北武蔵と相模の渡来文化
武 蔵 と 相 模 の 渡 来 文 化 −

    

 1 二つの「座」(くら)と大磯の「高麗郷」


- 武蔵國「新座」と相模國「高座」、そして大磯の「高麗郷」 -


『古代武蔵学事始め』の主題からはずれるかもしれないが、武蔵國の歴史を整理するため、どうしても一度は相模國を訪ねたいと思っていた。
 
そのわけは、神奈川県高座郡が埼玉県の旧新座郡と、歴史や郡の呼称があまりにも似ていることであった。どちらも古代日本の国家体制が確立する過程で、渡来人を中心に拓かれたところである。そして、武蔵國の新座郡が「にいくら」(にいざ)と呼ばれ、相模國の高座郡もまた「たかくら」(こうざ)呼ばれてきた。

神奈川県高座郡は、律令時代に郡がおかれて以来、高座郡という郡名が今日まで残っている貴重な例である(郡が置かれた当初は高倉郡、現在高座郡は寒川町一町のみの構成になっている)。
  埼玉県の旧新座郡も武蔵國が置かれて以来、つい最近まで(1890年・明治29年)1,140年間つづいた。新座郡は郡が置かれたときは新羅(しらぎ)郡と呼ばれたが、平安時代になって新座(にいくら)郡と郡名が変わっている。どのような理由で郡名が変わったのか記録の上でははっきりしていない。

相模國高倉郡(現高座郡)は、高句麗系渡来人が切り拓いたところといわれており、武蔵國の新座郡もまた新羅からの渡来人を中心に設置された郡である。この関係を調べることによって、武蔵國の新座郡が「新羅」から「新座」に移り変わった理由が見つかるのではないかと期待したからである。

二つめは、湘南の大磯町高麗にある高来神社はもと高麗神社と呼ばれていた。伝説によると、朝鮮半島から旅して相模湾に上陸した高麗若光一族が、初めてこの地域を切り拓き、そして武蔵國の高麗郡(今の埼玉県日高市)の設置にともなって、移住したといわれているところである。ある意味では、大磯の高来神社(高麗神社)とその地域が、武蔵の渡来文化をさかのぼる歴史の始まりではなかったかと思ったからである。(写真は大磯の高来神社=高麗神社)



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