4 大磯「高麗郷」と高来神社


(1)湘南の大磯


大磯の町は、湘南平・高麗山など大磯丘陵の南東部に広がり、南は相模湾に臨む町で、江戸時代には大磯宿が置かれていた。国道1号線と湘南海岸にはさまれたところに旧東海道の松並木が残り、車の往来が激しいわりには、自然が残ったとてもいい町だ。(右写真は、湘南平から高麗山・相模湾をのぞむ。その先は江ノ島から鎌倉、そして三浦半島)

奈良時代には、相模國余綾郡(よろき=その後淘綾郡)に属し、近世には高麗寺村がつくられ、石高は100石、鎮守は高麗村権現社が置かれた。
 今の大磯町は、明治29年から中郡に属し、大磯宿・西小磯村・東小磯村・高麗村(こま)が合併して町となった。そして、現在の大磯町高麗は、昭和55年に高麗1〜3丁目に編成されている。

この大磯には、湘南平から高麗山にかけて小高い山が連なっていて、この山のいたるところに「横穴古墳」があり(一説によると1,200穴)、東の高麗山の麓には高来神社(高麗神社)がある。また、平安時代には相模国府が置かれたという記録があり、その国府跡は大磯町国府本郷の辺りと推定されていて、現在発掘が進められている。



(2)高麗寺村


今の大磯町高麗は、江戸時代から明治にかけて高麗寺村と呼ばれ、当時は相模國淘綾郡(ゆろき)に属していた。高麗寺村のいわれは、高麗山に高麗権現社があり、高麗寺村は高麗権現社別当天台宗高麗寺領からなる。

『新編相模風土記』には、「村名は同寺名にちなみ」「高麗の名は、古く当地辺りに高麗人が住したところにちなむ」としている。寛政年間に村がつくられ、高麗神社領100石が与えられた。明治の初めに高麗村と改称され、現在は大磯町高麗となっている。



(3)高来神社(高麗神社)


高来神社はもと大住郡高来郷にあった。近世に入って高麗寺村がつくられ、余綾郡に属した。

高来神社は、もとの名を「高麗神社、高麗権現社あるいは高麗三社権現と称した」(角川地名辞典)。『新編相模風土記』にも、「高麗寺山の頂にあり、又左右の峰に、白山・毘沙門を勧請して高麗三社権現と称する」とある。

現在、山頂の上宮はすたれ、山麓の下宮が中心になっているが、『筥根山(はこねやま)縁起』(鎌倉期)によると、「神功皇后が三韓を平定」したあと百済明神・新羅明神・高麗大神を招来したが、そのうち高麗大神は大磯に勧請したとあるそうだ。別当の高麗寺は、鶏足山雲上院と称したが、明治維新で高麗寺は廃寺となった。(写真は高来神社鳥居、後ろの山が高麗山)




(4)高来神社の歴史


大磯町役場を訪ねたときいただいた、東海大学稲葉助教授の『相模高麗寺・高麗権現社の研究』をみると、高来神社(高麗神社)の歴史が簡潔にまとめられている。このレポートを引用させていただくと次のとおり。

来神社の由来

この土地には、かつて高麗権現社、高麗寺(今は廃寺となり、現在高来神社、慶覚院)があり、「高麗」の地名とともに、古代朝鮮の「高句麗」から由来しているといわれている。

神仏分離と高麗寺

江戸時代初期、高麗寺には、徳川家康の神影である東照宮が祀られていたため、参勤交代の際、諸大名は下馬して参詣せねばならなかった。しかし、この高麗寺は徳川幕府の滅亡とともにその歴史は抹殺され、今日にいたるまでまったくというほど顧みられることはなかった。(「歴史は抹殺された」ということは大変重要なことで、明治維新による皇国史観の確立と富国強兵・海外侵略の体制づくりによって、日本の歴史観が根本的に変わった時代である)

高来神社の現状

境内には、本殿、神興殿、坊(子院)であった慶覚院と、高麗山山頂に上宮跡が残されている。

高麗寺の歴史の変遷(『相模高麗寺・高麗権現社の研究』より)

第1期(創建時〜鎌倉時代)…創建は『建立記』によると、漁民が海から引き揚げた千手観音像を祀るために、養老元年に行基が堂社を建てたことが始まりとされているが、文献では鎌倉時代までしか追うことができない。南北朝時代に戦火を浴び廃寺に等しい状態になった。

・第2期(江戸時代、徳川家康から朱印地を授かり、東照宮を祀った時代)…東照宮を勧請した理由は、大磯宿高麗は古来「高麗若光」を祀った「高麗権現」を祀っており、権現信仰のるこの地に東照宮を置くことが意味付けやすいと考えたこと。この復興には寛永寺の天海の働きがあった。

・第3期(高麗時村の形成=寛政年間)江戸時代初期、高麗寺には、徳川家康の神影である東照宮が祀られていたため、参勤交代の際、諸大名は下馬して参詣せねばならなかった。
 しかし、この高麗寺は徳川幕府の滅亡とともにその歴史は抹殺され、今日にいたるまでまったくというほど顧みられることはなかった。

・第4期(明治維新と神仏分離令)
明治維新によって、明治政府は徳川幕府の色を抹殺するために神仏分離令を公布した。幕府とのつながりのあった高麗寺も廃寺に至った。
  高麗山山頂にあった高麗権現社は、高麗寺本堂に移り高麗神社に改称した。高麗神社が引き継いだ観音堂、神興殿以外の建物は廃仏毀釈の運動の際にすべて壊されてしまった。

・現状…大磯消防本部付近にあった慶覚院は明治15年の大火で類焼し旧高麗寺地蔵堂へ移りお堂を構えた。高麗神社は明治30年に高来神社と改称、慶覚院とともに現在に至っている)

 
(5)高来神社と渡来伝説


高来神社(高麗神社)と渡来伝説を否定する説もあるが(とくに、高来神社関係者=宮司さんの話しや社人の高橋光さんの著述)、どうもこれらは明治時代の神仏分離令が行われ、日本が天皇制の時代に入り、海外侵略をはじめた時代のなごりのような気がしてならない。多分、高来神社(高麗神社)の歴史は、おおよそ東海大学チームの研究のとおりだったと思われる。

時代は、武蔵國に高麗郷が置かれる以前、日本が律令政治に入って国家体制が確立する前の出来事である。確かなことはわからないが相模の地域に多くの渡来人が居住し、相模から武蔵、そして北に向かって土地を切り拓いていった歴史が隠されているのではないだろうか。


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