空いっぱいに蝉時雨第7章の1
   シフスは、もうずいぶん長い間ビルの一室の隅にじっとうずくまっている。 廃ビル特有の黴と埃の臭いが闇をこの世にとどめている。
 どんなにかすかな痕跡さえ見逃さない追跡者が、やがて自分の手さえ見え ないこの闇の中にもやってくるだろう。だが、シフスは動けない。疲労は極限に達していた。体だじゅう汗びっしょりなのに、歯がかちかち鳴る。そ の音を誰かが聞きつけそうで、止めようとするのだが、かえってそのたびに大 きくなる。そこへへたりこんだときに脇へ投げ出した銃の熱気はもうない。
 ー確かにあの一発は。ー
 シフスの歯は、噛みしめても噛みしめてもカチカチと鳴り続ける。
 ーあの若い男は、目をまん丸にして後ろへ吹き飛んだ。ー
 ーどうして人が来たんだ。どうしてロボットじゃなかったんだ。ー
 シフスの目の中に、花火のように飛び散った血が焼き付いている。シフス は両手を揉みしだく。ふるえはいつまでも止まない。

 どれくらい時がたったろう、かび臭い闇の中で、シフスはのろのろ立ち上 がる。
 「とにかく逃げなくては。集合場所は、喜望峰。たどり着けるだろうか。 遠い。めったやたらに遠い。」
 街路をそっと見渡す。整然と並んだ街灯の下には誰もいない。その白い光 の中を、雨が横殴りに吹き抜けていく。
 「なぜ来ない。」
 シフスは、安堵と落胆の入り交じった溜息をつく。
 「また逃げるしかない。」
 シフスは雨の中へ走り出す。強い風に巻かれ、身体が泳ぐ。
 「あとニキロ。」
 肩で息をしながら、疲れた足をひきずる。ビルの陰から陰へよろよろと走 り込む。風雨はますます猛り立つ。

  「ハリケーン。助かるかな。後一キロ。」
 そこにはこんな時のために、逃走用のエアーボートが隠してある。空中か ら水中まで、自由に移動できる。仲間の誰もが、それぞれの場所に何か逃走用のものを隠してあるはずだった。はずだったというのは、仲間にさえそのことを話してはならないことになっていたからだ。
 ばらばらになる。一人でも残れば、その人が核になってまた組織を作り、 続きをやる。とにかくやり遂げるまで。
 「集合場所、喜望峰。」
 シフスは走り出す。そして次のビルの暗がりへ飛び込む。
 突然小さく耳が震えた。ヘルメットが、機械の接近をキャッチしたのだ。 シフスは身を伏せる。やがて浮上型追跡車が二台、高速艇のように、水煙を吹き上げながら疾走していった。
 「だれかが見つかったのかもしれない。」
 顔を覆った赤外線遮断マスク越しに、あっという間に消えていく追跡者を 覗く。
 「おれのほかにもまだ誰かが逃げている。どこかでまだ誰かが生き残って いる。」
 「あいつらは怖がっている。俺たちが銃を持っていたので、本気では追跡できないでいる。いや、もう機械で追跡しているはずだ。」
ー弱虫だったシフス。臆病だったシフス。優しかったはずのシフス。ー
 そして、シフスはもう銃を持っていないことに気づく。どこで手放してしまったのか思い出せない。
 「あんなのはない方がいい。」
 ぶるっと身震いすると、シフスは歩き出す。後少し。雨が真横からたたきつける。

 エアーカーは一気に街路に躍り出た。数十秒で岸壁に出た。風にあおられ、 車は斜めにすっ飛んでいく。シフスは前を睨みつける。波が突堤にぶつかり数十メートルも立ち上がり、砕け落ちる。だが躊躇している間はない。警察 のレーダーには、もうはっきりとこの車が映し出されているはずだ。予定どおり海面上を飛び、一気に湾外へ抜け、そこから海中深く潜り込むしかない。
 シフスは岸壁の波をさけると、突堤の風下側へ飛び出した。しかし、一瞬 早く岸壁を越えた波がその上に砕け落ちた。エアーカーは波にもまれながら 浮き上がり、それから海中に消えた。

 翌日、ハリケーンの名残の雲が高く細く空に張り付いた。
 その日、ハリケーンのために墜落した飛行機一機と、海岸に漂着した一台 のエアーカーが発見された。墜落した飛行機の中から一人の死体が見つかっ た。エアーカーの方は破損がひどく、乗員は流されたのか、見あたらなかっ た。

 

(7章の1おわり、8章の1に続く


semi6-2 6章の2へ

アンケート アンケート

go to home
蝉時雨目次へ




(C) 1996-1997
written by
『妹空並刻』