「明けない夜はないんだよ」
記憶の中にハッキリと焼きついている言葉
その言葉の真意を壊したのはいったいいつだったのか
その言葉を真意を壊したのはいったい誰だったのか
明けない夜
〜死魄〜
目が覚めると、重厚な布で出来た天蓋が目の前に広がっていた。
数秒その光景を見詰めて、自分が気を失う前の光景を思い出して、そして―――現在地に溜息を吐いた。
「目が覚めましたか?」
ガチャッという扉を開ける音と共に聞き覚えがあり過ぎる声の方に視線を移せば、其処には当然その声の主が居た。
「…ああ。起きて最初に見たのがお前の顔なんて、寝覚め最悪」
「全く、それが君の危機を救った恩人に言う台詞ですか」
呆れた様に言う声も、聞き覚えのある物。
それに何処か落ち着きを覚えそうになって、快斗は内心で暗く嗤う。
ああこれは……相当参ってるな、俺。
「何が危機だよ、大袈裟だな。それに、別に俺は助けてくれなんて頼んでねーよ」
「それはすみませんでした。ですが、目の前で行き倒れた人間を放置して行ける程、僕はまだ人間が出来ていませんからね」
皮肉交じりにそう言ってことりとベッドサイドのテーブルに水の入ったグラスを置いてから、白馬は手近にあった椅子を引き寄せて腰かけた。
「それで、気分はどうです?」
「だから寝覚め最悪だって」
「…腕は?」
「っ……!」
意外にも彼らしくない直球の問いに快斗が顔を歪めれば、何かを悟った様に白馬は緩く息を吐いた。
「…随分無茶をしたみたいですね」
「…見たのか」
「すみません」
「………」
それが答え。
それが全て。
目覚めた時点でそれを覚悟はしていたけれど、じわりと染みが広がる様に心に少しだけ闇が広がる。
同時にじくじくと痛みだす腕に顔を顰めた。
「…黒羽君。痛み止めでも飲みますか?」
「…随分用意が良いんだな、坊ちゃんは」
差し出された水の入ったコップと薬にまた顔を歪める。
……こんな風に……コイツに心配なんてされるのは御免だ。
「悪いけど、必要ない」
ふるっと首を振っても、けれどその腕は引っ込まない。
じろりと睨み付けても、白馬の顔は冷静そのもの。
「必要ない様には見えませんよ。君は気付いていないんでしょうが、顔色が真っ青ですよ」
「こんな趣味の悪い天蓋なんて付けてっから陰になってそう見えるだけだろ」
「…存外君は強がりですが、ポーカーフェイスを保てない今の状態でも更にそこまで強がるんですから困ったものですね」
「………」
この坊ちゃんは外見こそほわほわした砂糖菓子で出来た御伽噺の王子様の様だが、流石に探偵なんてモノをやってるだけあって中身は中々食えない奴だ。
幾ら弱っているとは言え、この自分をこうして言いくるめてみせるのだから性質が悪い。
…大体、怪盗が口で負けてどうする。
自分自身に呆れながら、快斗は仕方なく緩慢な動作で上半身を起こすと薬を受け取り口に含む。
両手が使えないのを考慮してか薬を先に差し出され、その後に水の入ったコップが差し出された事に少しだけイラッとしたがそれでも素直にコップを受け取ると、中の水で薬を喉の奥に押し流した。
嫌な汗で水分が不足していたのか、嚥下した水は酷く身体に染み渡る様だった。
ほぅっと一息ついて、快斗は白馬へとコップを返した。
少しだけ頭がクリアになって、一番大切な事に気付く。
「なあ、白馬」
「安心して下さい。連絡は……していませんよ」
「…お前な、俺が言う前に予測すんな」
「すみません。そういう職種なもので」
全て言わなくても察してしまう。
それは場面がそういう場面であればあるいは有難いのかもしれないが、時として人を少しばかり苛立たせる。
まるで全て見透かされている様で…イライラする。
「…何でしてないんだよ」
「して欲しくはなかったのでしょう?」
「……何で分かる」
「君の状況を見れば何となく…ね」
確かにそうだろう。
白馬は新一と哀の状況を少なからず知っている。
そして、快斗と新一の関係も。
この手の物体を見れば、何をどうして作られたのか……想像するのは容易な筈。
そうして快斗があんな所で行き倒れ一歩手前になっている状況を見れば―――この探偵なら推理するのも容易だろう。
