妄想幕末風雲録 − 2

話の続きの関係で掲示板のままコピーした部分もあります。
                                      アイ



京都市長 投稿者:たまみ 投稿日:2004/11/21(Sun) 15:50 No.312

オヒサーであります。
本日チョーパイほか3名と京都市長の名前を調べていましたら、2代目市長の名前が西郷菊次郎となっていました。
西郷隆盛と関係あるのでしょうか、お教えください。



Re: 京都市長 kazuya - 2004/11/21(Sun) 16:48 No.313  

日本史はまだ習ってはいないとは思うので解らないことは順々にね。
西郷菊次郎 長男 ( 母 愛加那 )1860年生まれ 妹に菊子(または菊草)
2代目京都市長(1904年明治37年〜1911年明治44年)市長時代は自分たちで調べてくださいね。
台湾が日本に割譲された1895(M28)年から約7年間、台湾に赴任、台湾東北部、台湾第二の平原蘭陽平原にある宣蘭(ギラン)の庁長として過ごす。宣蘭を流れる宣蘭河は毎年氾濫を起こし民衆を苦しめていた。西郷菊次郎はこの治水工事を行い水害は根絶されました。

西郷が1859年に奄美大島に流されたとき(遠島という刑罰)愛加那さんという方を妻として迎えて生まれた子供です。
1962年1月に許されて国許に帰るとき国難の真っ最中・攘夷の嵐(9月生麦事件翌年薩英戦争に発展)のため島においてきたそうです。
久光公とは意見が会わず、果たしてまたも沖永良部島へ流されてしまいました。
激情の人というイメージが無い西郷どんですが多難な人生を歩んでいます。
西郷どんの嫡子は正式に結婚した糸さんとの間に生まれた(1966年生まれ)
寅太郎さんです。
寅太郎さんの関連のハムについてはまた後で。

余談
西郷どんは薩英戦争のさなか何の記録も無いというのは変ですねぇ。
西郷隆盛が初めて勝海舟と会う1864年という資料を見たがその前に佐久間象山の塾で勝とは会っているはずです。



Re: 京都市長 沙織 - 2004/11/21(Sun) 17:15 No.314  

長男と嫡子今じゃ考えられない、でも無いか。
(^s^) へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜
くらいかしら。



Re: 京都市長 まきりん - 2004/11/21(Sun) 17:21 No.315  

ダブりの訂正突っ込もうかと思ったら訂正されていましたぁ。
まだコンバンミには早いマキリンです。
(^m^) へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜へ〜
テナトコへ〜をあげますね。



Re: 京都市長 kazuya - 2004/11/21(Sun) 18:00 No.316  

前回の書き込みでの、へ〜にお礼。(^^♪
画像は西郷寅太郎

西郷と勝との出会いが元治元年9月11日(1964年)とあるのは氷川清話が原典と判明・デモネェその前にあっていたら面白いのにね、たとえば、佐久間象山との絡みとかね。
あれどこかで海舟が長崎伝習所時代,薩摩に行き、斉彬公から引き合わされたという話を読んでいる気がするぞ、まさか此れも妄想?なのか。
氷川清話と海舟余波(語録)は改訂版によって記述が違うから読んでも安心できないトコが多いからなァ。
本はとくに昭和になってから検閲で書き換えさせられたところが多くいつ出版されたか気をつけて読まないと間違えるから。
明治時代のほうが政府批判にも緩やかだった見たいだね。

西郷寅太郎 次男 嫡子 1866年生まれ ( 母 糸 )
南洲翁の嗣子、明治天皇深く南洲翁の偉勲を偲び、明治35年侯爵を授け賜った。
1919年(大正8年)1月1日54才にて当時収容所内で流行っていたスペイン風邪が原因にて没する、陸軍大佐であった。

