サンクト・ペテルブルグには、モスクワからの国内便で1時間半弱で着きました。
ロシアと聞いて、真っ先に頭に浮かぶところは、「モスクワのクレムリン」か「エルミタージュ美術館」ではないかと思います。
そのエルミタージュ美術館は、「サンクト・ペテルブルグ」にあります。
「サンクト・ペテルブルグ」の歴史は、ピョートルT世の命により、北方戦争中にロシアがスエーデンから勝ち取ったネヴァ川沿岸の地を守り抜くために、1703年からネヴァ川に浮かぶ兎島という小さな島に要塞の建設に着手し、その造られた要塞が、「聖ペテロの町」と名付けられたことから始まります
サンクト・ペテルブルグは、エルミタージュ美術館をはじめ、18〜19世紀のバロック、クラシック様式の建造物が建ち並ぶ、ネヴァ川からの分流と運河を採り入れた水の都で、北のヴェニスとも呼ばれている情緒豊かな美しい町です。
ロシア最大、世界でも屈指の規模を誇る「エルミタージュ美術館」は、宮殿海岸通りに並ぶ冬の宮殿(1754〜62年)と、小エルミタージュ(1764〜75年)、旧エルミタージュ(1771〜87年)、エルミタージュ劇場(1783〜87年)、新エルミタージュ(1842〜51年)の4つの建物が廊下で結ばれているという巨大な美術館です。
所蔵品は、約300万点に上がるということで、エルミタージュ美術館中400を数える展示室を見て回ると、その行程は22kmにも及び、もしもそのひとつひとつを僅か1分ずつ見ながら、美術館の中で毎日8時間を過ごしたとしても、コレクションを見切るにはほぼ15年の歳月がかかります。
エルミタージュ美術館は、今まで見てきた、パリのルーブル美術館やマドリッドのプラド美術館など同様そのコレクションの素晴らしさは言うまでもありませんが、それにも増して美術館となった宮殿そのものの見事さ、絢爛豪華な内装や装飾品の数々に驚かされました。
エルミタージュ美術館
大ネヴァ川の畔に広がる「エルミタージュ美術館」の全景です。 右の大きな建物が冬の宮殿、真ん中に小さく見えるのが小エルミタージュ、左の黄色い建物が旧エルミタージュで、その後ろに新エルーミタージュが、と建物がロの字のように廊下で連なっている大きな美術館です。 冬の宮殿の向こう側には、美しい宮殿広場が広がっています。 |
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冬の宮殿の正面の写真です。 上の写真の反対側の宮殿広場から撮影したものです。 |
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冬の宮殿の中央階段で「ヨルダン階段」です。 華麗な広い空間を持つ階段で、天井には、イタリアの画家によるオリンポスが描かれています。(1839年) |
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冬の宮殿の「ピョートル大帝の間」は、大帝の思い出を永久に留めるために、1833年に造られたもので、ピョートル大帝のイニシャル、王冠、双頭の鷲が部屋の中の重要な位置を占めています。 | |
冬の宮殿の「紋章の間」で、ここでは、かってロシア帝国の各県の紋章を手にした戦士を表した彫像が置かれていたが、喪失していまい、現在は、ブロンズのシャンデリアが金箔され、紋章を持つ盾で装飾されているに過ぎません。 | |
冬の宮殿の白い大理石造りの「ゲオルギーの間」 (大玉座の間)の玉座です。 |
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冬の宮殿の「1812年戦争の間」で、ナポレオン軍のロシアからの追放を記念し、ロシアの将軍の332枚の肖像画が掲げられているそうです。 | |
冬の宮殿の「黄金の客間」で、当初は、壁と天井は白い大理石で覆われていて、細いレリーフの模様だけが金で飾られていたそうですが、1860〜70年代に客間のインテリアは変えられ、壁全体が金箔で覆い尽くされたとのことです。、 | |
冬の宮殿の「アレクサンドルの間」です。 アレクサンドルの間は、アレクサンドルの名を 後世に伝えるために造られたものですが、この 広間の天井は、扇状の天井が、なだらかな曲線 を描いて丸天井を支えるという独創的な造りと なっており、広間のアクセントとなっています。 |
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新エルミタージュの「ラファエロの回廊」です。 1783〜92年にかけて、エカテリーナ大帝の名誉欲を満足させるため制作され、後に美術館に加えられたもので、今ではほとんど失われてしまったヴァチカンのラファエロのフレスコ画のコピーが、新エルミタージュのインテリア装飾の中に相応しい場所を見いだしたとの説明を受けました。 |
