空いっぱいに蝉時雨第6章の2
   イーシャはずいぶん回復した。自分で歩くことができるようになり、意味は 分からないが、声を出せるようになった。シモーンの事も認識できるのか、そばにいると機嫌が良かった。シモーンがイーシャのそばにいる時間も、それにつれて増えていった。
 モヒナが顔を出さなくなって久しい。来てくれるとイーシャが喜ぶのにと思うときもあるが、ほっとしているところもあった。ひょっとして、モヒナも病気になったのかと思うときもあるが、それを確かめる気分にはなれなかった。
 赤ん坊を育てるようにシモーンはいちから始める。根気よく。赤ん坊は自分で成長する。しかし、イーシャは成長しない。何一つ覚えようとしない。と きには、いらだって、言葉を教え込もうとする。
「くち。」
 イーシャの前に座って、自分の口を指で押さえる。それからイーシャの唇に触れる。
 その指をイーシャがくわえる。イーシャはもうじっとしていられない。シモ ーンの手を持って遊んでいるかと思うと、ぐるぐる歩きはじめる。ため息をつ いてシモーンはその後を目で追う。ふだんは、そんな姿をにこにこと見ている のだが今日はなぜかいらだつ。
 こんなにしながら、何年も何年も過ぎていくのかしら。どんどん歳を取って。 せめてエイサがいてくれれば。
 だが、エイサからはなんの連絡もない。「どこかで、きっと良い人が出来たん だは」。ほかの時なら考えないことを考える。
 イーシャはビニールの大きなボールを転がしては追いかけている。笑いとも 叫びともつかない甲高い声が今日は耳につく。
 シモーンは、イーシャから目を離して窓の外を見る。そんなときでさえ部屋 を離れられない。部屋を出たらイーシャが追ってくる。シモーンが視界から消 えるとイーシャは叫び出す。イーシャが起きている限り、シモーンなは自由が ない。それが時々今日のように分けもないいらだちになる。
 シモーンはホノビジョンをつける。イーシャのじゃまをしないように、小さ な画像が浮かび上がるだけのもの。音楽を聴こうと思ったのにニュースが飛び 込んできた。だれかが核爆弾を製造していたという。その工場が映っている。 シモーンはチャンネルを変えようとして、はっと手を止める。テイオウ。確か にそう言った。
「メインコンピューター破壊を企てているグループが存在することは以前から知られておりましたが、現実的に行動を起こしているとは思っても見なかったことです。彼らの放送や、アジビラには今度の事を予測させるような内容が含まれていたということですが、信じられるような内容のものではなかったわけです。だが、今回の強制捜査で、核爆弾らしきものが発見された模様です。」
 ひどい雨の中に、チカチカとライトを明滅させているパトカーの群が浮かび 上がっている。
「それではもう一度亡くなられた方とけがをされた方の名前をお知らせいたし ます。」
 アナウンサーが映像に合わせてゆっくり名前を読み上げていく。シモーンの 目はそれより速く文字を追う。動悸が速くなっているのが分かる。
「このほかに、容疑者の中から三名の負傷者が出ている模様ですが、まだ身元 は確認されておりません。」
「シフスが大変なの。」
 画面から目を離さずにイーシャに言う。
「それでは、新しい情報が入りしだい、又お知らせいたします。ここでいったん スタジオに戻ります。」
「それでは、先ほどの話を確認しますと、彼らは、古典的なアナキストの集団で、 破壊のための破壊を目指しているということですか。」 「ええ、私はそう認識しています。」
 アナウンサーの言葉尻を捉えて、一人が性急に言う。
「そこで、かれらが目標としたのが、メーンコンピューターというわけですね。」
「そう。彼らがテイオウと呼んでいるメーンコンピューターです。あれを破壊さ れたらおしまいですぞ。彼らがねらう、無政府状態に陥りますぞ。それこそ地球規模の大恐慌が起こりますぞ。」
「いや、彼らはもっと単純なんじゃないかね。」
 もう一人が横やりを入れる。
「といいますと。」
「聞くところによりますと、彼らはノンティーチングだというから、深く物事を 考えて行動しているとは考えにくいのじゃないかね。社会全体のレベルから落ち込んだ者が陥りがちな精神錯乱にすぎないんじゃないかね。自分があがれないから、社会を自分のレベルまで引き下げて、同類を増やそうという本能だね。」
