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芦沢央の本棚

  1. 今だけのあの子
  2. いつかの人質
  3. 許されようとは思いません
  4. 雨利終活写真館
  5. バック・ステージ
  6. 悪いものが来ませんように
  7. 火のないところに煙は
  8. カインは言わなかった
  9. 僕の神さま
  10. 汚れた手をそこで拭かない
  11. 神の悪手
  12. 夜の道標

今だけのあの子 東京創元社
 5話からなる連作短編集です。連作短編集といっても各話に緩やかな繋がりがあるだけで、それもその繋がりがストーリーに影響を及ぼすというものではなく、最後の話で「実は・・・」という驚きがある構成にはなっていません。
 自分の結婚式で友人代表のスピーチを頼むほど、自分では親友だと思っていた友人から結婚式の招待状が届かず、それが夫との不倫が理由だと疑う恵(「届かない招待状」)。ある事実を隠すが故に招待しなかったのですが、それはあまりに不自然ですし、今更隠すほどのものではない気がします。作者は隠すほどのものだとの伏線は張っていますが。
 交通事故で亡くなったクラスメート・くるみの家に線香を上げに来て偶然一緒になった瑛子と雅之。くるみの部屋に通された二人だったが、それぞれ思惑があり、帰ろうとはしない (「帰らない理由」)。瑛子とくるみの仲違いの理由となった写真に写った瑛子の表情について、瑛子自身が釈明しないのは不自然です。また、瑛子が家に来た理由は、まだわからないで
はありませんが、雅之の理由はそこまでするかという感じです。
 娘の絵画教室の帰り、貸した三脚を返してもらうために同じ教室の創平くんの家に寄った直香は、家に帰ったときに娘の絵がなくなっていることを知り、創平くんが隠しだのではないかと疑う(「答えない子ども」)。年を取ってからようやく生まれた子どもの子育てにあまりに神経質になる直香の態度を見ていると、ストーリーの行く先はだいたい予想がついてしまいます。創平くんとそのママのキャラが直香が嫌うが故に逆にいい感じに見えます。
 中学受験に失敗し、不本意ながら滑り止めの中学に入学することとなった奈央は、制服が間に合わず入学式を欠席する。翌日登校した奈央は、漫画家志望でマンガが読みたいために入学式を欠席した悠子と友だちとなるが、彼女に話を合わせるため、自分も漫画家志望だと言ってしまう(「願わない少女」)。ここで前に置かれた「帰らない理由」を読んでいることが読者をミスリーディングします。
 老人ホームで生活する澄江は、隣の部屋の孝子の嫁から孝子が嫁が持ってくるお土産の菓子等を食べずに捨ててしまうという悩みを聞く(「正しくない言葉」)。孝子がその理由を見抜く話ですが、その謎解きのおもしろさよりは、孝子が亡くなった夫の言葉の裏側にあった夫の気遣いに気づく部分の方が心に残ります。
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いつかの人質  角川書店 
 夫と離婚し、一人で娘を育てる尾崎典子は、経営する会社の危機の電話に他人の子どもが車の後部座席に乗っていることを失念してしまい家に連れ帰ってしまう。誘拐騒ぎになっていることを知り慌てたが、子どもが誤って階段から落ち、死んだと思った典子は中学受験に合格した娘・優奈のことを思って泥縄の誘拐事件をでっち上げたが、警察の捜査で逮捕される。連れ去られた娘・愛子は保護されたが、階段から落ちて頭を打ったことが原因で失明してしまう。それから12年がたち、漫画家の江間礼遠と結婚した優奈はある日突然、夫にホストにはまって作った500万の借金を告白し離婚届を置いて失踪する。一方、愛子は友人たちとアイドルのコンサートに行った際、再び何者かに誘拐され、身代金600万円が要求される。身代金の受渡現場に残されたメモから優奈の指紋が検出されたことから、警察は優奈の行方を追うが・・・。
 なぜ、愛子は再び誘拐されたのか。優奈はなぜ失踪したのか。愛子の誘拐事件に優奈はどう関係しているのか等々の謎を抱えながら誘拐事件と優奈を探す礼遠を描きながら物語は進んでいきます。
