(非ユークリッド幾何学の発展から、思考法則にも経験にも衝突することなくわれわれが空間の無限性を疑うことができるということを認識するようになった。)
考察1
非ユークリッドは、現実に存在していることが、観測や実験から証明されているのでしょうか。思考法則には衝突しなくても、経験には衝突するのではないでしょうか。この世界の膨大な事象の中で、非ユークリッドがひとつも存在しないということは、非ユークリッド幾何学と、経験とは相容れないということです。現在実証されている現実は、すべて、非ユークリッド幾何学の示すところに影響されていません
非ユークリッド幾何学がいくら発展しても、実際にその現象が事実として、確認されないかぎり、そこから出る論理は、疑似科学を一歩も出られません。
(まず2次元の出来事を考える。平たい生物たちが、平らな道具、特別に平らな剛体の測量棒を持って一つの平面を自由に動き回っている・・・)
考察2
2次元世界のこのような生き物、道具、測量棒は存在するのでしょうか。存在しません。2次元世界はこの世には存在しない世界です。あたかも2次元世界が実際に存在するかのように論じていますが、私たちの世界は3次元世界なので2次元世界はどこを探してもありません。どのように薄い紙でも、縦、横、高さがあります。と習わなかったでしょうか。またどのように細い線にも、縦、横、高さがあります、とも。どれかひとつでも欠けたら、それは消えてしまいます、と中学か小学校で習ったように思います。
では、この3次元世界と違うところに、2次元世界があるのでしょうか。あるとすればそれはどのような世界なのでしょうか。私にはその姿を想像することすらできません。
この世に存在しないことを基準にしてこの世の事実を説明することは間違いです。あの世のことならできるかもしれませんが。
特にこの章はそれがあたかも実在するかのように説明しています。論理の第一歩が事実か、架空の話かということをわざわざあいまいにしているようにさえ思えます。
これは科学としては手法が間違っているのではないでしょうか。なぜなら、科学は、その方法として、事実に立脚しなければならないはずだからです。架空のたとえ話に立脚しているこの章は、出発点から間違っています。御伽噺なら、架空の世界で十分ですが。
(2次元の出来事を、だが今度は平面の上にではなく、球面上に考えることにする)
考察3
どのように考えようと勝手ですが、球面上に平面は存在しません。球の表面は存在するけれど、それを平面ということはできません。平たい生き物たちが、球の表面をどのように認識するかは、彼らに聞くしかありません。もし存在できたらの話ですが。
ビー玉に乗った平たい人間は、自分の頭の上に、ビー玉をグルッと回ってきた足が乗っかるのを不思議に思うことでしょう。彼らを平たいということができるでしょうか。それとも平たいのだから、ビー球とは関係なく、一点だけでビー玉に接触して、真っ平らのままでしょうか。
どちらにしろ、この世界では球面は3次元です。2次元の球面は存在しません。
(このような生き物がその世界の幾何学を2次元のユークリッド幾何学とし、・・・考察することができるだろうか?)
