「時間の進む向き」
「どちらが「過去」で、どちらが「未来」か」ということで、3つのフイルムの図がある。
惑星の公転、バウンドしていくボール、衝突を繰り返すミクロの粒子である。
これについて、どちらにフイルムをまわしても不自然さは見られない。ニュートン力学も、マクスウエルの電磁気学、アインシュタインの相対性理論、量子論も時間の向きをまったく区別しない。と述べている。
(1)惑星の公転
このフイルムから、本当の惑星がどちらの方向に回転していたのかはわからない。
なぜか。回転を直接見ていないからだ。直接見た人は、どちらに回転しているか分かっている。その映像を撮影していた人は、撮影していた「今」という時間が過去から未来に流れていくのにそって惑星が回転しているのを映しているはずだ。彼にとっては、惑星の回転と、時間の流れは、何一つ不明な点はないはずだ。
なぜこのフイルムではわからないのか、それは、これがフイルムであるからである。映像は本物ではない。フイルム内の写真に過ぎない。再生すると、時間の経過とともに、フイルムが動き、それとともに惑星が公転するのが映し出される。このとき注意しなければならないのは、それは映し出された映像であるということだ。本当の惑星ではない。フイルムが刻々と流れていく「今」という時間とともに、惑星の映像が回転している。スイッチを切り、今度はそれを逆転させてみよう。今度は惑星は、刻々と過ぎていく「今」とともに先ほどとは逆回転をするのが見えるだろう。これも映像である。時間の流れとともに、映像は動いている。どちらが本当の惑星の回転か、ということは問題ではない。これは本当の惑星ではなく映像なのだから、映写機の動きに左右される。ケプラ−の法則に左右されてはいない。機械を早く回せば早く回転し、遅く回せば遅く回転する。止めればとまる。
映写機の早い遅いも、正、逆も関係なく、「今」という時間の流れとともに、映像は動いていく。機械を止めて、映像が動かなくても時間は過ぎていく。信号で止まった車と同じだ。
(2)はずんでいくボール
これも上のことと同じである。撮影した人は、ボールが時間の流れとともにどちらに弾んで行ったのかわかっている。このフイルムをまわすと、やはり時間の経過とともに、映像のボールは一方にはずんでいく。本当のボールのはずんだ方向は関係ないのである。映像の中でボールが弾んでいるのが、(今)起こっている事実なのである。
(3)粒子の衝突
これも同じである。映像なのだから、本物ではない。フイルムの回し方で映像はどちらにでも動く。今動いている映像が今起こっていることである。それが事実である。本物とは関係ない出来事である。
事物の動きとは関係なく時間はつねに流れている。事物が前に行こうが、後ろに行こうが、右へ行こうが、渦巻こうが、止まろうが、それと時間の流れは関係ない。少なくとも地球上の時間はそのように流れている。止まった時間、渦巻いた時間、後戻りした時間などは今のところ観測されていない。
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