 それにしても、いくら自分の会社の危機だったにせよ、子どもを乗せていたのを忘れるのは弁解のしようがありませんが、百歩譲って、会社の危機という心の動揺に子どものことがすっかり頭から抜け落ちていたとしても、正直に話をせず、娘のためとはいえ誘拐事件に仕立てたりするとは典子はあまりに勝手すぎます。優奈にしても自分に見切りをつけられないでズルズルと過ごしていたのは自分の責任であって、人にどうこうという問題ではありません。失踪だってある意味甘えているが故としか理解できません。
 しかしながら、問題は犯人です。最後までなかなか事件の様相が想像できなくて、ページを繰る手が止まらなかったのですが、最後で明らかにされた犯人の動機の身勝手さには呆れかえりました。腹が立ちます。そんな身勝手な人間に振り回された愛子があまりにかわいそうです。 
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許されようとは思いません  ☆  新潮社 
 推理作家協会賞短編部門にノミネートされた冒頭の表題作を含め5編が収録された短編集です。どれもがラストに驚きと余韻を残す作品となっています。
 祖母の17回忌が終わり、かつて曾祖父を殺したことで郷里の墓に入ることを村人たちから拒否された祖母の骨を墓に納めるため郷里へと向かう孫とその恋人の女性が、祖母が起こした曾祖父殺しに隠された祖母の思いを解き明かしていく・・・「許されようとは思いません」。村八分とされていた祖母がなぜ村十分となる曾祖父殺しを犯したのか、それを知った孫が取る選択にちょっと胸が熱くなります。イヤミス系の他の収録作とは雰囲気を異にする作品となっています。
 仕事での発注ミスを隠蔽しようとした男は、その途上で、交通事故を目撃するが、目撃証言をすることにより、隠蔽計画が発覚してしまうことを恐れ、見て見ぬふりをする・・・「目撃者はいなかった」。「あなたは、自分のためにしか証言できないんですね。」という事故の被害者の妻の言葉がラストで男を追い詰めます。結局は、究極の選択をせざるを得なくなる男に同じサラリーマンとして哀れを感じてしまう1作です。
 子役タレントとして活躍している孫娘のマネージャー役を務めている祖母は、孫娘によってホテルの部屋のベランダに閉め出されてしまう。真冬の季節に、このままでは寒さで凍死してしまうと、孫娘に開けてくれるよう懇願するが・・・「ありがとう、ばあば」。孫娘の行動の理由が明かされる最後の言葉を発する少女の笑みが、幼いが故に逆に恐ろしさを感じさせます。そんな孫娘に育てたあなたが悪い!
 童話作家だった姉の起こした事件のために、周囲から何か言われているのではないかと疑心暗鬼の女性。そんな中でイヤイヤ期を迎えた娘は言うことを聞かず、夫も自分のことを理解してくれないと、次第に精神的に追い詰められていく・・・「姉のように」。ラストのどんでん返しが見事で、そこまでに見ていた風景が一変します。思わずページを前に繰って確認してしまいました。5編の中で一番ミステリ色の強い作品です。 
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雨利終活写真館  小学館 
 巣鴨にある遺影専門の写真館を舞台にした4編が収録された連作短編集です。
 冒頭の「一つ目の遺言状」は、交際している男性から結婚をほのめかされて勤めていた人気の美容室をやめてしまった黒木ハナが、その男性が実は既婚者だったと知って傷心の気持ちを引きずったまま、祖母の遺言状の謎解きのために祖母が遺影を撮った雨利写真館を訪ねるところから始まります。祖母の遺言状に娘であるハナの母親の相続分が書かれていないのはどうしてなのk、雨利写真館の面々と話すうちに、ある事実が浮かび上がってきます・・・。
 「十二年目の家族写真」では、ぎくしゃくしている息子と孫の中を取り持って遺影用に家族三人の写真を撮りたいと考える老人、「三つ目の遺品」では、雨利写真館に残っていた25年前に撮られた妊婦と男性の写真から父と母のことを知りたいと望む女性、「二枚目の遺影」では、最初は娘とおぼしき若い女性と、翌週には妻と一緒に遺影用の写真を撮りに訪れた末期癌だという男性が登場し、遺影を撮るということに込められた人々の思いが描かれていきます。
