5 比企丘陵の横穴墓
※比企丘陵の遺跡地図は、「比企丘陵の古墳遺跡」を参照
(1)吉見百穴横穴墓群
● 古墳時代末期の様式
■古代武蔵國の横見郡があったと推定される吉見町は、埼玉県比企郡にあり、東松山市によって東西に分断された比企郡の東部の北側を占めるところにある。比企丘陵の東端にあたる丘陵地で吉見丘陵と呼ばれている。標高は30mから80mで、地質は凝灰岩で、吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓群が広がり、丘陵のあちこちには枝状の谷が発達しし、古くから人々が生活したあとが伺える。
■ 吉見百穴や黒岩横穴墓群などの横穴墓は、胴張りのある横穴式石室とほぼ同じ時期に比企丘陵に出現した。そのなかでも横穴墓群が集中しているのが、吉見丘陵の吉見百穴と黒岩横穴墓群である。
● 吉見百穴横穴墓群
■吉見百穴は吉見町北吉見にあり、東武東上線東松山駅の東約2kmのところ、市ノ川に面する高さ45mの丘陵斜面につくられている。1887年(明治20年)に発掘調査が行われたが、その当時237基の横穴を発掘した。
■ 1887年といえば、1877年(明治10年)にアメリカのモースが大森貝塚を発掘し、日本の考古学が成立して間もない時代で、はじめは「原始時代のコロボックル人の住みかだった」などといわれたが、その後の考古学の発展のなかで、横穴墓と確認された。吉見百穴は、なかにつくられた棺座や排水溝など見ることができる。横穴墓に埋葬されていた副葬品は、金環・銀環・勾玉・直刀・須恵器・土師器・埴輪などだった。
■ 古墳時代の終わり、これだけの規模の横穴墓がつくられたということは、この地域の広い範囲において一つの支配圏がつくられていたことを証明するもので、古墳時代から奈良・平安時代へと生産力の発展と生産関係の大きな変化が訪れた結果である。(写真は吉見百穴横穴墓群)
吉見百穴の「地下軍需工場跡」 吉見丘陵の凝灰岩の加工しやすい性質を利用して、太平洋戦争の時に地下に軍事工場をほりめぐらした。今でも残っていて中に入れるが、古代につくられた古墳を利用して、侵略戦争のための工場をつくったとなると、1300年前の北武蔵の人々も安らかに眠るどこころの騒ぎではなかったのではないか。
なお、この軍事工場跡地については、長野県の松代大本営跡の調査と同じく、地元の高校生が調査活動を進めている。(写真は地下軍需工場跡入り口)
(2)黒岩横穴墓群
■ 黒岩横穴墓群は吉見丘陵の東側黒岩にある八丁湖周辺の山の斜面に分布している。黒岩横穴墓の数は吉見百穴よりも多いといわれ、一説によると500基ほどの横穴墓があるといわれている。(写真は八丁湖の奥にある黒岩横穴墓群)
■横穴墓群の一部は、1877年(明治10年)に16基が発掘されたが、1957年(昭和33年)と1969年(昭和44年)の調査で、周辺の谷の多くで横穴墓が存在することが確認されている。横穴墓のつくりは、ほぼ吉見百穴とおなじ構造で、発掘の祭には須恵器・鉄器・勾玉などの遺物が出土している。全面的な発掘調査が実施されると、もっと新しい事実が明らかになるかもしれない。
■ 各地の横穴墓群
@埼玉県鳩山町の十郎横穴墓群……北武蔵の比企郡鳩山町にも横穴墓群があり、越辺川にのぞむ丘陵の急斜面にのこされている。現在、3基が開口しているが、外から見ると黒岩横穴墓群とそっくりのかたちをしている。
A神奈川県大磯町の楊石寺横穴墓群……相模國の大磯の湘南平の山麓や、高麗山の丘陵部に横穴墓群がある。その一つ、楊石寺谷戸の南向きの斜面に4段に配列された20穴からなる横穴墓群がある。この楊石寺谷戸横穴墓群は、7世紀頃の墳墓といわれている。
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