(深谷・東松山線)を中心に歩いてみた。(2002年2月)
男衾郡 歴史散歩
● 江南町役場へのアプローチ……関越道東松山インター ⇒ 熊谷バイパス ⇒ 県道47号線(深谷・東松山線) ⇒ 小原十字路を右折、県道11号線(熊谷・小川・秩父線) ⇒ 左方面に江南町役場
● 歴史散歩コース……江南町役場から「塩古墳群」、踊る埴輪の「野原古墳群」、どちらからでもいいが、今回は塩古墳群からさきにまわってみた。
● 江南町教育委員会ホームページ…… http://www.konanmachi-stm.ed.jp/kyoui/ の「文化財」
江南町教育委員会のホームページは役所にしてはめずらしく、役所関係のリンクだけでなく、埼玉県内の個人のレポートや地域情報を多数リンクしている。私のホームページ『古代武蔵学事始め』もリンクしている。
●塩古墳群@ (大里郡江南町大字塩)
江南町役場から県道47号線(深谷・東松山線)、小原十字路にもどって、そのまま県道11号線(熊谷・小川・秩父線)を小川町方面に進み、塩八幡のバス停を過ぎたあたり左側に入ると塩古墳群。四つ角右側が塩八幡神社で、左手に塩古墳群の案内板がある。
●塩古墳群A
塩古墳群は古墳時代前期(4世紀)のものといわれ、埼玉県内の古墳の中でも最初の時期につくられたもので貴重な古墳遺跡だそうだ。1号墳は全長38m前方後円墳。その他に16基の方墳と円墳がある。
※足をのばして……塩古墳群から塩八幡の北の方角に、延喜式式内社に比定される出雲乃伊波比神社があり、さらにその北のバードレイクゴルフ場の中に古代寺院の寺内廃寺跡がある(残念だが中に入って見ることはできない)●踊る埴輪の野原古墳@ (大里群江南町野原)
県道11号線を小原十字路までもどり、和田川に沿って熊谷バイパスに向かって進むと、左手に八幡神社が見えてくる。その裏手が野原古墳群のある雑木林。
野原古墳群は、6世紀末から8世紀前半の古墳で、古墳時代の後半から奈良時代にかけて比企地方の古代文化が発展した時代のもの。(写真は八幡神社、この裏手に野原古墳跡がある)
●踊る埴輪の野原古墳A
野原古墳群は、1930年(昭和5年)、開墾中に発見された。有名な「踊る埴輪」を出土した古墳群である。ところが今では開発によって乱暴に壊されてしまっていて、全長40mもあったといわれる前方後円墳の墳丘はなくなっているそうだ。
八幡神社の裏手の林の中にあるが、入っていく道もない。大変残念。神社の左手に解説板があるので読んで見るしかない。
●押切橋南公園の踊る埴輪@
県道47号線を深谷方面、押切橋に向かって北上すると、押切橋交差点の手前右側に押切橋南公園がある。公園といってもとても小さい公園なので見逃さないように。
公園にはお休みどころがあって、「踊る埴輪」のモニュメントが立っている。県道深谷・東松山線の押切橋開通を記念して建てられたものだそうです。
●押切橋南公園の踊る埴輪A
これが本物の「踊る埴輪」。現在、上野の国立東京博物館に展示されている。
右の大きいほう(男性か)の埴輪が約64cmで、左の埴輪(女性か)が約57cm。よく見ると、女性は頭にふりわけ髪と顔の左右に蝶の形の角髪(みずら)を結い、左の腰に紐を下げている。
いかめしい武人埴輪などと違って、むだな所は一切はぶいた、人の姿を抽象化した焼き物で、楽しそうに踊る様子がうかがえる。(踊る埴輪といわれていますが、見方によっては愛を語っている姿かもしれませんね。それとも楽しく歌っているんでしょうか)
●川本町・鹿島古墳群@
押切橋南公園を北に向かってすぐのところが、県道47号線の押切橋交差点。まっすぐ荒川を渡ると深谷市。
押切橋交差点を左に、県道81号線(富田・熊谷線)を花園方面に進み、平方のバス停近くを右折するとすぐ荒川の土手に出る。そこに土手に沿って鹿島古墳群がある。荒川に出ると、目の前が白鳥の飛来地になっていて、秋から春先まで200羽近い白鳥が羽を休めている。
●川本町・鹿島古墳群A
鹿島古墳群は、川本町から江南町にわたって約2kmにわたって分布している。荒川右岸の河岸段丘上にあって雑木林のや畑の中に20m〜30m間隔でつくられている。
※白鳥を見るには、地図の右上に広い駐車場があるので、車を置いて川を歩いて行く。地図左手にも小さい駐車場があるので、すいていればそちらが川に近い。
●川本町・鹿島古墳群B
これまで確認された古墳は124基にのぼっているが、現在は56基しか残っていない。
古墳の内部は、胴張りのある横穴式石室で、荒川の川原石などを使って築かれている。古墳が築かれた時代は、7世紀後半から8世紀はじめにかけて築かれたもので、渡来人集団・壬生吉氏との関係が注目されている。(最近の発掘調査によると6世紀までさかのぼることがわかってきました)
●荒川白鳥飛来地
「都心からこんな近いところに」とびっくりするが、鹿島古墳群の北側の河原はコハチョウの飛来地として知られている。
コハクチョウは毎年、秋に200羽近くが飛来して、春先まで羽を休め、ふたたびシベリアに帰っていく。
このあたりは四季を通じて野鳥が多く見られ、野鳥の観察に訪れる人も多い。
●鹿島古墳群・周辺案内図
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