4 新羅郡(新座郡)の中心地-郡衙(ぐんが)跡
(1)新羅郡の郡衙(郡の役所)はどこに
●むずかしい郡衙跡の推定
■郡の役所跡(郡衙跡)については、全国でも確定されたところが少なく、埼玉県内ではまだ発見されていない。
武蔵國内では最近の発掘調査で、北区上中里町平塚神社付近が豊嶋郡の郡衙跡地ではないかといわれているくらいで、まだ多くは見つかっていない。
■ 新羅郡(新座郡)の郡衙跡について、各市の見解は次のとおり。
● 『新座市史』…「和光市午房山がもっとも有力視されている」
● 『朝霞市史』…「まったく不明で、その候補地すら見当たらない状態」
● 『志木市史』…「今日まで新倉という地名を残す和光市新倉、新羅(しらぎ・しんら)から転化したと思われる白子の地域ではないかと考える」(新羅郡の中心地として)
● 『和光市史』…とくにふれていない
■ 『武蔵風土記稿』は、「新座郡上新倉」の項で、「新羅王居跡」として「午傍山の上わずかの平地あり、昔、新羅の王子、京より下向の頃ここに居住せし…」と、和光市新倉の午房山(午王山・御王山)をあげている。(写真右上は和光市の牛房山発掘調査…2001年8月)
●武蔵野台地先端部−朝霞から和光・志木に広がる古代遺跡
■ 旧新座郡のあった朝霞地区四市は、いずれも奈良時代の遺跡が少ないとされいるが、新羅の転化といわれる志木(志羅木の略)、白子、新倉などの地名から推定すると、今の和光市の新倉、白子地域が考えられる。
■ 和光市新倉の午房山遺跡は発掘調査の結果、弥生時代〜奈良時代にかけての住居跡が出土したが、新羅郡の郡衙跡を確定する遺跡は発見されていない。午房山の丘の上は平坦な畑になっていて、今では南斜面にあった遺跡は残念ながらマンションや共同住宅になってしまっている。
■ 古墳時代の遺跡は、朝霞市を中心に一夜塚古墳(朝霞市立第2小学校校庭=写真左)・柊塚古墳(写真右)など根岸台古墳群、黒目川左岸の内間木古墳群、和光市の吹上横穴墓群など、比較的規模の大きい古墳群が発見されている。
柊塚古墳は朝霞市立第2小学校の裏手にあり(現在は南側に共同住宅が建って後円部しか残っていない)、全長60m、後円部の直径は40mあり、大型の前方後円墳の部類に入るという。
●新羅郡の郡衙跡−朝霞から和光にかけて「荒川右岸の台地」?
■ こうした武蔵野台地先端部の遺跡群から推定すると……この時代の人々は、柳瀬川・黒目川・白子川など、荒川や新河岸川に流れ込む河口近くの台地に住み、稲作を中心とした農耕文化に従事していたと思われる。
■ 和光市の郷土歴史資料室を訪れたとき、研究員の方が「牛房山からは弥生時代の環濠集落跡は出るけど、奈良時代の住居跡は見つからない。むしろ、和光市の花の木遺跡から平安時代の遺跡が出ている」と話しておられた。また、和光市から越戸川(こえど)をはさんで朝霞市の根岸台方面を有力地とする方もいるそうだ。
■ このように、郡衙跡の候補地として考えられるのは、牛房山のほかに和光市花の木遺跡がある。
花の木遺跡は、和光市新倉2丁目(東上線和光市駅の北)、外環道路をはさんだところで、9世紀代の大きな集落跡が発見されている。花の木遺跡からは、一軒の焼失家屋の住居跡から、全国で3例目の火慰斗(ひのし=アイロン)が発見され、落とし鍵や多数の須恵器が出土している。(左が「花の木遺跡」から出土した火慰斗の先端部…和光市教育委員会、右は想定図)
■ 新羅郡の郡衙跡(郡役所)は(この地域の特徴から推定)……当時、新しく武蔵国の郡を置くとすると、湧き水が豊富で、荒川流域の稲作に適した武蔵野台地(野火止台地)の先端部、朝霞市から和光市にかけての荒川に面した台地のどこかに、新羅郡が置かれた可能性がきわめて大きいのではないだろうか。
(2)当時の新羅郡の中心地は…
■ 新羅郡(新座郡)の郡域には諸説があって、『新座市史』は「志木郷は和光市、余戸郷は新座市を中心とする地域」とし、『朝霞市史』は「志木郷が志木市・朝霞市・新座市・保谷市下保谷の大部分で、余戸郷が和光市の大部分にあたる」と違った解釈をしている。また『志木市史』は「今日まで新倉という地名を残す和光市新倉、新羅(しらぎ・しんら)から転化したと思われる白子の地域ではないか」と述べている。
■ 郡衙跡地とも関係するが、「志木郷」は地名や遺跡から判断すると、和光市新倉から朝霞市根岸台に至る野火止台地の先端部が第一候補で、和光市白子地域も有力な候補地になる。これらの地域以外が「余戸郷」だったのではないだろうか。
■ なお、「志木郷」について、現在の志木市を比定する考え方があるが(例えば、『日本地名大辞典』(角川書店)や『練馬区史』など)、これは間違いである。
今の志木地域に「志木」の名前がついたのは比較的新しく、新羅郡(新座郡)当時の「志木郷」と結びつける根拠は今のところない。「志木」の名前は記録によると、1874年(明治7年)に館村と引又町が合併して志木宿が生まれたときが最初である。
このとき、新しい町名の決め方をめぐって両者で争いになり、やむを得ず命名は県(当時は熊谷県)に一任することになった。そこで県の役人の粋なはからいで、『和名抄』にある志木郷の「志木」をとって名前をつけることになり、両者は納得して志木宿になったということである(『武蔵国郡村誌』…1875年・明治8年)。