2 新羅郡(しらぎ)の誕生と「新座」(にいざ)
(1)古代の武蔵国
■ 武蔵國(7世紀後半〜)は、東京、埼玉と神奈川の一部にまたがり、21の郡で構成され(うち北武蔵=埼玉県には15の郡があった)、国を治める役所(国府=国衙)は多摩郡(現東京都府中市)に置かれていた。
それぞれ郡が設置された年代ははっきりしないが、『続日本記』という歴史書によると、渡来人を中心に郡が置かれた「高麗郡」が712年(霊亀2年)、旧新座郡の前身である新羅郡は758年(天平宝字2年)に設置されたといわれている。(写真は武蔵国分寺の模型=東京国分寺市資料館)
■ 729年〜749年に建立された武蔵国分寺跡(現東京都国分寺市)から、新羅郡を除く20の郡の銘が刻まれた「寄進瓦」が発掘されている。こうしたことから、武蔵國には国分寺がつくられる以前、8世紀の初めには新羅郡を除く20の郡が置かれていたこと推定されている。
■ この時代は、645年(大化元年)の「大化の改新」に始まり、律令制の施行によって、わが国における中央集権国家体制がつくられる時期にあたる。
地方豪族が支配していた「私有地」の廃止と、「公地公民制」の実施、国・郡・里(郷)などの地方行政組織の確立、戸籍・計帳の作成と「班田収受法」の実施、租・庸・調その他の統一的な課税制度の施行など、中国にならった新しい政治・社会体制を確立する時代に入っていた。
■ そして、この時代、日本社会の発展と国家体制の確立に大きな役割を果たしたのが渡来人・渡来文化である。
(2)新羅(しらぎ)郡の誕生
■ 新羅郡は758年(天平宝字2年)、「日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、はじめて新羅郡をおいた」と記録されている(『続日本記』)。
時代は奈良時代の半ばを過ぎたころで、新羅郡は武蔵國のなかではもっとも新しくつくられた「郡」である。
■ 当時の新羅郡の郡域は、今の朝霞市・和光市・新座市・志木市と東京都保谷市(多摩郡)、練馬区の大泉地域(豊嶋郡旧橋戸村・木樽村)が含まれていたと推定されている。
新羅郡がどのようなかたちで置かれたかは文献上明らかでないが、高麗郡が渡来人を中心に、入間郡から分かれて置かれたと推定されていので、新羅郡も地域的には入間郡を分割して設置されたと考えられる。
■ 『続日本記』には、「…移武蔵國閑地…」(「武蔵國の閑地に移す」)とあるように、当時この地域はまだ開発の遅れた地域であったと思われる。
渡来人を中心に新しく郡を置いた目的は、この地域の開発を進めるが主な目的だったと思われる。また、74人のうち僧尼が半分をしめていることから、武蔵國への仏教の普及もひとつの目的だったのではないだろうか。ただし、新羅郡が置かれたこの地域から、今のところ奈良時代〜平安時代にかけて有力な寺院跡地は発見されていないというから、確かなことはわからない。
(3)新羅郡が置かれた時代と背景
■ 朝鮮半島と日本列島の交流は、日本の国家体制が確立するはるか以前、弥生時代以来ひんぱんに行われたいたが、7世紀〜8世紀にかけて朝鮮半島からの渡来がひとつのピークを迎えている。
■ 主なできごとを列挙すると、次のような出来事が記録されている。
●666年(天智5年)……「百済人男女2千余人東国移住」
●684年(天武13年)……「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」
●687年(持統元年)……「高麗人56人を常陸國、新羅人14人を下野國へ移住」「高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住」
●716年(霊亀2年)……高麗郡の設置(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1779人を武蔵國に移す)
●733年(天平5年)……「埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える」
●758年(天平宝字2年)……新羅郡の設置(日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵國に移住)
●760年(天平宝字4年)……「新羅人131人を武蔵の地へ移り住む」などである。
■ この要因には、朝鮮半島における国家間の争いが大きく関係している。当時の朝鮮半島は、おおまかには高句麗・百済・新羅という三国に分かれていた。この三国の争いが激しくなり、7世紀後半に百済が滅亡し、つづいて高句麗が滅び、新羅が朝鮮半島を統一するという状況にあった。
こうした情勢を受けて、政治的には、これまでの日本各地の渡来人を東国の武蔵にまとめる必要がおきたこが考えられること、そして、新たに渡来する人々が増える中で、大和政権の東北への勢力拡大のため、これらの渡来人を武蔵國に移したものと思われる。