<<あるサイトに1929年昭和4年没とあるが間違いでしょうね。>>

明治17年明治天皇のお呼び出しを受け、ポツダム陸軍士官学校に留学。
第一次世界大戦中、東京俘虜収容所(浅草寺)所長ドイツ、オーストリア軍捕虜を収容、収容所移動のため習志野俘虜収容所長となる。 
習志野捕虜収容所所長時代に Jahn(ヤーン),Karl:海軍砲兵中隊・1等水兵[食肉加工職人]1918年2月18日から他の4名(カール・ヤーンさん、ブッチングハウスさん、ヴァン・ホーテンさん、ケテルさん、そして氏名不詳の方の計五名)のソーセージ職人と、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田吉英技師の求めに応じて、ソーセージ造りの秘伝を教えた。
(ブッチングハウスさんから習った茅ヶ崎の矢崎ハムさん。ヴァン・ホーテンさんは明治屋へ)  
この技術は農商務省の講習会を通じて全国の食肉加工業者に伝わり、習志野は日本におけるソーセージ製造の発祥地となった。初彼は伝授を躊躇った(ためらった)が、西郷寅太郎所長の熱心な要請に応じて公開した。
大戦終結後は、日本内地での契約が成立していたため日本で解放された。



Re: 京都市長 チョーパイ - 2004/11/21(Sun) 18:26 No.317  

313ありがとうございます。
これからもよろしくお願い、いたします。
それとトリビアで思い出したのですが西郷さんは隆盛ではなくてェ、隆永というのが本当だというのをみましたァ。
此れってすごいトホホ伝説になりますよねェ。
当時の人って名前を変えすぎて判りませんていいたくなる位です。




Re: 京都市長 kazuya - 2004/11/21(Sun) 18:52 No.318  
西郷隆盛
チョーパイさん良く見てるねぇ。
(^^♪
 文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下下加冶屋町山之口馬場(したかじやまちやまのぐちばば)で生まれました。
幼名は小吉(こきち)、1853年善兵衛と改名、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通しました。
南洲(なんしゅう)はその雅号です。
もう少し詳しく書くと
通称 (名前)           
15才 小吉 → 吉之助    (この年より隆永)
27才 吉之助 → 善兵衛
30才 善兵衛 → 吉兵衛
32才〜38才頃には、西郷三助・ 菊池源吾・大島三右衛門・ 大島吉之助
38才 吉之助         (武雄)
40才 々           (隆永・隆盛) 
47才 々           (隆盛)
51才にて戦没
なんと同じ人物として覚えるだけでも大変なことですね。



Re: 京都市長 kazuya - 2004/11/21(Sun) 19:31 No.319  

余談
菊次郎さんの三男に西郷 隆秀さん拓大理事長が居られました。
寅太郎さんのお子さんには、
法務大臣を勤めた吉之助さん、それと隆永さんという方も居られました。

明治天皇 投稿者:タツゥ 投稿日:2004/11/24(Wed) 21:01 No.333


不評につき(発音しにくいとの学友からの指摘もあり)ハンドルネーム変更いたします。
ところで例の風雲録の中でアイに聞いた話に孝明天皇暗殺論なるものがあるということで、本日歴史好きの当学の婦女子に話を聞いたところ、明治天皇替え玉説なるものまであるそうですが、ご存知でしょうか。
またそれについてご意見などお聞かせください。



Re: 明治天皇 kazuya - 2004/11/24(Wed) 21:54 No.334  


アイに聞いてるなら簡単に孝明天皇のことは流しておきます。
慶喜が将軍についてわずか一月足らずで孝明天皇が急死。
死因には何通りか有るけど省略。
幕府討伐の密勅をださない天皇を・・達が暗殺といううわさが流れたのです。

大室寅之祐という人物が明治天皇の替え玉という説があります。
笑い話、フィクションとして聞き流してください。
いくら何でもといってもなぜそういう話が出たかといえば、昭憲皇太后というお名前にあります。
此れについては明治神宮の公式サイトを参考にしてください。
明治天皇のお后がなぜ皇后ではないのかというところから話が大きく膨らんで、インターネットに流れていったものです。
http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/31.htm

あと振り回されずに気をつけると約束できる方は、大室寅之祐で検索してみてくださいね。
簡単に言えば陰謀があったという証拠をでっち挙げたといってもいい話し程度に聞いておくことですね。



