2 湘南の海から相模川にのびる文化
   − 相 模 の 渡 来 文 化 の 発 展−

(1)武蔵國と相模國


古代律令時代に武蔵國、相模國が置かれる以前、武蔵や相模(今の東京・埼玉・神奈川)は、地方豪族が入り乱れて支配する地域として、おおよそ次のように分かれていたといわれている。
 武蔵地方は无邪志国造が北武蔵、胸刺国造が多摩川流域の南武蔵を支配し、秩父地方は知々夫国造が支配していた。そして相模地方は相武国造が相模の北辺の山間地域を、師長国造が大磯を中心とした海岸地方を支配していた。

このように、その頃の相模國ははじめ相武(そうぶ)と師長(しなが)という二つの地域に分かれ、地方豪族の支配する地域であった。その後、相模地方は奈良時代にはいって、律令政治の確立にともなって整理されて相模國となったのである。

相模国は8つの郡で構成され、西から足上郡・足下郡・愛甲郡・余綾郡・大住郡・高座郡・鎌倉郡・御浦郡が置かれた。現在の地域構成からみると、神奈川県域の川崎・横浜周辺(橘樹郡・都筑郡・久良郡)は武蔵國に属していた。当時、武蔵國に属していた南武蔵の国々が多摩川流域につくられ、相模國が高座郡を中心に相模川にそって発達したようだ。



(2)相模國の始まり


当時の相模國の国府は今のところ確定していないが、相模国分寺が高座郡の本郷村(今の海老名市本郷)にあったことから、国府は高座郡に置かれていたと推定されている。その後相模国府は、記録では後に高座郡から大住郡に移り、平安時代には余綾郡にあったといわれている(今の中郡大磯町の国府本郷)。こうしてみると相模國の中心は、高座郡と大住郡の間を流れる相模川の両岸にかけて発達した地域にあったことがわかる。

高座郡は、地形的にみると相模國のなかでも相当東に寄っているように見えるが、これには相模川の存在が大きく、当時の社会が河口から川の流域にかけて発達したことと無関係ではないと思われる。

歴史的には、高座郡が高句麗系渡来人によって拓かれたことが明らかにされており、隣りの大住郡高来郷には高麗神社が置かれていた。そして、余綾郡には高句麗系とは別に新羅系渡来人によって拓かれたと思われる幡多郷もある(今の秦野市)。
  「幡多」は「秦」氏。これから調べる武蔵国幡羅郡(埼玉県熊谷・深谷地方)、高知県の幡多郡なども同じ)。

このように、相模國の渡来文化の歴史もまた、東国の開拓と古代日本の国家体制の確立にあたってきわめて重要な役割を果たしたことが明らかになっている。

      
  

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