3 「新羅郡」から「新座郡」へ−当時の社会のようす−


(1)当時の新羅郡


当時の大和政権の行政機構は(「大和朝廷」という記述の文献がいまだに多いがそろそろ考え方を改めたほうがいいと思う)、「国−郡−郷−里」となっていた。「国」は規模によって大・上・中・下の四段階に分けられ、武蔵國は「大」国とされていた。
  各地の国には行政機関として「国府」(国衙)が置かれ、郡にも役所(郡衙)が置かれた。武蔵國の国府は多摩郡にあったが、現東京都府中市の大国魂神社を中心とした地域が有力視され、発掘が進められている。(写真は武蔵国府模型=東京都府中市の郷土の森博物館)

「郡」は、郷の数によって大・上・中・下・小の五段階に分けられ、「郷」は戸数50戸をもって構成するという基準が定められていた。50戸に満たない場合は「余戸郷」(あまりべ)がつくられた(50戸1郷制)。
  移住した新羅人74人で新しく郡をつくることはむずかしいと思われるが、それ以前に渡来した人々を含めて新羅人を主体とした居住者で構成されていたと考えられる。『志木市史』は当時の人口を「300人弱」と推計している。

新羅郡(新座郡)は「小」郡とされていたが、その後平安時代の記録では、「志木郷」と「余戸郷」の二つの郷で構成されていた(『和名抄』)。平安時代になると、郷は人口1000人前後で構成されていたといわれるから(『図説和光市の歴史』)、その当時の新座郡は千数百人程度の人口になつていた。





(2)「新羅郡」から「新座郡」へ−そのなぞ−


平安時代に入って、新羅郡は郡の名称を「新座郡」と記録されており(『延喜式』)、その呼び方は「爾比久良」(にひくら=にいくら)と呼ばれていた(『和名抄』)。

それまで新羅郡が置かれて約170年がたっているが、この間の経過について文献上記録がないため、新羅郡から新座郡に「いつ」、「どのような理由」で変わったか、今のところはっきりしていない。
  これについて、『新座市史』は「新羅という名称が旧俗の号であるため平安中期以降、新座郡と改称されたものであろう」とし、『朝霞市史』は「当時の日本が政治・社会・文化の面で変動期、成熟期にあたり、模倣や輸入から脱する時代」「高麗郡が日本風に改められなかったのは、高麗人の勢力が新羅人より強大だったため高麗で通したのではなかったか」と述べている。

高麗郡は、1896年(明治29年)入間郡に合併されるまで続き、最近まで高麗郷、高麗村、高麗川村などがあり、現在も高麗本郷という地名が残っていて、高麗神社・高麗山聖天院があって、その歴史は比較的はっきりしている。

高麗郡との関係でおもしろいのは、高麗若光ら高句麗からの渡来の一行は、最初相模の國に上陸したと伝えられていることである。
  神奈川県の大磯には高麗山や高来神社があり(1897年・明治30年までは高麗神社といわれていた)、大磯の北には高座郡がある。高座郡はもと高倉(たかくら)郡と呼ばれていたということである。(写真は神奈川県大磯の高来神社=高麗神社)

こうしてみると、新座郡の場合も何らかの理由で新羅郡の「新」を残し、新座郡(新倉郡)としたものと思われる。相模国に入って広がった高句麗系渡来人によってつくられた高倉郡がのちに高座郡になり、武蔵に入って新羅系渡来人によってつくられた新羅郡が新座(にいくら)郡になったとすると、その歴史の符合は大変似ていておもしろい。
  『武蔵風土記稿』(1827年・江戸時代)によると、「新羅」(しらぎ)が「新座」(しらざ)に、さらに「新座」(にいくら)または「新倉」(にいくら)と書き、呼ばれるようになった。「座」(くら)を「倉」(くら)と改めた例は、高麗郡にもあって「高麗」を「高倉」としているのと同じだとしている。『武蔵風土記稿』の記録は説得力があるように思える。



(3)人々の暮らし


律令制のもとで人々は大和政権による収奪に苦しんだ。国家から課せられた税は、租・庸・調・出挙・贄があり、労役、兵役、調庸などの義務を負わされ、働き盛りの男子が労役・兵役にとられた。
  日本の国家は律令制の中央集権政治によって、8世紀半ばには安定した社会をつくりだしたが、一方では農民など庶民は租税と労役・兵役で苦しみ、地方での反乱が相次いでおきたことが伝えられている。
  ひとたび水害や日照りなどによる不作が発生すれば、国全体が飢饉に襲われ、社会不安が広がった。各地に国分寺の造営が強権的に進められたのも、大和政権の支配を強化するためのものであったといわれている。

こうしたなかで、757年(天平宝字元年)関東地方からの防人(さきもり)派遣の停止、792年(延暦11年)農民の兵役が廃止され、代わって有力豪族の郡司(郡の役人)の子弟を兵役につかせる健児(こんでい)を設け、武蔵国では105人の健児を設置したといわれている。(以上は『志木市史』より…人々の暮らしについてもっともよく記述されている)
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