考察4
アインシュタイン自身も(それはできない、なぜならば一つの直線を実現しようとしても1本の曲線を得るだろうからである。)と述べているとおりです。
正方形のシールを準備します。これは伸び縮みしません。もちろん、中心を熱して伸ばすなどということもしてはいけません。熱して伸ばしたものは、いくら伸ばしても元と同じである、などという過激な論理はこのさいなしです。
これをビー球に張ります。ぴったり張れるでしょうか。いいえ、必ずしわができます。では、ビー玉の表面を平面に展開できるでしょうか。いいえ、必ず切れ目を入れなければなりません。それも限りなく無数にです。
ビー玉の表面はどのようにしても平面にはなりません。
球の表面は3次元なのだから、3次元のユークリッドです。2次元のユークリッドでないのは当たり前です。その変な生き物ばかりでなく人間にだって簡単にわかります。このことで、球の表面が非ユークリッド面であるということはできません。立方体だって、2次元で考えれば 非ユークリッドです。平面も、1次元で考えれば非ユークリッドです。1次元も、0次元で考えれば非ユークリッドです。
また、3次元世界を、4次元で考えても非ユークリッドです。もちろん4次元を100次元で考えても非ユークリッドです。100次元を1万次元で考えても、非ユークリッドです。
何をどのように仮定して、考えても自由です。でも、この地球上に球は無数にあります。その無数にある球の表面で、非ユークリッドの表面を持った球が1個でもあるでしょうか。論理は、現実に照らして初めて科学くになります。
球の表面が平たい世界は、非ユークリッドの思考の中には存在しても現実には存在しません。経験とは相容れません。
表面がすべて平らなビー玉や、表面がすべて平らなベアリング玉にお目にかかりたいものです。地球の全表面が一枚の平面であるなどということは不可能です。おそらく、地球は大きすぎるので、表面を平面と考えてもさして問題がないことから、この論理は作られているのでしょう。コロンブス以前の人が地球は平らであると考えていたように。実際アインシュタインは、軌道堤を直線としています。地球が球であるとは考えていません。アインシュタインはコロンブス以前の古典力学で考えています。
事実にない現象を持ち出して、この世界の事実を説明することはできません。
球の表面は境界がないか
考察5
球の表面はどちらに行っても、必ずもとの位置に戻ります。1周は1周です。元の位置に戻るとそこから2周目に入ります。そこが1周目と2周目の境界です。ビー玉の1周と地球の1周は違います。もし境界がないなら、地球とビー玉の大きさは同じになってしまいます。
出発点が境界です。
これらのことから、2次元の世界も2次元の球の表面も現実世界では存在しないということがいえます。
すなわち、ビー玉の世界は、表面が他の空間との境界です。有限で境界のある物質です。もちろん地球も、表面が他の空間との境界です。ただ気体の層のどこまでを表面とするかによる大きさの違いは出てきますが。
このように、どのような球も、その表面で他の空間と分けています。
(この2次元の球面世界に対して3次元の類比物、つまりリーマンによって発見されている3次元の球状空間が存在する)
考察6
2次元の球面世界はこの世界には存在しませんでした。このことから類推すると、その類比物の3次元の球状空間もやはり現実には存在しないといえそうで。実際、どのような観測も実験も、2次元世界や、3次元の球状空間を立証していません。(リーマンによって発見されている3次元の球状空間が存在する)とは何を持って証明したのでしょうか。たんに数学的空想の産物にすぎないのではないでしょうか。
もしそうでないなら、リーマン世界を実際に観測したり、実験で存在を証明したりしなければなりません。2次元世界の住人が住んでいる(太陽系が球面世界のわずかな部分しか占めていないならば、彼らが有限の世界に住んでいるのか無限の世界に住んでいるのかを決定する可能性はない)などと、いう言い訳はとおりません。実証できないのが最初からわかっているから、実証しなくていいという言い訳をでっち上げただけじゃないのでしょうか。
球は、太陽のように大きいものもあれば、ビーズ玉のように小さなものもあります。ミクロのベアリングも作っています。球の表面は大小どんなものでも存在します。(2次元の出来事を、だが今度は平面の上にではなく、球面上に考えることにする)ことができる球もさまざまな大きさのものがあることが想像できます。
したがって、これから類推すると、もしあれば3次元の球状空間の立体も大小さまざまなものが存在することになります。われわれの手のひらに乗るような、実験には手ごろな大きさのものもあるはずです。
この世界には、(3次元の球状世界)は、超巨大でたった一つしかないというのなら別ですが。そうとしても、同じ構造の物をミニチュアでできないものですかね。アインシュタインの論によると2次元の非ユークリッド平面を持った球はいくらでも作れるようですから。球の表面が、2次元の非ユークリッド面という論理がとおればのはなしですが。
要するに、2次元の非ユークリッド面も、3次元の球状空間も存在しないということです。
架空の条件から出発した論理は、架空の世界をさも実在するように述べていますが、本当は、たんに思考の遊びにしかすぎません。したがって、有限だが境界のない宇宙は今のところ存在することはありません。