「私もそう思いますね。彼らは、メーンコンピューターを破壊した後、自分らであらゆるものを生産すると主張しているでしょ。自らの手で大地を耕し、自らの手で自らを養う。かっこいいことですわね。自称自然主義者。かれらは幼稚なん ですよ。少し歴史をひもとけば、畑などというものが、どれだけ自然を破壊して いたか、一目瞭然なんですけどね。それすら分かってないんですよ。」
「前世紀には、この畑を含めて、生産性の向上による自然破壊から、人類は化学兵器で滅びるか、自然破壊で滅びるかの瀬戸際だったんでしょ。あのとき、空気 と海水から物が合成される技術が生まれなかったら、人類は今頃どうなっていたかわかってないのよ。」
「いや、その通りです。我々が人類の歴史始まって以来の無秩序の中に暮らせる のも、メーンコンピューターが正確無比なる秩序を保っているおかげですからね。 個の自由、砕けていえば、わがままが通るのは、人間が生産に携わらないから許 されるのです。生産性となると、これはもう第一に秩序ですからね。一人一人が 集積回路のワンピットになって、ただもう、与えられた役目をどれだけすばらし くこなすかですからね。心を動かしてはだめです。生産性が落ちますからね。心 はただ一つ、生産の向上を目指すものでなくてはならないのです。向上こそ心の喜びで、ほかの喜びは、みんな偽りの喜びで、惑わされてはならないもの、克己 すべき対象でしかなかったんですから。昔の教育が、技能の伝達と、心を殺すこ とを目的としていたのも自明の理というものですよ。まあ、五十億、六十億の人 間が贅沢に食べていこうというのですから、それは仕方のないことだとは思いますがね。彼らはもう一度そう言う時代に戻そうというわけです。無秩序を説く彼らが、 秩序の時代をです。人間より物が重くなる。彼らはそれが分かってない。今、地 球上四十億の人間が豊かに食べるには、四十億の四十億倍生命を殺し、四十億の 四十億倍心を殺さねばならないのを彼らは少しも理解していない。現に彼らは、 もう人さえ殺している。」 「同感だね。彼らの目指す社会が、過去の自由競争社会であれ、平等社会であれ、 人類の三分の二は飢えなくてはならない。まして、彼らのいう、原始共産社会と なると、お話にもならない。それでは地球上で、せいぜい数十万の人間しか生きていけない。」
「その通りです。そして、生き残った者は、皆生産の奴隷に陥ってしまう。精神 の死ですよ。」
「歴史を後退させたがるのは老人と決まっていたものだがね。若者が前の社会が いいというのは悲しいね。まあ、歴史はいつも進歩しているからね。後退するこ とはかってなかったし、今後もないでしょう。」
 シモーンは、いらいらしながら、そのやりとりを聞いている。イーシャは、そ の脇で眠ってしまった。
「ノンティーチングですからね。」
 一人がまた言う。ほかの人たちも、ああそうか、そうだったっけと、あきらめの表情になる。
 アナウンサーが大写しになり、紙を読み上げ出す。
「ただ今入りましたニュースをお伝えいたします。逃亡していた容疑者の一人 が逮捕されました。これで、逮捕されたのは四名になります。逮捕に当たり、又 何名かの負傷者が出た模様です。それでは現場から中継いたします。」
 画面が変わった。雨の中で、人がごった返している。担架に乗せられた男の姿 が横切っていく。血の気のない顔は、ぴくりとも動かない。
 シモーンは思わず身を乗り出す。違う。シフスではない。ふうっと息を吐き、 ソファーにもたれ込む。
 画面は、負傷した警察官なのだろう、運ばれていく人々を映す。
「こういう残虐な行為が行われて良いものでしょうか。警官は、麻酔銃しか所持 しておりません。無防備といっても過言ではありません。それを、容疑者たちは 平気で撃っています。私は涙と怒りなしにこの現実を語ることが出来ません。」
「今回に限り、警察隊にも銃を持たせるべきだと私は思いますね。」
 スタジオの一人が言う。
「私も同意見です。彼らは人間じゃない。犬畜生ですよ。」
「それは少し言い過ぎでしょう。」
「いや、それでも足りない位だよ。犬は人を殺さないが。あいつらは平気で人を 殺しやがる。」
「そう言えばそうだが。」
「あなたは彼らの肩を持つ気ですか。」
「そういうわけじゃ。」
「殺された若者は、これから何十年も生きていけたはずなんですよ。もう二度と 太陽の下を走れないんですよ。緑の木陰で、友と語り合うこともないんですよ。 あるのは暗闇だけ。永遠に暗闇だけなんですよ。命を奪うことは、誰にだって、 どんな理由があったって許されないことですよ。」