Re: 明治天皇 ai - 2004/11/25(Thu) 21:04 No.335  


桂小五郎

今は多可実君たちに模擬テスト実施してるので手が開きましたので顔を出してみました。
実はパパの史観は皇国史観でも、マルクス主義史観でもないと本人が言うて居るであります。
歴史には裏も表もあり、見る側(体制・国家)によって左右される危険が多いと聞かされています。
ここを覗いてくださるあなた・歴史は試験のための教科書史観(歴史)と楽しむための歴史があると簡単にご理解ください。
ここではパパ(kazuya)の個人見解による歴史観が主体です。
アイたちは歴史問題に対しての討論は望んで居りません。
質問に対する答えはパパの個人的好き嫌いに左右されていることをご理解ください。
タツゥ友人たちに振り回されないで(さっきのメールに返事出しましたよ。)史学専攻の人は突っ込み方が厳しいらしいから、リラックスしてここでは楽しんでくださいね。
今度スケベ親父の政治家たちについて聞いた話ししてあげるね。
なぜ伊藤がスケベ親父で勝がそう思われる事が少ないとかね。
この時代の人が今の人に比べてなんて解決的な解釈は駄目なのよ。
同じ内容で少し手を加えて秘密部屋にも載せて置きます。
Ps
維新の群像の集合写真は偽者とパパが言うて居りましたよ。
例として勝と桂の同年ごろの写真があるはずですから、比べてみてください。



Re: 明治天皇 タツゥ - 2004/11/25(Thu) 22:04 No.336  


アイメールありがとう、お返事またもメール出してしまいました。
心配かけてごめんね。
タツゥは強い子ですから大丈夫です。
また遊ぼうね。
写真比べてみました。やはり二人の人物に品格の差が歴然としておりましたね。
まっつんによるとタッと勢いよく言うほうが好きというけど、もう決めたから、甘えるようにタツゥ・・・と余韻が残るように呼びかけてくださいね。



Re: 明治天皇 kazuya - 2004/11/26(Fri) 07:05 No.337  


話しが元に戻って、咸臨丸のお仲間。
サンフランシスコで撮ったものと言われています。
左から勝麟太郎・赤松大三郎・小野友五郎
勝が西郷と会っている年代が前倒しできないかという話しは、今でも興味深い題材と考えているので妄想を膨らまして話しを広げたいものです。
10月10日発行の文庫本の海舟語録を買ってみました、講談社学術文庫・なんと文庫本なのに1000円もしました、それも税別で。
その解題に安政五年に薩摩を訪れたときに斉彬公より久光公を紹介され西郷を見所ありと聞かされたとありました。
ウ〜ン逢ってはいないのが歴史というものですかね。




Re: 明治天皇 勢津 - 2004/11/26(Fri) 19:00 No.338  


イヤダァ、その維新の群像ってフルベッキの写真なんでしょ。
撮られた年代がもう明治になってからということは実証済みですから、いまさら持ち出す方がいるなんて信じられませんわ。
一番見やすいのは(大きいですよ。)
http://history.ten.thebbs.jp/1090587526/
ここの>>33<<から飛んでいってください。
あと解説が丁寧なのがここ、
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu.shtml
維新の群像と云う所をクリック其処に解説が載っています。
あといろんなところで同じ写真を載せていますが、この二つで決まりね。
ウ〜ン(^^♪ナヤムナァっうのはパパの口癖ね。
アイも進歩したもんだと感心しましたと、奈津も言ってるよ。



Re: 明治天皇 kazuya - 2004/11/26(Fri) 21:16 No.339  


このような意見を書き入れるのは本意では有りませんが、あるサイトでこのフルベッキの写真を維新の群像として真実であると結びつけた根拠というのは。

その写真といっしょに頂いた文章を紹介すると
一葉の写真が伝わっている
慶応元年2月中旬から3月18日までの間に・・中略・・・明治28年に、この写真は、宗教家で歴史家でもある戸川残花が「太陽」に掲載したが、政界の一部の圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として紹介された、となっています。

