空いっぱいに蝉時雨第5章の3
   それから十日ほどして、イーシャは目を動かした。
「動いた。」
 シモーンの顔にパッと喜びが広がる。イーシャの顔の上で、手をゆっ くりと左右に動かしてみる。目は確かに手を追っている。
「イーシャ起きたの。聞こえる。」
 のぞき込みながら言う。イーシャの目が動き、シモーンの顔をとらえる。だが視線はすぐ流れた。
「イーシャ、わかったのね。よかった。長い間眠ってたのよ。」
 シモーンは話し続ける。赤ん坊をあやすように。だが、イーシャは笑 い返さない。

 モヒナは、毎日やってきた。来ても別に何もする事がないので脇に腰掛けているだけだ。はじめの頃、手を握ったり話しかけたりしたのだが、 イーシャがなんの反応もしないので、諦めてしまった。それでも毎日一 度は顔を出す。来たところで、イーシャにわかる訳でもないのだが、シ モーンは断れない。治る見込みのない病人より、新しい人生を探したら と何度か言おうとして、そのたびに、何となくイーシャが不憫になって 言えないでしまう。

 日はそれでも過ぎていく。シモーンは、できるだけ自分の生活を取り 戻すようにつとめる。だが、温室に入っても何一つ手が着かない。そこ にただ、あるだけになってしまった。手入れも、もうずーっと自動にな ったままだ。一日中家にいて、誰とも話さない日が普通になってしまっ た。 そういえば、モヒナの足もいつの間にか遠のいた。シモーンは、 すこしほっとしている。いかに恋人といっても、ずいぶん元気になった イーシャの、ただ意味もなく笑ったり、奇声を発したりするのを見られ るのは嫌だった。それに、誰であれ、人に会うのがひどくおっくうだっ た。
 こんなふうになるのはよくない傾向だと思う。思ってはいるのだが、 何をしてもどうしようもないという感じが勝ってしまう。
 エイサがいれば少しは楽しいかしらとちらっと思うこともあるのだが アフリカのどこかを走っているだろうエイサを探し出して電話をする気力もない。   

(5章の3おわり、6章のに1続く


semi5-2 5章の2へ

アンケート アンケート

go to home
蝉時雨目次へ




(C) 1996-1997
written by
『妹空並刻』