空いっぱいに蝉時雨第8章の4
   シモーンは落ち着かない。いつもならイーシャの相手をしているのだが、 ホノビジョンのチャンネルをなんとなく変え続けている。それから、思い 切ったように消すと立ち上がる。ふうっとかすかな溜息が出る。
 ハンドバックから、薬を探し出すと、小さな錠剤を飲む。もう、ずいぶんと使わなかった、昨日久しぶりに持ち出したままハンドバックに入っていた避妊薬。
 そのまま、またソファーに座り込むとぼんやり考え込む。
「してあげられるのは私しかいない。」
 昨日から何度も思ったことをまた考える。
 シモーンは立ち上がる。しばらくイーシャの部屋のドアの前にたたずむ。 それから、意を決してそっと入っていく。
 座り込んでボールを転がしていたイーシャが、顔を上げる。笑いが顔に広がる。
「ほんとうに子供の頃にそっくりになった。」
 その顔からは昨日のことなど想像もできない。
 イーシャは、シモーンのそばにくると、いつものように頬擦りをする。 シモーンはその大きな身体を支えるのが精一杯。
「ボール遊びしてたの。」
 言いながら、いつも座るソファーにかける。イーシャは幼児のようにまとわりついて甘える。シモーンは、その肩や背中をなでる。イーシャが自分に今まで一度も性的な衝動を起こしたことがないのをまた不思議に思 う。
 やがて、いつものように、イーシャは独り遊びをはじめた。部屋に流れている音楽が変わると踊りだした。宇宙飛行に行くために毎日通っていたジムででも覚えたのだろう。それを見て、以前、回復の望みを持ったことがあった。しかし、いつもそれ以上でもそれ以下でもなかった。進歩もな い、退歩もない。条件反射にしか過ぎない。
 このままでもいいじゃない、と楽しげに踊っているイーシャを見ながら思う。こうして二人で暮らしていくなら、これ以上のことなどいらない、何も無理して苦しむことなど必要ないと。こうして何事もなく穏やかに暮 らしていければいい。
 シモーンはいつものように読みかけの本をモニターに呼び出す。最近は、 そうしてそばにいるだけで、安心してイーシャは遊んでいる様になった。
 しばらくして、電話の呼び出しの曲が部屋の音楽に混ざった。シモーン は遠隔操作のボタンを押す。
「お母さん、カホリ。」
「どうしたの。」
 カホリのせき込んだ声に応えながら、映像のスイッチを入れる。
「ああ、おかあさん。」
 カホリの少し怯えたような顔が浮かび上がる。
「どうしたの。そんな顔して。」
「あのね、私誰かにつけられているようなの。」
 シモーンはほっとする。
「大丈夫よ。警察の人よ。お母さんも昨日つけられたは。かえって安心じゃない。何かあったら助けてくれるわよ。」
 言いながら、昨日のあの嫌な感覚がよみがえってくる。そのおかげで、 不幸を免れたのだけれど。
「私も、ちらっとそうは思ったのよ。でも、なんだか気持ち悪くって。」
「シフスを探してるだけよ。」
「そうよね。でも、人権侵害じゃない。私言ってやるから。」
「ほっとけばいいのよ。」
「だめよ。背中に公しょった場合は小さな顔しなくちゃだめなのよ。昔は こんなことなかったわ。人の後ろを正義面下げてつけ回すなんて、最低よ。」
「そうね。がんばって。」
 声が笑う。
「じゃあね。イーシャによろしく。また会いに行くね。兄さんとね。」
 カホリはさっさと電話を切る。ちょっと、家を離れると話し方も態度も、考え方も変わるんだからと、シモーンはおかしくなる。その笑いを残したま まシモーンは振り返る。
 すぐ後ろにイーシャが立っていた。上気した顔で、目が光っていた。その 目は、今、カホリの映像があった辺りを見ている。そして、きょろきょろと辺りを探すように見回し、声にならない声を出す。
 シモーンは立ち上がる。そして半ば自分に言うように話しかける。
「そうよ、だれだって楽しく生きなくちゃ。イーシャ。」
「ラン、イーシャの服を脱がせて。」
 ロボットに言う。ロボットは、軽くあらがうイーシャの服を着ように脱がせていく。シモーンも、背を向けて、素早く服を脱いでいく。
「そうよ、イーシャだって楽しい人生をおくらなくっちゃ。」
 下着を脱ぐ手が戸惑う。そして思い切って振り向く。イーシャも裸にされかかっていた。シモーンは、イーシャが裸になるのを待って、ランのスイッ チを切った。性的行為を阻止するようにインプットされているからもあったが、生き物のように動き回るランに、後ろめたさも感じたのかもしれない。
 シモーンはイーシャと向き合った。身体が震え歯がかちかち鳴っているよ うな気がする。
「イーシャ寒くない。」
 聴いたところで、理解されないのは分かり切っている。それでも何か言わずにはいられない。
 身体が、がくがくする。イーシャは、両手をだらっと下げたままシモーン を見ている。シモーンはその目から逃げ出したい。
       

(8章の4おわり、8章の5に続く


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『妹空並刻』