妄想幕末風雲録 − 2

話の続きの関係で掲示板のままコピーした部分もあります。
                                      アイ


咸臨丸 投稿者:kazuya 投稿日:2004/11/16(Tue) 23:50 No.297

オリジナルが全長49.7メートルであったのに対して、こちらは65.8メートルと、やや大きめになっています。
長崎ハウステンボスにあります。
咸臨丸その最後は、津軽海峡で座礁していまは木古内沖に沈んだままです。
艦長としてアメリカに向かった海舟は船酔いがひどく、だいぶ苦労したそうです。
200年以上も太平洋をわたった日本人は漂流して助けられたもの以外に無く(ジョン万次郎 など)水夫も船酔いで苦しむものが多かったそうです。
福沢諭吉はそのようなことも無かったそうです。
咸臨丸そのものは提督として木村摂津守喜毅が乗船(使節団の船に異変があったときのための副使として渡米)。
船の運営は小野友五郎とジョン万次郎が航法を任されていたみたいです。
最初幕府は観光丸が設備に優れていることで派遣する予定でしたが急遽、咸臨丸(木造スクーナー=コルベット艦で,100馬力,約300トン(600トン説あり),3本マスト,大砲12門)になったのはフェニモアクーパー号という船が難破してその乗組員を乗せていくために変更になりました。
水先案内を頼んだ幕府の不思議な感覚・実際は緯度経度の確認をしあう程度・何度か危機を乗り越え信頼関係が生まれた後は水夫同士の交流が多く、協力し合ったようです。
出航前のあわただしい中、その積み荷を急遽積み替える作業を嵐の中で行い、大半の乗組員が出航後ばたばたと倒れた(太平洋の大波にもまれ体力が回復する機会が無かった)ものです。
出発時間1860年(万延元年)2月10日旧暦1月19日浦賀出発
現地時間1860年(万延元年)3月17日サンフランシスコ到着、ポーハタン号(正使一行を乗せて・正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、そして目付小栗上野介豊後守忠順)より早く途中ハワイ寄港(寄ったのは帰りだったのかなぁ)をして、37日で横断しました。
ポーハタンは2月13日出航3月30日到着47日間での横断



Re: 咸臨丸 kazuya - 2004/11/17(Wed) 00:13 No.298  

手前が観光丸、おくが咸臨丸共に幕末の時のオリジナルより一回り大きくなっています。
観光丸は、オランダにて1853年に就役した木造三檣外輪蒸気軍艦"Soembing"
長崎伝習所にオランダ教師と共に来航、幕府に練習船として献上されました。
龍馬がこのときに勝に弟子入りしていれば必ず行くように工作したでしょうね。
行けば面白い話題が多くあったかもしれません。
妄想が膨らんできますね。



Re: 咸臨丸 kazuya - 2004/11/17(Wed) 07:21 No.299  

やはり海舟の家人として乗る予定だった杉亨二は、当時阿部公の家来であったため乗船の許可が下りませんでした。
この人は勝塾の塾頭を長く勤め海舟が長崎・神戸と今で言えば単身赴任の間、塾生と家族の世話を続け陰で海舟を支えた功労者です。
日本統計学の功労者で、国勢調査の元を築いた方です。



Re: 咸臨丸 まきりん - 2004/11/17(Wed) 18:30 No.300  

コンバンミ・。・いつもより少し早いですけどいろいろと突込み入れようとしたら全部訂正されていました。
残念(^◇^)
ちなみに龍馬が海舟に弟子入りしたのは文久2年10月ころ、1862年ですね。
佐那さんのお兄さんの重太郎さんと訪ねたと資料にありました。
杉亨二さんのことマキリンは知りませんでした。
やっぱり海舟のお弟子さんというと龍馬がすぐ頭に浮かんでしまうからでしょうか。
龍馬が本当にアメリカに行っていたら面白い話があったろうというのは創造(創作)意欲が書きたてられるお話ですね。



畝傍 kazuya - 2004/11/18(Thu) 00:13 No.302  

実はなぜか海舟の長男の小鹿さんがこの船と共に行方不明になったと思い違いをしていました。
勝小鹿さんは慶応3年に15歳でアメリカに留学しました。
明治10年アナポリス海軍兵学校を卒業、帰国後は大尉として勤務。
この方は体が弱く軍部の激務には向かないみたいでした。
明治25年に予備海軍少佐で死去、体が丈夫であればアメリカとのつながりが多いこの方の活躍の場が広がることが期待できたのに残念です。
しかしなぜ畝傍で遭難と記憶があるのかどうしてもわかりません。
何の関連があったのかそのうち思い出せるかも知れませんね。



