空いっぱいに蝉時雨第8章の2
   それでも、イーシャはカホリに馴染んでいった。十日もすると、かえって、 カホリがそばにいないと探すようにさえなった。
「お母さん、たまには出かけたら。」
 カホリが言う。
「そうね。でもよしとくは。」
「家にばかりこもってると陰気になっちゃうわよ。」
「それはそうだけど。」
「そうよ。イーシャの不幸をお母さんが背負い込んだってイーシャが喜ぶわけ じゃないでしょ。二人で不幸がってたって仕方ないでしょ。」
「それはそうだけど、シフスのこともあるし。」
「どうしたのよ、お母さんらしくない。兄さんは大丈夫よ。心配したって仕方ないでしょ。それなりに生きてるわ。その うち、よっなんて連絡あるわよ。私たちが苦しがったっ て気休めにもならないわよ。老け込んじゃうわよ。」
「でもね。やっぱりそんな気分にはなれないのよ。今は、こうしているのが一番落ち着くのよ」
 そして、シモーンは言葉を切る。カホリが来てから、ずいぶん落ち着いたと言おうとしてやめた。カホリがいなければ、自分はどうこの事を切り抜けてい けばいいのか分からなかったろう。ただ、今の不安を話せる相手がいることだけでも助かる思いだった。だが、シモーンは言わない。そのことで、カホリを 縛りたくないと思う。
「分かったわ。でも、少しは出歩いたらいいのに。」
「そうよね。」
 ずっと昔、世界中をすっ飛び歩いていた頃のことを思う。もう、そうしたい とは思わない。そのころ、まさか、こんなことになるとは思わなかった。
「昔のことね。」
 カホリには、その間の脈絡が分からない。
「そうね。午後からでも、出かけてみようかしら。」

 シモーンは公園へ出てみた。シャラの並木の下をゆっくりと歩く。行き交う人は少なくどことなく明るさが足りない。だけどそれでも人が懐かしく思える のをひとりおかしがる。自然に心が晴れてくる。シャラの並木のトンネルを抜け美術館 へ入った。そこも閑散としていた。誰かに見られているような気がした。振り 返ると、ぼんやり絵を見ている人がちらほらいるだけだ。気のせいかと館内を 巡るうち、ひとりの男が、いつも視野の中に見え隠れしているのに気づいた。恥 ずかしがっててと、少しほほえましく、声をかける機会を与えてあげようと、 少し長く絵の前に立ち止まったりするのだが、その男は近づいてこない。ずい ぶん恥ずかしがりやだと、ロビーの椅子に腰掛けて、おかしくなる。男は相変 わらず知らぬ振りで、絵を見ている振りをしている。シモーンは平気で男を見 つめる。三十を少し出たところだろう。スポーツで鍛えたのが一目で分かるが っちりした身体をしている。顔は向こうを向いたままで分からない。顔は半日 もあれば、自由に作り替えられるのだから、美男でない顔に出会うのが難しい。 流行があって、画一的なきらいはあるが、まあ、ちょっと半日を楽しく過ご すには十分だ。
 シモーンは、男が顔を上げるのを待つ。男が顔を上げ、目があったときにっ こり笑えばいい。そして、こんにちはと言えば、二三時間は楽しくできるとい うものだ。
 だが、男は顔を上げない。こちらを意識しているのははっきり分かる。そん なに気が弱いのかしらと、ほほえましくなる。
 それならと、声をかけようと立ち上がる。男の方へ歩きかけた瞬間、シモー ンの背筋を冷たいものが走った。男の目が、パンフレットの影から素早くこち らを見、伏せられた。その目が凍っていた。
 シモーンは、出来るだけ自然に体の向きを変えると、出口へ向かった。
 自分の家が、いつも見張られていたのをやっと思い出した。そんなことさえ忘れていた自分が腹立たしい。きっと、シフスに会うために出かけたとでも思 ってつけていたのだろう。
 車に乗り込むと、自宅の番号を押す。男はきっと後をつけているだろう。バ ックミラーにその姿を探すが、分からない。
 いっそのことシフスのことを聴けば良かったと考える。だけど、そんな気も ないのを知る。ただただ腹立たしい。

   

(8章の2おわり、8章の3に続く


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『妹空並刻』