Kazuyaの意見
元治元年十月二十二日突然神戸海軍操練所の勝海舟に対して江戸召喚命令が出た、
江戸帰還後に閉居中である幕臣の勝が勝手に長崎に出かけるなんてことは出来ませんし、この期間のことは海舟日記を図書館で見つけて読んでください。
慶応元年(1865年)4月15日(5月9日) この日改元して元治2年から慶応元年となりました。
上の記述に慶応元年2月とあるのは正しくは元治2年のことで戸川残花等の当時の著名人が間違えるとはにわかに信じられない誤謬です。
(ただいえる事はこの当時改元した年の一月一日にさかのぼって慶応元年と唱えると言うことも有ったようなので絶対に間違いだとは断定してはいけないのかもしれません)


いろいろメールいただきお礼申し上げます、アイが書いたように各人の写真を比べれば一目瞭然でありますが、勢津も書き込んでくれたようにこの問題はお話しとして聞いておく程度にしましょうね。



Re: 明治天皇 まきりん - 2004/11/27(Sat) 22:33 No.340  


コンバンミ・。・カズパパ突然の電話で驚いたでしょ。
電話でもお話ししたように最初はアイに電話したんですけど、そちらに直接かけたほうが話が早いといわれましたのです。

今日のお話とても参考になりました。
そうですよね、あまり真剣になるとムー症候群になるよというご指摘、道理ですね。
お話しで聞いた岩倉家の年齢を書き出してみました。
本当に良く出来た話だと思いますけど蟄居中の勝がひょこひょこ長崎まで出かけるなんて簡単にはできませんよねぇ。
岩倉具視もその時期蟄居幽閉中、サスガに集合写真に名前載せられないみたいです。
龍馬も大阪薩摩藩邸で潜伏中。
西郷が2月に大宰府で5卿と面会し、福岡の黒田公に保護を要請してから上洛。

カズパパが言われた、似てそうな方の名前を当てはめたのだろうからそのように見える人がいても不思議ではない、という言葉が印象に残りました。
勢津様やカズパパにこれからも頓珍漢な質問したりしても嫌いにならないでください。

SANNETホームページ 投稿者:ai 投稿日:2004/12/03(Fri) 22:14 No.357

諡号献呈は江戸後期の、第百十九代光格天皇の代に復活しました。
仁孝・孝明の二代を経て、明治の一世一元(1868年 明治元年9月8日の詔勅)と共に年号を以って帝号とするように定められました。

これに対して后妃の諡号は、上代末頃にはすでに見られなくなり、代わって生前から使われる女院号が盛んに宣下されました。
明治時代に至り、女院号の廃止を承けて后妃にも諡号が奉られるようになったのでした。
そして現代までに
孝明天皇の嫡妻「英照皇太后」
明治天皇の嫡妻「昭憲皇太后」
大正天皇の嫡妻「貞明皇后」
昭和天皇の嫡妻「香淳皇后」の四人が追諡を受けています。

昭憲皇太后のことを言うならば当然英照皇太后についても言及しないのは不自然なことであるですね。
蛇足ながらということでした。



Re: SANNETホームページ kazuya - 2004/12/03(Fri) 23:12 No.358  


英照皇太后です。

例の話の不備なことは次の方のことを忘れています。
生母をだますなんてどうすれば出来るんですか?。
 中山慶子:1835〜1907
 父:中山忠能 
 母:園愛子
1851年(17歳)孝明天皇に入侍
1852年(18歳)中山邸で祐宮(明治天皇)を出産
1866年(32歳)孝明天皇、36歳で没、明治天皇即位
1868年(34歳)従三位.三位局の称と食禄500石と屋敷地を賜る
1870年(36歳)東京に転居、従二位を賜る
1979年(45歳)嘉仁親王(大正天皇)の養育係となる
1907年(73歳)青山の屋敷にて死去
この方を忘れた議論はむなしいものでしか有りません、妄想日本史なら当然なんでも有りですけどね。



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