Re: 畝傍 沙織 - 2004/11/18(Thu) 00:37 No.303  

ソウカそうか・?・301が消えたけど、しっかり読んだあとなので記憶しておりますよ。
デ・10年以上も異国の地に留学していたなんてあの時代にすごいことですね。
何人か日本の方も同じように留学していたんでしょうねぇ。

寝不足は美容の大敵、早寝しませうって遅いでしたよね。
(-_-)zzz・・・・



雪風 kazuya - 2004/11/18(Thu) 05:52 No.304  

トットトト・おはよう。
301読まれましたか、最近資料に当たってから書き込まずに思いつくまま書き込んだりするので時々手がすべるのはご勘弁くだされ。
写真は台湾当時の雪風といわれるもの。

明治海軍は巡洋艦三隻の建造を計画、英国に「浪速」「高千穂」が、仏国に「畝傍」が発注された。
明治19年 8月竣工、同年10月18日に日本への回航されることとなり、飯牟礼俊住海軍大尉以下の八名が回航員として乗り組み、仏側は76名の操艦員が乗り組みました。
12月 3日に最後の寄港地シンガポールを横浜に向けて出港しますが、13日になっても到着せず、急ぎ捜索船を派遣しますが遂に同艦を発見することは出来ませんでした。
テなことなどが書き込んでありました。

最後の帝国海軍軍艦といっていいかな、雪風はkazuyaが青年時代の1970年ころの 丸 という雑誌に写真が載ったり映画になったりしたのを覚えています。
陽炎型8番艦・昭和15年1月20日佐世保工廠で竣工。排水量2,000トン、全長118.5メートル、幅10.8メートル、出力52,000馬力、速力35ノット、航続距離18ノットで5000浬 主砲12.7センチ連装砲3基、25ミリ連装機銃2基、61センチ魚雷4連装発射管2基。
台湾では丹陽と呼ばれ1970年に座礁破棄されました。
戦艦が雄大なのに比べ小粒ではありますが日本の優秀な造船技術を物語る銘鑑でしょう、蒸気船を始めて見てから100年足らずでここまで作る技術が進歩したことは、軍部の行き過ぎを差し引いてもすばらしい進歩だと思います。
艦船の話もここまで来たのでまた幕末に戻りましょうね。



Re: 雪風 kazuya - 2004/11/18(Thu) 06:31 No.305  

前に書いたばかりですが良い画像が手に入ったので掲載しますね。
沙織君の書き込みに返事。
同行者の一人は門人で仙台の人で富田鉄之助といいます。
1867年(慶応3)、32歳のとき、藩の命令でアメリカに留学。明治時代になって再び、政府の留学生として渡米し、ニューヨークで経済学を学びました。
 その後、アメリカでの勉強の成果を活かし、ニューヨーク副領事やイギリスでロンドン在勤書記官を務めるなど、外交の最前線で活躍しました。
 帰国後は大蔵省の役人などを務め、1888年(明治21)、53歳で、日本銀行の総裁に就任しました。その後、政治家になり、東京の区会議員、市会議員、そして貴族院議員(国会議員)を経て、東京府(現在の東京都)知事にもなり、東京地域の水道敷設事業に力を注ぎました。
海舟の門人としては、有名ではありませんがすごい活躍ぶりじゃありませんかね。



留学 kazuya - 2004/11/18(Thu) 18:25 No.306  

高木三郎
 天保12年(1841) 江戸生まれ父親が庄内藩士の黒川氏後に、高木家を相続。
 安政 6年(1859) 軍艦操練所入所(藩命)
勝安房(海舟)塾に入門、蘭学を治める。後に塾頭となる。
 慶応 3年(1867) 米国留学(海舟の子息、小鹿の従者として)ボストンで英語を学びその後ラトガース大学プレパラトリスクールに入学
 明治 2年(1869) 新政府の外務省留学生となり学費の支給を受ける
 明治 7年(1874) 12月サンフランシスコ副領事
 明治 9年(1876) ニューヨーク領事
とマァ年表にある通りの堅実な方のようですね。
少年の小鹿さんに大人の富田さんと高木さんの二人がついて、勇躍三人でアメリカに渡ったんですね。
明治13年(1880年)に外務省を辞任。
以後、生糸の輸出を目的とした横浜同伸会社の取締役となる。

