特殊および一般相対性理論について U

 
T まえがき 


{「特殊および一般相対性理論について」P3 以下すべての章にわたって( )内は、同本からの引用です}

1 問題

 (叙述を優美にすることにはちっとも考慮しなかった。)及び(この理論の経験的物理的基礎をわざと継母のように扱っている。)

2 考察

 (叙述を優美に・・・)

わたしも、科学は芸術ではないのですから、叙述を優美にする必要はないと思います。しかし、この本は、優美にすることではなく、難解な文にすることを考慮したのじゃないかと思われます。わざわざ持って回った言い方をして箔をつけようとしているのか、それとも、分かりづらくして反論しにくくしているのか、とかんぐりたくさえなるほどです。哲学書ではなく、科学書なんだからわざわざ難しい書き方などせずに簡単に書けばいいと思うのですが。

 (経験的物理的基礎)とは何を指しているのでしょう。優美な表現なので、何を指しているのかちょっと難しい文です。考えるに、実際に起こったこと、あるいは、実験で存在が証明されたこと、のように、事実として実証されたこと、を指しているように受け取りました。〈間違っていたらあしからず〉とすると、これを継母のように扱うことは科学としては絶対してはならないことのように思えます。仮説を立てたら、それが実際に存在するか、仮説どおりかを、反証実験も交えて必ず確認しなければなりません。それが科学というものだそうです。事実を無視するのは疑似科学というものだそうです。

 それを、事実との照合は行わなかったとでも書けば簡単なのに、なぜ(継母のように)などという優美なことばで言ったのだろう。理由は、彼自身は相対性理論のいう現象が実際にはただのひとつも見つけられなかったことからではないのでしょうか。(継母のように扱っ)た、ということで、さも、本当はあるのだが、言わないだけだ、といっているけれど、本当は、相対性理論の予言する現象を、彼自身はひとつも見つけられなかったのです。そればかりではなく、誰も、まだ一つも確認していないのです。水星の軌道の揺れ、太陽近傍の星の光が曲がるという現象がその実例ということですが、それは間違っています。それについては、そのことが載っている章で反論します。そして、ほかには何もないのです。ものすごい学者がものすごい設備を作って、ものすごい観測をしているにもかかわらずです。

 継母扱いではなく、本当は子どもがいないのです。

 もし、このことばが、ごまかすために述べられているなら、疑似科学にもならない範疇のことです。ひょっとして、「あるある大辞典」の範疇に入ることかもしれません。
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