一つずつ
 一つずつ静かに、けれど確実に


 掛け違えたボタンが今戻されていく










歪んだ愛情【X】











「はぁ…」


 家への帰り道。
 どうしようもなくて溜息を吐いた。

 どうして今更彼の家になど行ってしまったのか。
 もう戻れないと。
 そうしたのは自分だと。
 痛いほどに解っていたのに。

 どうしてここまで来てしまったのか…。


「はぁ……」


 もう一度深々と一人溜息を吐く。

 誰が言い始めたのか、


『溜息を吐くと幸せが逃げる』


 なんて言葉を信じる訳ではないけれど、それでも溜息を吐くたびに心がより重くなっていく気がする。
 それでも溜息を吐くのを止められないのは、それだけ病んでいるからなのか。















「新一!」















 もう一度溜息を吐こうとした所で聞こえた声。
 その声に振り返る事すら出来ずにその場に固まった。

 予想はしていなかった訳ではない。
 彼の母親に会っているのだ。
 彼に報告しないと思う方がおかしいだろう。

 けれど、彼は来ないと思っていた。
 もう二度と自分とは―――。


「はぁ…はぁ……。新一、ごめん。俺…」


 彼が息を乱しているところなんてこれまで見た事がなかった。
 それだけきっと急いで来たのだろう。

 それだけ…でも、それでも振り向く事が出来ない。


「俺、新一になんて謝ったらいいのか…」


 きっと彼もそれを解っているから、俺が背を向けたままなのを責めないのかもしれない。


「別にいい…」
「でも…」
「別にいいんだ」


 きっとこの声は冷たく響くのだろう。
 それで良かった。
 それが最善なのだ。
 そう自分に言い聞かせる。


「新一…」
「俺は別に気にしてない。だからお前も気にする必要なんか…」
「気にしてると思って態々来てくれたんだろ?」
「っ…!」


 悟られてしまったと。
 自分の本当の気持ちに気付かれてしまったのだと。

 後悔した時にはもう遅かった。


「俺、ずっと考えてたんだ。どうして新一があんな事したのか」
「…………」
「ずっとずっと考えて、解らなくて…。でも、ここに来る間にやっと解ったんだ。
 俺の為だったんだろ? あんな行動も、冷たい言葉も、全部全部俺の為に…」
「違う!」


 何の為にここまでしたのか。
 何の為にあんな事までしたのか。

 ここでそうだと頷いてしまうのは簡単だった。
 頷いてしまえば楽になれるのは解っていた。

 でも―――それでも、彼を守りたいから…。


「違う。俺はお前が思ってるような出来た人間じゃねえよ」


 だから、彼の持っている、思っている自分なんて全部消えてしまえばいいと思った。


「俺は別にお前の事なんて思ってねえよ。唯事件を追ってたらああなっただけだ」
「………」
「お前に言った言葉も全部本当だ。それに今日行ったのだってこないだの事責めに行っただけなんだぜ?」
「新一…」


 哀れみというか。
 優しさというか。

 何だか解らない感情が快斗が自分を呼ぶ声には籠められていたような気がしたけれど、それは全て見ない振りをする事にした。


「俺はお前より事件が大事で。その為なら俺の身体がどうなろうとどうでもいいんだ。
 俺がお前の手を取ったのはお前が言う通りの理由だよ。お前ぐらいだったんだろうな。俺と対等にやりあえる人間なんて。だから俺は…」
「もう、いいよ」


 そっと後ろから抱き締められた。
 その優しさに涙が零れそうになったけれど、それすら隠し通して彼の腕を振り解こうともがく。

 けれど、その度に力を籠められ彼の腕の中から抜け出す事は出来なくなった。


「もういいんだよ。新一」


 ぎゅっと抱き締められた温もり。
 その温もりに、今度こそ堪え切れなかった雫が零れ落ちた。


「新一。ごめんね。俺、新一の気持ちなんて全然解らずに新一の事傷つけた…」
「快斗…」


 彼は悪くないのに。
 悪いのは自分なのに。

 それでも彼は全て自分が悪いかのような言い方をする。


「新一が俺の事思ってくれてるのも。俺に迷惑がかからないように、俺が新一から離れるように仕向けた事も。
 全部全部気付かなくて……唯、新一の事傷付け続けた…。本当にごめん」
「違う…違うんだ。俺はそんな…」
「もういいんだよ。もう、いいから」


 一瞬彼の温もりが離れた。
 それを確認しようとした時には、彼が自分の顔を覗きこんでいた。


「新一。泣かないで?」


 隠す暇もなかった。
 流石は怪盗、なんてこの場にそぐわないのに感心してしまう。


「泣いてなんかない」
「じゃあ、俺の見間違いかな?」


 くすっと笑った彼にむっとして。
 でも、事実だからそれを手で隠そうとすれば、彼の胸に抱き込まれた。


「ごめんね、新一。迎えに来るの遅くなっちゃって」


 その言葉に更に涙が溢れた。


 彼の邪魔になりたくなかった。
 あの日あの場所でのやり取りをもう二度と繰り返したくないと思った。

 だからあの日―――俺は彼から離れようと決心したのに。
















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