3 高座郡と渡来文化

(1)相模國の高座郡


高座郡は、古代から現在まで続く郡名で、地勢は相模湾の中心部、湘南海岸から北に向かって細長く続き、西は愛甲郡・大住郡との境を相模川(馬入川)、東は鎌倉郡との境を境川(旧高座川)に沿ってつくられていた。今の神奈川県にあてはめると、藤沢市・茅ヶ崎市・相模原市・大和市・海老名市・座間市・寒川町を含む広大な地域である。

相模國の中心地

高座郡は、記録の上では相模國のなかでももっとも早く、『日本書紀』の天武記(675年・天武4年)に「高倉郡」として登場する。高倉郡は後に高座郡として郡の呼称が変わっているが、これは和銅6年の「郡・郷名に好字をつける」いう命により高座郡という郡名が定着したものだと解釈されている(神奈川県史)。

高倉郡は「太加久良」(たかくら)と読まれ(『和名抄』)、同じく高座郡も「たかくら」と呼ばれ、相模国の中心地であったと考えられる。


海老名の国分寺

高座郡の中央部の海老名市周辺には古墳が多く、古代律令制下には国分寺が置かれていた。今の海老名市には、国分寺跡が発掘され保存されている。
  当時、国分寺は国府(国衙=国の中心地)のある地域に置かれていたので、相模の国府は高座郡にあったと推定されている。(写真は相模国・国分寺跡)


寒川町の寒川神社

また、高座郡寒川町には、相模一ノ宮で有名なの寒川神社があり、関八州の厄除けの守護神としてまつられている。そして、「寒川」は「寒河」の当て字で、古代朝鮮語のサガ(私の家・社の意)であるといわれていて、神社は朝鮮渡来人の氏神という説もある。        

(2)「倉」「座」=「クラ」について


『神奈川県史』は、『地名語源辞典』(山中襄太)を引用して、「倉」「座」=「クラ」についてまとめている。

『地名語源辞典』では……「たかくら」の項で高倉・高座・高蔵・高鞍の例をあげ、「倉・蔵・鞍・座などは当て字で、本当は、峨・ー・岩などの字をクラと読むので、その意味は、谷、ガケである。すなわちタカクラとは、高いガケの意」としている。
  さらに、「くら」の項では、倉・蔵・峨・ー・岩・座・鞍・闇の字をかかげ、「これらの字を書いてクラと読む地名がたくさんある。クラは谷、ガケを意味する古語や方言で、これらの地名は、深い谷や絶壁、それから転じて絶壁のある山などの名になっている」ということである。

しかし、『神奈川県史』は、高座郡の地域がその地勢から見て「クラ」の意については合致しないとして、その地名の由来をこの地方に正倉が置かれていたことから、「高い倉」のあるところと解釈している。確かにこの地域は相模平野の中心地で、歩いてみていわゆる「がけっぷち」は見かけなかった。

ところが逆に、高座郡を訪ねてみて、この 『地名語源辞典』によって新しい発見をした。それは、新座郡のあった地域、とくに埼玉県志木市から朝霞市、和光市にかけて、武蔵野台地が荒川流域に落ち込む地形が「高いガケ」そのとおりだからである。
  もし、この「クラ」=「高いガケ」がこの地域に当てはまるとすると、まさに「新座」の地名そのものではないだろうか。



(3)武蔵國「新座」と相模國「高座」の地名の共通性


「新座」と「高座」の共通性について考えてみたい。
  武蔵の新座郡は、新羅人を中心に758年(天平宝字2年)に郡が置かれた当時は、新羅郡であった。理由はわからないが平安時代に入って新座郡に変わり、「にいくら」と呼ばれた。中世になって新座郡は新倉郡と書き、同じく「にいくら」と呼ばれた。そして近世に入ってからは「にいざ」と呼ばれるようになった。
  相模の高座郡は初め高倉郡と書かれていたが、高座郡に変わり、いずれも「たかくら」と呼ばれてきた。こちらも「こうざ」と呼ばれるようになったのは近世になってからである。

こうしてみると、相模の高座は高句麗系渡来人の地域として、高句麗をあらわす「高倉」「高座」(たかくら)という地名となったことがわかる。一方、武蔵の新座は新羅人を中心につくられた郡が、新羅の「新」を残して「新座」「新倉」(にいくら)という地名となったのではないだろうか。

「高句麗」はKo-kor´、「高倉」もKo-korと発音し、それぞれ大国・大部落・大郡という意味の朝鮮語だという説がある(中島利一氏の引用…『寒川町史』より)。高句麗(コクリ)は、「高」(大の意)が国名、「句麗」(クラ)は「倉」で、「座」も「倉」と同じく「くら」と読む。

このようにみてくると、高句麗系渡来人が住んだ相模の地域が「高」で、新羅人を中心に郡が置かれた武蔵の地域が「新」となったものと思われる。

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