 終活コーディネーターの夢子、無愛想なカメラマンの雨利、埼玉県出身なのに大阪弁を話す道頓堀という登場人物たちは、それだけ見れば非情に個性的なキャラの面々なのですが、彼ら個々の背景が何ら語られていないため、ちょっと薄っぺらなキャラという感じになってしまっています。特に、カメラマンの雨利は、名前からしてこの写真館のオーナーなんでしょうが、どうしてそんなに無愛想でやる気がないのか、その説明がありません。今作では、“雨利写真館”で働くこととなるハナの人生は描かれましたが、もしかしたら、今後シリーズ化して夢子らのことが語られていくのかもしれませんね。 
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バック・ステージ  ☆  角川書店 
 新入社員の松尾は、忘れ物を取りに戻った会社で、先輩社員の康子が次長の澤口の机を漁っている現場に遭遇する。彼女は松尾に澤口の不正の証拠を探していると言い、強引に松尾に協力を求める。翌日、すったもんだの末、二人は証拠を掴んだが、その証拠の入った鞄を近くの劇場に観劇に来ていた女子高校生に取り違えられてしまう。二人は慌てて女子高校生を追って劇場に向かうが・・・。
 物語は“序幕”と“終幕”に上司の不正を暴こうとする松尾たちの活躍とその結果を描き、その合間に4つの話が挟み込まれています。少しずつリンクはしていますが、それぞれは独立した話です。
 “第一幕”では、息子の親友の話が嘘だとわかって悩むシングルマザーを、“第二幕”では、小学校の同級生だった女性と再会して交際を始めたと思っていたのに、突然振られた大学生を、“第三幕”では、有名演出家の舞台に抜擢されたのに、舞台初日に重要なシーンに出るなという脅迫状を受け取った無名の俳優を、“第四幕”では最近認知症の症状が出てきた大物女優の様子に悩むマネージャーを、それぞれ描いていきますが、どれもラストは感動の余韻に浸れる素敵な作品に仕上がっています。中でも“第一幕”と“第二幕”は個人的におすすめです。
 “序幕”と“終幕”が書き下ろしということからわかるように、元々はこういう連作短編の構成ではなかったようです。あとから考えたにしては見事に話をつなぎ合わせています。“序幕”と“終幕”が今までの芦沢作品とは異なるコミカルな雰囲気であるのも楽しめました。
 本作にはお楽しみ掌編が特別に収録されていますが、その在り場所はカバーの裏。図書館から借りた本では読むことができないので、本屋さんで立ち読みしてきました。本編のラストでは松尾が「まさか、こうきたか」とハッとさせられましたが、こちらでは、松尾の言葉に康子がハッとさせられます。いやぁ~拍手したくなるラストです。おすすめです。 
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悪いものが、来ませんように  角川文庫 
  解説先読み派からすると、そこにはどんでん返しがあると書かれているし、芹沢さんのことだから一筋縄ではいかないだろうと最初から何か叙述トリックがあるだろう疑って読み始めたので、ある人物の証言のところで、この作品のトリックは「ああ、あれだな」とわかってしまいました(似たような叙述トリック、どこかにあったような気がします。)。 同じように、この人物の証言で、「あれ?」と感じた人は多いのではないでしょうか。
 子育て中の専業主婦の奈津子と助産院で働きながら子どもができるのを待ち望んでいる紗英という二人の女性の視点が交互に入れ替わりながら、その間に二人に関わる人物たちの証言が挟み込まれるというスタイルで、二人の間に起こった事件のことが語られていきます。
 あまりに頼り、頼られるという二人の関係が、ちょっと異常すぎるのではないのかと思ったのですが、真相が明らかになってもやはり異常だと思う点は変わりません。う~ん・・・これはちょっと理解できませんね。
 ラストのどんでん返しは芦沢さんの仕掛けたトリックとは別です。ネタバレになるので語ることができませんが、やっぱり、そこには誰もが持つ愛があったのでしょうね。
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火のないところに煙は  新潮社 