字が少しずれるかもしれないけど勘弁しちくれ。m(__)m



富田鉄之助 kazuya - 2004/11/18(Thu) 19:11 No.307  

富田鉄之助
富田鉄之助がアメリカで世話になった人の中に、W・C・ホイットニーという方がいます。
森有礼の招きと富田の勧めもあり日本にきた彼は、後の一橋大学の元になった学校を開設しています。
そして日本基督教団赤坂教会は彼の一家の日本に残した足跡のひとつです。
隣人を愛し、地域に仕え、世界宣教に貢献するという理念は今も生きています。
もうひとつ・クララという娘さんがおりなんと海舟の息子の梶梅太郎と1886年明治19年に結婚しております9月に梅久さんが生まれています。
梶梅太郎という人も父親に似て女性にモテタラシク、榎本武揚の姪の、このさんとの間にも芳子さんという娘さんがおり、この方のお嬢さんは日本女医会会長、国連の政府代表代理なども務めた山崎倫子さんです。


305と重複していますが。

1867年(慶応3)、32歳のとき、藩の命令でアメリカに留学。明治時代になって再び、政府の留学生として渡米し、ニューヨークで経済学を学びました。
 その後、アメリカでの勉強の成果を活かし、ニューヨーク副領事やイギリスでロンドン在勤書記官を務めるなど、外交の最前線で活躍しました。
 帰国後は大蔵省の役人などを務め、1888年(明治21)、53歳で、日本銀行の総裁に就任しました。その後、政治家になり、東京の区会議員、市会議員、そして貴族院議員(国会議員)を経て、東京府(現在の東京都)知事にもなり、東京地域の水道敷設事業に力を注ぎました。
海舟の門人としては、有名ではありませんがすごい活躍ぶりじゃありませんかね。


トホホ伝説 投稿者:まきりん 投稿日:2004/11/19(Fri) 21:40 No.308

またまたとほほ伝説見てしまいましたぁ。
コンバンミ・。・
土方のトホホに新撰組のトホホ可笑しくて可笑しくて仕方ありません。
この間カズパパが話してくれた松本良順も出てきたりして、五稜郭の話がもう少し多ければと残念ですにゃア。
ダソクナガラ・アナポリス海軍兵学校に変更されたのデスネ。
United States Naval Academy / 大学としてある資料図書室で見ましたのでなぜ変えたのかと不思議に思いました。
マキリンよく読んでるでしょ。
これからあちらでチャット状態の早い者勝ちの書き込みに行って来ます。



Re: トホホ伝説 kazuya - 2004/11/19(Fri) 22:33 No.309  


「海軍士官候補生学校」というべきでしょうね。
兵学校とは日本の士官候補生学校が兵学校と呼ばれているのでそれに従いました。
大学と訳されていたのをみてそれもありかなと思いましたが、海軍兵学校と呼ぶ方が多いみたいですね。
4年制のアカデミーですがまず簡単に入ることはできないみたいです。

順天堂大学の創始者である佐藤泰然の実子 が松本良順なんですねえ、弟は外務大臣で高名な林董です・董のことは歴史で習ったデすよね。
良順は後の軍医総監です。



Re: トホホ伝説 チョーパイ - 2004/11/19(Fri) 22:43 No.310  


テレビ大阪で私もトホホ伝説見ましたぁ。
まきりんさんの所はTV大阪は無いでしょう、TV東京でしょうか。奈津先生が18歳未満は秘密部屋立ち入り禁止なんていうので、ここでいろいろ読んでいますので、たくさんお勉強させてくださいね。カズパパの話し面白いですね。



Re: トホホ伝説 kazuya - 2004/11/19(Fri) 23:11 No.311  


林董 
1902年の日英同盟協約締結。
 1905年駐英公使館の大使館昇格により林も大使となり、同年の第二次日英同盟協約の締結にもあたった。
 1906年第一次西園寺公望内閣の外相に就任、第三次日韓協約、日仏協約、日露協約の締結にあたる。11年に第二次西園寺内閣に逓信大臣として入閣、一時外務大臣を兼任した。
と有るけどそれよりもマキリンおなじみのヘボン塾(明治学院大学の前身)の卒業生だよ有名どころでは高橋是清などもいました、フェリスもここから分かれたって知っていましたかね。

この人も兄良順と同じように血の気が多く函館まで戦争に行って、榎本たちと共に戦ったんですよ。
牛乳を飲むことと海水浴をすることを日本に定着させたのが松本良順だってノハ話したっけ。(^。^)
チョーパイさん今晩は、いつでも来てくださいね質問歓迎。
余分なことですがこちらはチョーパイさんの言うとおりTV東京で放送されています。

Ps 添付開設当時のフェリス。

キダーが教えるヘボン塾女子部は1872年7月、フェリス・セミナリーとして独立しキダー(Kidder,M.E. 1834-1920)に委ねられ、フェリス女学院の源流となりましたとさ。


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