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新エルミタージュの「小イタリア天窓の間」です。 新エルミタージュの三つの最大ホール・大、小イタリア天窓、スペイン天窓の間の続き部屋は、「大天窓の間」と呼ばれています。 このホールは、丸天井の天窓から採光される造りになっており、ここには、16世紀末〜18世紀のイタリア、スペインの芸術家の作品が展示されています。 |
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「騎士の間」です。 皇室の古銭品のコレクションを展示するために造られましたが、後生、ここに15〜17世紀の西欧の武具のコレクションが納められ、「騎士の間」と呼ばれるようになったとのことです。 |
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18世紀のフランスの「大四輪箱馬車」です。 この馬車は、モクスワのクレムリンのウスペンスキー寺院で挙行された戴冠式で使用されていたもので、エカテリーナU世もこの馬車に乗って戴冠式に訪れたそうです。 |
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小エルミタージュのバヴィリオンの間の「時計・パヴリン孔雀座」で、18世紀後半のイギリス製のものです。 | |
真っ白な大理石と金箔の装飾が美しい冬の宮殿内の階段です。 | |
エルミタージュ美術館の収蔵絵画の一部です。 ガラス入りのため、なかなか上手く撮れませんが何とか、 撮影できたものをご紹介いたします。 なお、館内はビデオ撮影は禁止、カメラは100ルーブル (約400円)で撮影ができます。 |
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レオナルド・ダ・ヴィンチ「花を持つマドンナ」(1478年) | レオナルド・ダ・ヴィンチ「リッタのマドンナ」(1491年頃) |
ラファエロ「コネスタビレのマドンナ」(1503年) | レンブラント「ダナエ」(1636年) |
アントニー・ヴァン・ダイク「自画像」(1620〜30年代) | レンブラント「女紳フローラに変装した妻サスキアの肖像」(1634年) |
アンリ・マチス 「ダンス」(1910年) | ポール・ゴーギャン「果物を持つ女」(1893年) |
「宮殿広場」です。 冬の宮殿側から撮った写真ですが、冬の宮殿と半円形の建物に囲まれた美しい広場です。 向こう側に見えるのが、凱旋アーチを備えた旧海軍省参謀本部の半円形に広がる建物で、広場の中央には、アレクサンドル円柱と呼ばれる記念碑(1830〜34年)が建ち、宮殿広場を対ナポレオン戦争でのロシアの勝利を偉大なる記念碑として仕上げています |
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イサク広場に聳える「聖イサク大聖堂」(1818〜58年)です。 ロシア最大級の寺院で、高さ101,5m、縦111m、横98mの規模を誇る大建造物です。 壁面は、大理石と花崗岩で上張りが施され、多数の彫像や半浮き彫りによって飾られています。 |
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聖イサク大聖堂には、あちこちに第2次世界大戦の傷跡が残っていました。 写真は、柱に残された砲弾の跡です。 |
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イサク広場の中心に建つ「ニコライT世の騎馬像」(1856〜59年)です。 後ろに見えるのは、「マリインスキー宮殿」1839〜44年)で、ニコライT世が、娘マリアのために建てたもので、現在は、ここにサンクト・ペテルブルグ市立法会議が置かれているそうです。 |
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大ネヴァ川に向かって懐を開くデカブリスト広場(元老院広場)の中心に建つピョートル大帝像「青銅の騎士」です。 馬に踏みしだかれた蛇が彫像の支えの役目を果たしています。 彫像の台座になっている巨大な白い花崗岩の塊は、一枚岩で、そこには「ピョートルT世へ、エカテリーナU世」との銘があり、1782年8月に除幕式が行われたとのことです。 |