「本当に…随分無茶をしましたね」
労わりの籠った声だった。
優しさの溢れる声だった。
それにうっかり涙が溢れそうになって、快斗は慌てて視線を白馬から天蓋のある上へと向けた。
「るせーよ。お前にそんな風に言われる筋合いなんかねえよ」
「おやおや、随分冷たいですね。長年のライバルに向かって」
「だれがライバルだ。俺のライバルは新一一人に決まってんの」
いつもと同じ軽口を叩いて。
自分で口にした彼の名に勝手にズキッと心が痛む。
痛い……。
手でも、身体でも、何処でもなくて…ただ心が痛い。
彼の姿を声を思い出すだけで苦しくなる。
「黒羽君」
いつの間にか無事な手で胸元を掴んでいたらしい。
心配そうにかけられた声と、覗き込んでくる白馬の顔で漸く正気に戻った。
「何だよ。気色悪いから顔近付けんな」
「だから、君は……。全く、仕方のない人ですね」
呆れた様に言った白馬は浮かせていた腰をまた椅子へと戻した。
当然近付けられていた顔は離れ、それに快斗がホッとした様に息を吐き出せば、またじろりと睨まれた。
「本当に…君は失礼にも程があると思いませんか?」
「別に。お前相手にそんな事気にしてどうすんだよ」
「…それは信頼されてると取ればいいんですかね? それとも、邪険にされてると思えばいいんですか?」
「さてね、お好きにどうぞ。坊ちゃん」
いつもの様に軽口を叩きながらも、自分の背中に冷や汗が浮かんでいる事は快斗本人が一番よく分かっていた。
ズキズキと痛む。
けれどその痛みは腕だけではない。
自分の頭の悪さに頭痛がする。
腕を鈍痛が襲う。
そして―――何よりも一番痛いのはこの愚かな心だ。
無意識にだろう。
手が頭に伸び片目を覆う様に頭を支えてしまっていた。
そんな行動普段なら無意識でもしない。
それが余計に心配を煽ったのだろう。
「黒羽君」
「…何だよ」
「本当に、大丈夫ですか?」
「………」
相手の顔に滲む労わりに快斗は唇を噛む。
コイツにこんな顔なんてされたくない。
「…余計なお世話だ」
「はいはい。…なら余計なお世話ついでに一つ聞いて良いですか?」
「……何だよ」
「工藤君と…一体何があったんですか?」
確信を持って聞かれた問いに快斗はじろりと白馬を一睨みする。
「何でそんな事聞くんだよ」
「君にそんな顔をさせられるのは彼だけですからね」
「………」
再度確信を持って響いた言葉に今度こそ快斗は返す言葉を見つけられなかった。
余りにも情けなくて言える訳がない。
彼の横に居られる自信が無くて―――大切な人から逃げ出した、なんて…。
「…黒羽君」
労わりを滲ませながら、それでも先を促す様に呼ばれた声にまた頭を抱える。
言えない。
こんな情けない自分なんて見せたくない。
もう十二分に情けない姿を見せているのは分かっていたけれど、それでもそれを口にするには余りにも心も身体も疲弊しきっていた。
「……すみません」
答えられずに数秒。
沈黙の後に聞こえた声に快斗が顔を向ければ、言葉通り申し訳なさそうな表情を浮かべた白馬の顔がそこにはあった。
「聞かなくていい事を聞いてしまったみたいですね」
「…白馬」
「何でも知りたがるのは僕らの悪い癖ですね」
悪い癖、と言えば確かにそうかもしれない。
人に知られたくない秘密を暴いて見せる無礼者。
それでも…今回悪いのは快斗であって白馬ではない。
「…違う」
「え…?」
「お前が悪い訳じゃないんだ…」
「………」
今度は白馬が黙る番だった。
不自然な物でも見る様に見開かれた瞳が僅かに揺れて、空を彷徨い…そうしてもう一度快斗を捉えた。
「黒羽君」
「ん?」
「……本当に、相当参ってるみたいですね」
「…何だよ、その言い草」
労わりと呆れが半々ぐらいで混じった様なその声色に快斗が眉を寄せれば、まるで分かっていない快斗に更に呆れる様に白馬は溜息を吐いた。
「僕相手にそんな言葉が出るなんて、君が弱っている証拠以外に何だって言うんですか」
「…お前な…、それはそれで相当俺に失礼だとは思わないか?」
「君よりはマシですよ」
言うが早いか、白馬はスッと椅子から立つとその椅子を元あった場所へと戻した。
