(・・・場所をすべて空間的に記述するには、その出来事または対象と一致する1剛体(基準体)上の点を定めることがその基礎となる。・・・〈ベルリンのポツダム駅〉は、その大地の上のはっきり名前のつけられた点であって、その点と出来事は空間的に一致している、と。)し、座標(x,y,z)を与えれば(本質的に記述される。)といっている。
基準を決めて、それに対する点は、決めることができる。しかし、ポツダム駅は、地球から見れば、いつも同じ場所にあるが、太陽から見ればつねに位置が変化しているし。他の星から見れば、また、その位置の変化の仕方が違ってくる。太陽を基準にすると、年に1回ほぼ同じ位置に戻ってくるが、他の星を基準にすると、二度と同じ位置になることはない。
したがって、地球を基準にする場合だけ、地球に対するポツダム駅の位置が特定されるのだから、((本質的に)記述される)の、(本質的)はいえないことになる。いえば、相対的に記述される、となるはずである。
ガリレイの相対論もそうだが、アインシュタインの相対論の場合も、小さな動きの部分しか見ていないし、理論の中でしか判断していないところがある。たとえば、ガリレイの相対論では、ピサの斜塔から落とした鉄球は地球中心に対してまっすぐ落ちることになっているが、実際は、地球の自転により、東側にずれるはずである。ほんのかすかなずれだから測定できないとしてもそれは存在するはずである。これは、貿易風や、偏西風、あるいは、低気圧や高気圧が渦を巻く現象に実際に現れていることから伺われる。アインシュタインの考え方とは違い、地球の自転が地上の物体の運動に影響することは(事実として存在することが確認されている)のである。
(事象の空間的な記述にはすべて、この事象が空間的に基準とすべきひとつの剛体を用いる。その基準関係にはすべて、〈線分〉に対してユークリット幾何学があてはまること、そのさい〈線分〉は物理的にひとつの剛体上の二点によってあらわされること、を前提にしている。)
この章はたいしたことは書かれていないように思われるが、(そのさい〈線分〉は物理的に一つの剛体上の二点によって表されること、を前提にしている。)と何気なく書いていることの中に、まやかしの種が潜んでいます。
一つは他の線分の測り方をやんわり否定していることです。これは、あとでトリックに使われます。本当は、(剛体上の2点によっても)と(も)が入るはずです。なぜなら、ほかの方法でも線分は表すことができるのです。本来、線分とは、決まった長さ、という抽象的な概念であるから、剛体によって測る方法は〈あるいは、光であろうが他の何であろうが〉それを表すたんなる手段にすぎないのです。ところが、ここで、ひとつの方法に特定することで、後につごうのいい理論を組み立てる布石にしているのです。
また、この章では、剛体しかないとまで言い切っているのに、後に、一般相対性理論の時には、剛体で測ることを完全に否定しています。大きな矛盾が出てくるのです。つごうしだいでどうにでもする、というのです。
雲の位置を確定する方法を以下のように述べています。
(雲のところまで届くようにそこに垂直にポールを立てて、地表に対して相対的な位置を確定することができる。・・・そのポールの足の位置が決まったところで、完全な雲の位置を与える。)
(そのポールの足の位置が決まった)というが、この足の位置は何によって決めるのでしょうか。それが書かれていません。もし、足の位置がかってに決定できるなら、雲の位置も、ポールの足の位置に関係なく勝手に決められるはずです。
これは、相対的な位置関係の問題と、絶対的な位置の問題です。この場合はポールの足の位置をすべての基準点にし、それに対する雲の位置を測っているわけです。
すると、雲の上の太陽の位置も確定することができます。すると、雲も動いていくが、太陽も動いていくのが観測されます。雲が動くのは、風や湿度などの気象条件の力で説明ができます。太陽が動いていくのをアインシュタインはどのように説明するのでしょうか。
地動説では、この足の位置は地球の自転のため、秒速200mほどで動いており、地球の公転のため、秒速30kmほどで動いているから、太陽が動いているように見えるけれど、本当は、基準のポールの足の位置のほうがが動いているから、太陽が動いているように見えるだけだ、と説明します。
しかし、アインシュタインが言うように、この(ポールの足の位置)を基準にして、止まっているとすると、雲の上にある太陽が動いていることになります。実際、5分間で約太陽の直径分移動しているのを観測できるはずです。そして、1日で、1周しているのを観測できるでしょう。もちろん、人間には見えなくても、その向こうにある星も回転を始めます。いわゆる天動説です。アインシュタインの考え方では、こんなことになってしまいます。
位置を記述するということは、人間の必要によって行われているため、その時々の一番便利な基準で計っています。記述するということは、事象をあるがままではなく、抽象化して、他のものに置き換えることです。本物の家と、設計図の関係です。事象そのものは、人間が測ろうと測るまいと、厳然と存在します。ポツダム駅上空の雲は宇宙空間を秒速400kmですっ飛んでいるのです。しかし、そのことと、人間の日常生活とは関係がないので、地上に基準を置いて、ポツダム駅上空をのんびり流れている雲の高さは、と測っているのです。B(完全な雲の位置を与える)ということはいえないのです。A(地表に対して相対的な位置を確定することができる)までしかいえないのです。アインシュタインはAだからBといっているけれど、そのあいだには大きな飛躍があるのです。この飛躍の根拠はあいまいなままで述べていません。