 画面がパッとアナウンサーに変わった。
「先ほどよりお伝えしているとおり、彼らはかなりの武器を所持しております。 現在逃亡しております人数も、二十人とも、三十人とも伝えられております。程 なく警察によって逮捕されることとは思いますが。ニューヨーク、及びその周辺 の方は厳重な警戒を心がけてください。」
「なお、彼らの逃走経路など、判明次第お知らせいたします。又彼らを見かけた 方は、至急、警察までご一報ください。」

 シフスはどこにいるのか。もう捕まったのか、逃亡しているのか、それとも、 全く関係ないのか。最後であればとシモーンは願う。だがこの前帰って来たとき に感じた訳の分からない恐怖がそれを否定している。
「どうして。シフス。」
 シモーンの唇は色を失いふるえている。
 シモーンは何度か躊躇した後、やっとの思いでシフスの電話ボタンを押す。呼 び出し音がなっている。でない。留守番の応答もない。シモーンは待つ。じっと、 待つ。

  「彼らは、どこから武器を手に入れたのですかね。武器という武器は、もう何十 年も前に、すべて破壊されたはずでしょ。それ以後製造する必要のある人間はい なかったのだし。第一製造するための工場や機械だって世界からなくなったはず でしょ。」
「いや、核爆弾を造っていたんですよ。」
「そこなんだよ、不思議なのは、彼らはノンティーチングの集団だろ。いかに古 典的な兵器とはいえ、かなりの知識と技術がなくちゃ出来ない相談だぜ。」
「何人かは、ティーチングがいるのかも。」
「いや、武器に関するいっさいの知識はティーチングされてないはずだろ。」
「そうか。ノンティーチングだからできるのか。」
 シモーンは諦めて電話を切る。
「というと。」
「いや、知っての通り、私らティーチングは、様々な知識を膨大に知ってはいるが、 個人の幸福を否定するものだけはいっさい省かれているだろ。特に、暴力や破壊に 関するものは、念入りに吟味されて省かれている。それだけではなく、そういった、 平和、幸福に関する知的レベルのインプットが感性にまで作用して、反社会的な行為に嫌悪を持つようにさえなっている。」
「そうなんだ、彼らには、暴力や、破壊を否とする知識教養がない。」
「すると、武器も自分たちで造ったわけか。」
「たぶん。核は信じられないが。」
「にしてもな。」
「だから、全員、強制してでもティーチングすべきだったんですよ。」
「しかし。」
 画面の男たちは、黙り込む。その言葉が呼び起こした恐怖をかみしめる。

「現場からです。」
 アナウンサーが叫ぶ。
「ただ今はいった情報によりますと。地下駐車場を作り替えて、武器製造工場にしていた模様です。しかも、重水のタンクが発見されたとのことです。つくりかけの も含めて、三発の爆弾が発見されていますが、これらは水爆の可能性が高いという ことです。このほかにも、製造されて、運び出された可能性もあります。そうでな ければ良いのですが。」
「少々お待ちください。ただ今入りましたニュースによりますと、警察隊の中から 二人めの死者が出たとのことです。アコビ、ブルージェ、二十四歳です。最初の突 入の歳の負傷者です。冥福をお祈りいたします。」
 アナウンサーは目を閉じた。
「逃亡中の容疑者は、依然として行方がつかめておりません。追跡車、 追跡機を使ってその後を追っていますが、彼らの武器に対抗するものがなく、追跡 は困難を極めています。」
 画面に、死んだ警察官の生前の顔が映っている。その、まだあどけなさ一杯の笑 っている顔を、シモーンは見つめている。

(6章の2おわり、7章の1に続く


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『妹空並刻』