突然の白馬の行動に快斗がしぱしぱと瞳を瞬かせれば、くるっと背を向けた白馬が快斗の方を見もせずに小さく言った。
「もう少し休んだ頃にまた来ますよ。今の君では僕はうっかり弱音まで聞いてしまいそうですからね」
「…お前相手に弱音なんか吐くかよ」
「ええ、是非そうして下さい。でないと……君が後で相当後悔をするでしょうからね」
顔は見えなくても白馬の浮かべているであろう表情など、快斗には手に取る様に分かっていた。
どれだけ言葉に棘や毒が含まれていても、その表情はきっと労わる様に優しいのだろう。
けれど、それには敢えて見ない振りを決め込んで快斗はイーッと子供の様に歯を剥いて見せた。
「誰が後悔なんかするかよ。お前に弱音を吐く気なんて最初から更々ねえよ」
「知ってますよ。……では、もう少しゆっくり休んで下さい」
パタンと扉が閉まって白馬の姿が見えなくなるまで、快斗はその優しい後姿を視界に入れ続けていた。
「…随分早かったですね」
「これでも時間がかかった方だと思ってるんだがな」
通された応接間で新一は白馬の向かいに腰かけながらそう言ってちらりと時計を一瞥した。
快斗が姿を消してから三十分と少し。
本当に時間がかかり過ぎだ。
「居るんだろ? アイツ」
「さあ、どうでしょうね」
「お前の車を見かけたっていう証人が居る。それに、快斗と似た風貌の青年を車に運び入れてたって話もな」
「…証人ですか。それは厄介ですね」
苦笑を浮かべながらも優雅に紅茶のカップを持ち上げるその手には動揺など微塵も見えない。
だからこそ確信する。
「お前、俺が此処に辿り着くの確信してただろ」
「どうしてそう思うんですか?」
「お前は俺と快斗の関係を知っていながら何の連絡もして来なかった。でも、お前は……そこまで悪趣味な奴じゃないって俺は知ってる」
何の連絡もせずに新一が焦るのを見て愉しむ程悪趣味な男ではない。
連絡をしなかったという事は、いずれ新一が此処に辿り着くと分かっていたからだろう。
「買い被りですよ」
「いや、純粋に事実を述べてるだけだ」
「…随分好意的に思って頂いている様ですね」
香りを楽しむ様にゆっくりとカップに口を付け、音を立てるなんて無様な真似はせずに静かに置かれたカップを視線の淵で追った後、新一はジッと白馬を見詰めた。
「お前の事は“良い友人”だと思ってるからな」
「それは光栄ですが……やはり些か僕を買い被り過ぎですよ、工藤君」
見詰められた視線を真っ直ぐに受け取りながら、そう言って白馬は薄く笑った。
「正直、彼に君を逢わせて良いのか悩んでいます」
「…どういう意味だ」
「予想以上に彼が弱っている姿を目の当たりにしたものですから」
「………」
新一が真っ直ぐに白馬を見詰め続けてもその表情は崩れる事は無い。
寧ろ口元に刻まれた笑みが深くなっただけ。
「そう言えば工藤君」
「…何だ」
「これ、お返ししておきますよ」
突然話を変え、すっと机上に差し出されたのは新一が白馬に貸していたホームズの研究本。
絶版になってしまっていた為に読むことが出来ないと嘆いていた白馬に新一が自宅の書庫にあった物を貸し出したのはつい先日の事。
「随分早いな。もう良いのか?」
「ええ。余りにも面白い見解が色々載っていたのでお借りして数時間で読み終わってしまいましたよ」
「そりゃ良かった」
差し出された本をスッと自分の元へ引き寄せ、新一はまた白馬を真っ直ぐに見詰めた。
「で、お前はどうするつもりだ?」
「さあ、どうしましょうか。この本のお礼をまだ僕は君にしていませんからね」
その笑みはそういう意味か。
そう新一が理解した頃には白馬はもう既にソファーから立ち上がっていた。
「ご案内しますよ。………但し、彼が君に逢いたがるかは保証しませんが」
「…余計なお世話だ」
相変わらず白馬の口元に張り付いた笑みに新一はそう毒づいて、白馬に倣う様にソファーから立ち上がった。
――コンコン
『…黒羽君?』
控えめなノックの音と共にこれまた控えめな呼びかけが聞こえる。
その声が聞こえるもう何秒か前、快斗は既にその気配を感じ取っていた。
……そして、もう一つの見知った気配も。
「…お前、連絡したのかよ」