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サンクト・ペテルブルグ市内観光の目玉の一つ「血の上の救世主教会」という通称の「キリスト復活教会」です。 キリスト復活教会は、1881年皇帝アレクサンドルU世が爆弾により致命傷を受けたのの場所に、1883年から1907年の歳月をかけて建立されたもので、金の天蓋のの鐘塔をはじめいくつもの天蓋を乱舞させているその美しいシルエットと多彩な装飾は道行く人の目を惹きつけずにはおきません。 尖塔の高さは、81mにも及ぶとのことです。 |
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「ペトロパブロフスク要塞」です。 サンクト・ペテルブルグの歴史は、ネヴァ川に浮かぶ兎島という小さな島にピョートルT世の名により要塞の建設が進められ、その要塞を、オランダ風に「サンクト・ピューテル・ブルフ」(聖ペテロの町)と名付けられたのがはじまりだそうです。 後に、首都に「サンクト・ペテルブルグ」の名を譲り、島内の大聖堂の名を受けて「ペトロパブロフスク要塞」と呼ばれるようになったとのことです。 写真の建物は、「ペトロパブロフスク大聖堂」(1712〜33年)です。 |
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「カザン大聖堂」(1801〜11年)です。 聖堂そのものが96本のコリント式の列柱からなる壮大な回廊によって隠されるようになっています。 サン・ピエトロ大聖堂を見本にという、皇帝の命であったが、実際には弓形の柱廊は、逆に、従属的な部位としてではなく、寺院の正面玄関として確固たる意義を持っている建造物であるとのことです。 |
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宿泊したサンクトペテルブルグホテル前の大ネフカ川に浮かぶ「巡洋艦オーロラ」です。 ロシア革命の始まりの合図を冬の宮殿へ向けて発砲した鑑です。 日露戦争の千島海戦にも参戦した鑑だそうですが、革命のシンボルとして永久停泊しており、今は博物館となっています。 |
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エルミタージュを望む大ネヴァ川対岸のヴァシリエフスキー島の岬の広場に建つ「ロストラの燈台柱」です。 2本建っています。 海戦での勝利を象徴する記念碑で、 ロストラとは、船嘴・船首の意味だそうです。 |
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1810年に建てられた高さ32mの大きなもので、柱の足元を飾る4体の彫刻は、ロシアの四大河川、ボルガ、ドニエプロ、ネヴァ、ボルホフの象徴です。 | ||
サンクト・ペテルブルグ郊外のある「プーチンロシア連邦大統領の離宮」です。 | ||
サンクト・ペテルブルグの「プールコヴォT空港」(国内線)です。 モスクワから1時間20分のフライトでした。 |
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「アニチコフ橋」で、花崗岩製の台座の上で躍動する4頭の馬像(ピョートル・クロット)は、1841年〜1850年に設置されたものです。 なお、左手に見えるネオバロック式の建物は、「ベロゼルスキー宮殿」(1847年〜1848年)です。 |
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珍しくも北の国ロシアの「エジプト橋」です。 | ||
「凱旋門」です。 | ||
メインストレートに面した広場に建つ「レーニン」の大きな銅像です。 何故か、手を下げて、走っている車にストップをかけているような仕草をしている銅像です。 |
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サンクト・ペテルブルグの「モスクワ駅」です。 ここから寝台列車でモスクワに向かいました。 モスクワまでの所用時間は、約8時間でした。 |
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一等寝台列車(個室室内は・2人用)の写真です。 室内は、結構広く、向かい合いにベット、窓際にテーブルも置かれていたりして、ゆったりとした快適な旅ができました。 |
2005年6月19日