 冒頭、「小説新潮」から「神楽坂を舞台にした怪談もの」を依頼された芦沢央さんが、編集者時代に経験したことを第一話「染み」として書くことから物語は始まります。ホラー短編集で第三話以降は芦沢さん自身が人から収集した話という形式をとっており、読者が「もしかしたらこの話は実話かな」と思わせる構成になっています(いや、もしかしたら本当に実話かもしれませんが。)。
 とにかく、冒頭の「染み」が怖いです。知人の女性が占い師に恋人との間を占ってもらったら、結婚しない方がいいと言われ、冗談で別れ話を持ち出したところ、別れるなら死ぬとそれまでとは豹変した男も怖いですが、本当に怖いのはそのあとです。男が交通事故で死んだあと、広告業界に勤める女性の作成した媒体に赤い血のようなものが飛ぶようになり、その赤い染みを虫眼鏡で見ると・・・。いやぁ~、慌ててこの本の裏表紙にある赤い染みを目を凝らして見てしまいました。怖いですねぇ。
 「お祓いを頼む女」は芦沢さんのもとに狛犬の呪いから逃れるためにお祓いをしてくれる人を紹介して欲しいと女が押し掛けてくる話、「妄言」は隣家の女性が、妻に夫が浮気をしていると身に覚えのないことを真実を語るかのように告げ口をする話、「助けてって言ったのに」は夫の実家に住み始めた妻が火事にあう夢を見るようになり、その中で煙の中から「助けてって言ったのに」という声が聞こえる話、「誰かの怪異」はアパートの部屋に出現した女性の霊に対して、友人の知人を呼んで盛り塩や御札でお祓いをしたところ起きた話が描かれます。
 どれも怖い話ですが、最終話「禁忌」に至って、それまでの話を貫くある事実が明らかとされ、それにより一層の怖さが現れます。怪異の正体がはっきりせずに読者は宙ぶらりんになるがゆえに怖さは倍増します。 
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カインは言わなかった  文藝春秋 
 朝目覚めた嶋貫あゆ子は、機内モードにしていたスマホに昨夜、恋人の藤谷誠から着信とメッセージがあったことに気づく。メッセージを開くと、そこには「カインに出られなくなった」という短い文面が書かれていた。誠は世界的に有名な芸術監督である誉田規一率いるクラシック・バレエとコンテンポラリーダンスを融合させた作品を発表している「HHカンパニー」の次の公演「カイン」の主役に抜擢されていた。あゆ子は慌てて連絡を取ろうとするが、電話には出ず、ルームシェアをしている同じ劇団員の尾上和馬も、彼は友人の家に泊まっていたので誠のことは知らないという。果たして誠はどこへ消えたのか・・・。
 物語は誠の行方を捜すあゆ子のほか、誠の失踪でカイン役に指名された尾上、誠の弟の豪の恋人の皆元有美、娘がHHカンパニーのスタジオで熱中症で亡くなったのは誉田のせいだと考える松浦夫妻の視点で公演開始までの3日間が描かれていきます。
 公演名の「カイン」は旧約聖書聖書の人類最初の殺人の加害者と被害者である「カインとアベル」を題材としたものだとわかりますが、その主役に抜擢された誠が、幼い頃、弟の豪が池に沈みそうになるのを見殺しにしそうになったエピソードを持っているというのは、いかにもという感じであまりに安易な設定のエピソード。個人的には好きになれません。
 冒頭で描かれるシーンをよく読むと、その後の展開で犯人は誰であるのかはすぐ予想がついてしまいます。この作品は、犯人は誰なのかよりも、芸術に人生を捧げた者の、僕から言わせれば常識外の思考を描いていくのが主だったのではないかと思います。でも、芸術を追究する者だから仕方がないなんてことは許されませんし、まったく共感できません。5年後のエピソードだけが救いですね。 
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僕の神さま  ☆  角川書店 
 主人公の佐土原は小学5年生。彼はもちろん、同級生たちも、何かわからないことや困ったことがあるとクラスメートの水谷くんに相談する。水谷くんは明快に答えを出してくれるので、彼は皆から“名探偵”ならぬ“神さま”と呼ばれている。謎を前にして水谷くんが鼻の下をこすりながら決まって言うセリフが、「たしかに、それは謎の匂いがするね」・・・。
 物語はそんな水谷くんと佐土原が関わる4つの話と最後にエピローグで構成されます。