きっと子供が拗ねた様な声になってしまっているのは快斗自身分かっていた。
それでも、さっきと言っている事が違うと理不尽な怒りが込み上げてくる。
悪いのは…彼ではなく自分だと分かっているのに。
『申し訳ありません。ですが、連絡した訳ではなく……』
―――ガチャッ
「入るぞ」
白馬の言い訳が終わらないうちにガチャリという音を立てて視線の先の扉が開いた。
その声の主が分からない訳は無かったが、それでも見た瞬間に夢であれば良いと願ってしまう自分を快斗は呪った。
「工藤君!」
珍しく慌てた様子で新一の後を追って入って来た白馬の若干の焦り顔を少しだけ面白いと思う余裕はまだあるらしい。
それでも真っ直ぐに向けられる視線に耐えきれずに、快斗は白馬を睨み付けた。
「さっきと随分言ってる事が違うんじゃねえか?」
「…ですから、僕が連絡した訳ではなく……」
「快斗」
再度白馬の言い訳を遮って、強く名を呼ばれビクリと快斗の身体が強張る。
恐る恐る視線を新一の方へと向ければ、案の定睨み付けられた。
そのまま真っ直ぐに快斗の方へ一歩一歩、歩を進めてくる新一に逃げ出したいと思ったけれどここはベッドの上。
逃げ出す場所も無ければ、逃げ出すだけの気力も無い。
ベッドの直ぐ傍までやって来て新一はぴたりと足を止めると、上半身だけを起こす形でベッドに入っていた快斗を見下ろし眉を寄せた。
「お前が望んで此処に来たのか?」
「………」
投げられた問いに返す言葉が見付けられず視線を逸らしても、肌に新一の視線を感じる。
見詰められた視線の中に、労わりや怒りやその他様々な感情が含まれているのが分かっても、余計に言葉が出て来なくなるだけだった。
数秒、もしかすると数十秒、それでも快斗としては永遠にも感じられる沈黙の中、新一はちらりと視線を腕に移すと何かを考える様に顎に手を当てた。
その一挙手一投足に快斗はビクッと身体を強張らせる。
それは新一にも素直に伝わってしまった様で、その快斗の様子に新一は諦めた様に口を開いた。
「俺が居たら迷惑か?」
「………」
「快斗」
「………」
答えを求める様に名を呼ばれても、返す言葉など見付けられない。
何も答える事が出来ないままに俯き続ければ、新一が小さく息を吐いた。
「分かった。お前がそうしたいならそうすればいい」
「………」
「落ち着いたら……帰って来いよ」
それだけ言って新一は踵を返した。
手を伸ばせばまだ届く距離なのは分かっていた。
それでも―――快斗は手を伸ばす事が出来なかった。
「工藤君…」
「白馬。悪い、宜しく頼む」
白馬に向かって頭を下げた新一の後姿を見詰めても、何も言う事が出来ない自分が憎らしかった。
それでも行動はおろか、言葉一つ紡ぐことが出来ない。
「…はい。任せて下さい」
白馬がそう言って新一を見詰め、そしてその肩越しに快斗を見詰める。
視線が絡まるのに耐えきれなくて快斗は早々に目を逸らした。
「じゃあな、………快斗」
耳に届いたその声が――――――まるで永遠のサヨナラに聞こえた。
「良いんですか?」
「………」
きっと玄関辺りまで新一を送って来たのだろう。
新一と共に部屋を出て行った白馬が戻って来て開口一番に快斗に言ったのはそんな言葉だった。
「こんな事を今の君に言うのは酷だとは思いますが…」
「…何だよ」
珍しく口を噤みかけた白馬に快斗はそう言って先を促せば、更に言い辛そうに白馬は口を開いた。
「…工藤君、酷い顔してましたよ。今の君と同じぐらい、ね」
「………」
言われた所で今の快斗にはどうしようもなかった。
それに……快斗はもう分かっていたし決めていた。
―――――彼の傍には居られない、と。
「白馬」
だから仕方ない。
不本意だが仕方ない。
「何ですか?」
首を傾げる目の前のお坊ちゃんは、実は怪盗よりもよっぽどハートフルな優しい坊ちゃんだ。
だから、ここは―――。
「悪いけど……暫く厄介になる」
――――その坊ちゃんの優しさと甘さに…付け込ませて頂く事にした。
to be continue….
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