相対性理論について目次 | 相対性原理と光速度不変の原理 | メッセージ |
「アインシュタイン相対性理論」
(内山龍雄・解説)「岩波文庫」
の考察9
著者 田 敞
(以下{ }内は上記本よりの引用)
まとめ
問題
{“静止している”空間の中に二つの座標系があるとしよう}
考察
{特別な性質を与えられた“絶対静止空間”というようなものは物理学に不要であり、また電磁現象が起きている真空の空間のなかの各点について,それらの点の“絶対静止空間”に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる.}
これがアインシュタインの空間に対する最初に出てくる考えである。エーテルを否定するだけでなく、絶対静止空間を否定している。それを理由に、絶対静止空間に対する動きを否定している。これは、ニュートン以前の空間の考え方、絶対静止空間から動きを考えるから、すべての物質の速度は決まっているという考え方の否定である。そういう意味で非常に画期的な考え方であった。しかし、画期的であるということと、それが真実であるということとはなんの関係もないことである。言うは易しで、言うのは勝手である。
問題にあるように、アインシュタインは、結局は{“静止している”空間}を基準にして動いている系か静止している系かを決めている。“絶対静止空間”はないが{“静止している”空間}はあるという。その空間は何故静止しているといえるのかは書いていない。絶対静止は否定しているし、“私”はもう使いきっちゃったしで、新しい根拠をでっちあげるのもめんどくさいしで書けないのだろう。また、“絶対静止空間”に対する物質や電磁波の速度を考えることは無意味であるが、{“静止している”空間}に対する、静止系や、運動系は意味があるという。静止や、運動はだめでも「系」が付けばOKということなのだろうか。ただ、言葉を変えただけで、同じことを否定したり肯定したりしているだけにしかすぎない。あるのは科学ではなく言葉の巧みさだけだ。
{“絶対静止空間”に対する速度ベクトル}を否定することで相対性原理を作り、それが終わると、今度は、動いている物の時間を遅くするために静止が必要になると{“静止している”空間}を導入して、動いている系、静止している系を決めている。{それらの点の“絶対静止空間”に対する速度ベクトルがどのようなものかを考えることも無意味なことになる.}と言いながら、自分が勝手に決めた{“静止している”空間}なるものに対しては、止まっているとか、動いているとか{速度ベクトルがどのようなものかを}しっかり{考え}て有意味なこととしている。自分の理論を組み立てる都合で基本的な考え方をそれに合わせて勝手に変えている。
そのほかにも、{静止系に静止している時計}、{静止系の時間}、{静止系に静止している物指}といった、静止の存在を基準にした現象を持ちだしている。また{静止系から,これに対して一様な並進運動をしている座標系}、といって、静止系なる静止からしっかり並進運動させている。{“絶対静止空間”というようなものは物理学に不要であり、}はいったいどこに行ったのか。
問題 特殊相対性理論は正しいか
アインシュタインは、{“絶対静止空間”}と、{“静止している”空間}は違うとは言っていないし、その違いを明確にしてもいないし、違いの実証もない。先に書いたように、有限の“静止している”空間は存在できないし(前出。“静止している”空間の他の空間が動きだす)、光が、物質に対して相対速度を持っていることが実測されているし(前出。相対性原理が間違っている)、光速で飛ぶニュートリノが、15万光年の距離を光と共に15万年かかって地球に届いている(前出。運動している物質の時間は遅くなっていない)ことなど、相対性原理や、速度によって時間が遅れることを否定する現象が観測されている。
それに対し、アインシュタインはこれら(相対性原理や、速度によって時間が遅れること)が正しいという実証は行っていない。他の学者がこれらの実証を行ったということだが、それは、書いたように、どれも誤差の範囲を超えることはない。特殊相対性理論の反証はあるが実証はないということである。
また、速度によって時間が遅くなったり早くなったりすると、異なる短針の位置を持った人や、異なる短針の位置を持った物質や現象が同時に存在するということになる。過去の物質や現象を見たり、未来の物質や現象を見たりする不可思議な現象が常態であるということになる。アンシュタインはこの現象について何も述べていない。
すべての物質は、ビッグバン宇宙論が正しいとしても130億年の間宇宙を飛び歩いていた。その間、原子の速度はさまざまであったろう。光速に近いものから、低速のものまで。130億年の間に、原子はそれぞれの速度に応じた速さの非常に異なる時間を経過したことになる。それは1秒2秒の違いではなく、数年、数千年のものもあれば数万年の違いになるものもあるだろう。それらの異なる短針の位置を持った原子が集まって、今現在の地球を形づくっていることになる。今この瞬間の地球の時刻はどの原子の時刻に合っているのだろう。それぞれの短針の位置が異なる原子のどの原子の短針の位置が地球の今の短針の位置であると決まったのだろう。
私の周りのすべての物質の原子は私の原子の短針の位置と異なる。その違いは、数千年、あるいは数万年にも及ぶだろう。そればかりではない。私を形作っている原子のすべてが異なる短針の位置を持っている。地球の今の時刻にあっている短針はあるのだろうか。すべての短針がおそらく過去や未来を指しているだろう。体を構成しているすべての原子の短針が地球の原子の時刻と異なるのに、なぜ私は今この時刻に地球上にいるのだろう。
アインシュタインはこのことについては何も考えていない。時間とは時計の短針の位置であるという小学生低学年なみの考えしかなかったのだから、異なった時間が出現することなど、思いつきもしなかったのだろう。
ニュートンの言うように、
時刻はすべて同じであると考えると矛盾はなくなる。速度によって時間の速度が異なると、すべての物質が過去や未来に行ってしまい見えなくなるし、会うこともできなくなる。今周りが見えるということは、時刻はすべて同じであるということだ。速度によって、時間に遅速は起こらないということの実証である。
相対性原理も、動くものは時間が遅れるということも、アインシュタインの巧みな言葉の中にはあっても、実際の現象としては存在しない。
したがって、特殊相対性理論は間違いであるといえる。