 冒頭の「春の作り方」は佐土原の祖父が突然具合が悪くなった原因を水谷くんが明らかにする話。本の帯には「あなたは後悔するかもしれない。第一話でやめればよかった、と。」とあります。確かにこの第一話は最後の佐土原の祖父の一言に感動で幕を閉じます。
 いつもの芦沢作品とは違う雰囲気になるのかと思ったら、第二話「夏の自由研究」でその考えはひっくり返されます。美術の時間に谷野さんが川上さんに絵の具で汚れた水をかけた理由を水谷くんが明らかにするところから話は始まりますが、しかし、メインはこれではありません。理由が明らかになったあとに川上さんの抱える問題に直面する水谷くんと佐土原の話となり、更に、ここの話がラストまで尾を引くことになります。
 「作戦会議は秋の秘密」は運動会の騎馬戦で水谷くんが考えた必勝法で圧勝するという運動会の一こまを描いたものですが、ラストで実はこの必勝法を水谷くんが考えたのには別の理由があったことが明らかとなります。
 「冬に真実は伝えない」は読むと呪われるという本を読んでしまった黒岩くんに不思議なことが起きたと相談された水谷くんがその謎を解き明かします。この話から次のエピソードがグッと重い雰囲気となります。自分の行動を正当化するためにも水谷くんは間違ってはならないと考える佐土原の考えが、二人の間に影を落とします。
 単なる子どもたちの探偵譚にとどまっていません。ラストで去っていく水谷くん、かっこよすぎです。
※子どもたちを描いた作品なのに、最後まで主人公佐土原はじめみんな姓で描き、名前が出ていないところが珍しいですね。 
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汚れた手をそこで拭かない  文藝春秋 
 5編が収録された短編集です。収録作の中に題名の「汚れた手をそこで拭かない」という作品はありません。芦沢さんが、この題名にどういう思いを込めたのか。“汚れた手”=“罪を犯した手”と考えて、罪を隠そうとするとか、誰かになすりつけることかと考えたのですが・・・。
 5編のうち、「ただ、運が悪かっただけ」と「埋め合わせ」は日本推理作家協会賞候補作になった作品です。前者は、余命幾ばくもない妻が、夫の「俺は昔、人を死なせたことがある」という告白から、かつて夫に関わりのあった事故に隠された真実を明らかにする話です。謎解きよりも、夫の苦しみを自分が死とともに持って行ってあげようと考えた妻の心優しい気持ちに感動です。後者は、プールの排水バルブの栓を閉め忘れた小学校教諭が、自らのミスをなんとか隠蔽しようと奔走する様子を描きます。考えれば考えるほど抜け出せない深みにはまっていく主人公が哀れ。そのあげくのあの結果では踏んだり蹴ったりでしょう。自分のミスを、違うことで隠そうとするところが、「汚れた手をそこで拭かない」という題名に一番ピッタリだと思う作品です。
 個人的に好きなのは「忘却」です。「主人公夫婦のアパートの隣室に住む老人が熱中症で死ぬ。老人の部屋は電気代未納のため電気が止められていたという。それを聞いた主人公は隣室の電気代の督促通知が誤配達され、妻が隣人に渡すと言っていたことを思い出し、認知症の始まった妻が渡し忘れたことが原因なのかと悩む。その事件後、なぜか主人公の部屋の電気代が急激に安くなり、調べ始めた主人公の前に明らかにされた事実は・・・」という話です。ミステリとしての面白さでは収録作中一番です。
 余韻を残す終わり方となっているのは、最後の「ミモザ」です。有名料理研究家がサイン会に姿を現した昔の元恋人に金を貸したことから陥る恐怖を描いていきますが、ラスト以後の書かれていない元恋人、夫との関係はどうなるのかが大いに気になります。
 そのほか、ベテラン俳優の薬物使用疑惑から起きた事件の顛末を描く「お蔵入り」が収録されています。これもまた題名に合った、“汚れた手”を“そこで拭いた”ために自滅する男が描かれます。 
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神の悪手  新潮社 
現在、将棋界では藤井聡太王位に豊島将之竜王が挑戦する王位戦が行われていますが、藤井二冠が登場して以来、将棋への注目度が高くなっていますね。将棋の内容だけでなく、対戦中に藤井二冠が食べる食事やおやつまで話題になるのですから驚きです。
