空いっぱいに蝉時雨第8章の3
  「ただいま。」
 返事はなかった。こんなに早く帰るとは思わないから、奥で遊んでいる のだろうと、シモーンは居間に行く。そこにも誰もいない。
 せっかくの楽しみを壊された腹立たしさがくすぶっている。自分の部屋 へ行くと、ハンドバックを投げ出すように置き、白い帽子を取る。
 そのとき、何か揉み合うような音に気づいた。
「ねえ、お願い、イーシャ、離して。」
シモーンは跳び上がった。声は半泣きだ。
「ね、お願いだから。」
「カホリ。」
 シモーンは、声の方を見て叫ぶ。壁際のテレビに、カホリとイーシャの揉み合う姿が浮かび上がっている。
「イーシャ、やめなさい。」
 叫びながら、部屋を飛び出した。
 部屋に飛び込んだシモーンは、カホリにしがみついているイーシャの背中に飛びついた。
「イーシャ、離しなさい。」
「ああ、お母さん・イーシャが。」
 イーシャの身体の下で暴れていたカホリが泣き声を出す。
「イーシャ、離しなさい。」
 言ったところで分かるわけがない。トキに乗るために訓練した身体は、 シモーンが加わったくらいではどうしようもない。シモーンはあっさりはね飛ばされてしまった。イーシャがシモーンにそんなことをしたのは初め てだ。だが、そんなことに驚いている余裕はない。シモーンはもう一度飛 びつく。しかし、すぐはね飛ばされた。
 何度か、そうやって揉み合ううちに、シモーンはやっと介護ロボットを思い出す。なぜロボットが助けない。こういうときに、自動的にロボットが判断してイーシャを止めるはずなのに。患者は、被害者であっても、加 害者であってもならないのだから。
「イーシャを止めて。」
 窓際に突っ立っているロボットを見つけて叫ぶ。だがロボットは動かな い。
「どうしたの、イーシャを止めて。」
「スイッチ切っちゃったの。」
 カホリが叫ぶ。
「どうして。ばかね。」
 言いながら、走り寄ると、素早くスイッチを入れる。ロボットは瞬時に イーシャの所に近寄ると腕に触れる。それから、抱えるように六本の腕で イーシャを抱く。
「どうしたの。」
「麻酔をしましたのですぐ眠ります。」
 柔らかい声だ。誰もが安心してしまう、人工の声。イーシャの身体から 力が抜けた。ロボットはその身体をそっと抱き上げるとベットに運ぶ。

 カホリはうつぶせになると泣き出した。シモーンはどう言っていいか分からない。背中に手を置くと、
「ごめんなさい。」と言う。
 カホリは泣きじゃくっているだけだ。
「ごめんなさい。お母さんが話しておけば良かった。」
 シモーンは、そんなことがイーシャにも起こるとは考えたくなかった。 それも姉に対して。それが、最初の顔合わせの時に感じた不安を口にする のを渋らせた。同じ患者に何人も接したし、そういう発作を自分でも体験 したけれど、イーシャをそれにだぶらせることが出来なかった。
「いやよ、こんなの。」
 シモーンは、慰めの言葉もない。そしてカホリを連れ出す。
 それでも、少ししたらカホリも落ち着いた。カホリが言うには、自分が世話をしようとしても、ロボットが先に何でもやってしまうので、スイッ チを切ったとのことだった。そして一緒に遊んでいるうちにああなったと いう。
 話しているうちに、イーシャの「ああ。」と言う意味のない声が壁のテレビから聞こえてきた。
「呼んでるから行って来る。」
「私も。」
「ううん、あなたは待ってて。」
 イーシャは、何事もなかったようにシモーンの顔を見て笑う。シモーン はその手を握ってやる。
「ごめんなさい。お母さん留守してて。」
 そして、髪をなでる。イーシャはにこにこ笑っている。イーシャは、ど うして、今まで自分に対して性的な行動をとらなかったのだろうと不思議 に思う。今まで考えもしなかったこと。

 その夜、寝付けないままにシモーンは考える。
「イーシャだって、みんなと同じように生きたいのよ。」
 部屋に閉じこめられ、ロボットに見張られて、ただ呼吸してるだけの人生なんて。部屋を自在に変化させる立体映像があっても、それはしょせん映像にしかすぎない。彼が思考できないからといって、彼が部屋の中だけで充分だという理由にはならない。外を歩かせたい。人間と生きさせたい。 だけどどうやって。
 シモーンは寝付かれぬままてんてんとする。
 翌朝、
「カホリを見たら、また、いつあんなになるか分からないでしょ。」
と、食事をしながら何気なく言う。
「大丈夫よ。」
 カホリは笑い返す。
「長くあってなかったから、姉弟だってこと忘れちゃったのよ。昔の恋人くらいに思ってるんじゃない。そうね、恋人だったら何とかしてあげられたのにね 。」
 そういって、にこにこする。
  「そう、よかった。ショックを受けてたらどうしようかと思ってたの。」
「ちょっとびっくりしただけよ。突然すぎて。女って、ほら、防御本能が先立ちするときってあるでしょ。」
「そうね、でもしばらく帰ってなさい。イーシャが興奮すると、また薬を打たなくっちゃならないから。害はないけどかわいそうでしょ。」
「そうね、それも可哀想ね。」
 その午後、カホリは来たときと同じように、小さなバック一つで帰って いった。

       

(8章の3おわり、8章の4に続く


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『妹空並刻』