 さて、この作品は、そんな将棋の世界を舞台にした5つの物語が収録されています。棋譜や詰将棋のことなどが出てきますので、将棋のことがわからない人にとっては、楽しむことができない話もあるかもしれません。
 表題作の「神の悪手」は将棋の世界の厳しさから起こった事故を背景に、棋士としてどう指すか究極の選択に悩む主人公が描かれます。将棋の世界ではプロへの養成機関である奨励会は、26歳までにプロ(4段)になることができなければ退会しなくてはならず、それまで将棋しかしてこなかった人が突然26歳にして世間の荒波の中に放り出されてしまうのですから、これは本当に厳しい世界です。この物語では、今期既にプロになる目がなくなった岩城啓一が主人公。彼は、現在リーグ戦で暫定1位の宮内と2位の村尾との対戦を控えていたが、宮内との対戦の前日、村尾から宮内との対局の差し手を指南される。宮内が啓一に負け、自分が啓一に勝って逆転1位になることを前提に話をしていると知った啓一は、怒って帰ろうと、止める村尾の手を振り払払おうとするが、村尾は体勢を崩して転倒し頭を打って死んでしまう。逃げ帰って翌日の宮内との対戦に臨んだ啓一は、このまま昨日教わった差し手通り進めば、村尾は今日の差し手を研究している後で死んだことにならないか、そうすれば自分のアリバイができるのではないかと、指南された差し手通り指していくが・・・。
 そのほか、「弱い者」は被災地の避難所にボランティアとして将棋を指しに出向いた北上八段が、相手をする少年の才能に気づくが、なぜか勝てそうなときに悪手を指すある理由に気づく話、「ミイラ」は将棋誌に投稿される詰将棋の検討をする常坂が詰めが不成立とした作者から反論される中で、その反論が、作者が過去に起こしたある事件に由来することを知る話、「盤上の糸」では8歳の頃に交通事故で両親を失い、自分も失認障害を抱えながら棋士だった祖父の指導で棋士になった亀海要と彼と対局に臨む男のそれぞれの気持ちを描きますが、この作品、ものの見事に読者をミスリードします。最後の「恩返し」は将棋の駒づくりに魅了され、大学講師を辞職して駒師になった兼春だったが、棋将戦で国芳棋将が兼春が作った駒を一度は選んだが、結局は師匠の駒を選んだことから、なぜと悩む姿を描きます。 
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夜の道標  中央公論新社 
 1996年横浜市内で塾の経営者・戸川勝弘が殺害され、彼の元教え子で現在30代の阿久津弦が容疑者として指名手配されるが、事件から2年たった今も阿久津の行方は分からなかった・・・。
 物語は4人の視点で描かれていきます。バスケ選手だった父親から教わり卓越したバスケの技能を持つ橋本波留。彼は以前交通事故に遭った時に加害者から多額の賠償金が支払われたことから、味を占めた父親によって当たり屋をさせられるようになっていた。そんな波留が事故に遭ったのは自分が声をかけたせいだと悩む同級生のバスケ仲間の仲村桜介。そして、阿久津が戸川を殺害して警察に自首しようとしたときに自宅に連れて帰って事件から今まで自宅の半地下の部屋に匿っている惣菜店でパート勤めをする長尾豊子。4人目は上司の言うことを聞かなかったため、露骨に窓際に追いやられている横浜旭西署の刑事で戸川殺害事件を追う平良正太郎。
 波留がたまたま豊子の家の庭に入り込み、半地下の窓から阿久津に食事をもらうようになったことから、彼も事件に関わっていくことになります。被害者の戸川の塾は学校の勉強についていけない子や知的障害を持つ子、不登校の子などを受け入れ、子どもや親の信頼を得ており、それは阿久津も同じだったはず。そんな阿久津がなぜ大人になってから戸川を殺害したのかが大きな謎となって平良の前に立ちふさがります。ネタバレになるので明らかにできませんが、つい何年か前に大きな話題となったあることが関わってきます。ちょっと前まで、法律がそれが当たり前だとしていたんですね。波留に対する虐待とともにあまりに重いテーマでした。 
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