空いっぱいに蝉時雨第4章の2
   病院が完全に自動化された後も、シモーンは何回か決められた日に出か けたが、何もする事がないのでそのうち行かなくなった。頼むという言葉 が引っかかりではあったが、音もなく動く看護ロボットの間で働く不安に は耐えられなかった。

   不安はじりじり浸透していた。当事者の周りや病院から、まだその病気 とは直接関係のない人達の間にもひそひそ声でじわりと広がっていった。
 今、平安が一番守りがたいものになった。ついこの前まで、誰がこんな 事態を想像したろう。快楽と永遠の命を求めていた人たちが、今は、いつ 訪れるかもしれない感性の死の影に怯えている。古今東西、森羅万象を知 り尽くした人たちの足下が腐り始めている。

   そろそろ夏も終わりの頃、連邦政府より長ったらしい発表があった。何日も前から放送の予告がされ、否応なく重苦しい雰囲気をかき立てていた。
 誰もがその予告が遅すぎると思っていた。そして、誰もが、治療法の発見、いや、そこまでいかなくても、せめて、予防法の発見の知らせであればと願った
 シモーンも、イーシャと一緒にそれを見た。こんなときこそ,そばにいて欲しいのにエイサは旅に出たままだっ た。
 全世界の人々という人々がそれを見ただろう。エイサ達の帰還の比ではない。そのくせ、こんなに面白味のない映像もまたとなかった。アナウン サーがしゃべっているだけ。ただそれだけだった。同時通訳の、人の声よ りも美しいと定評のある中性的な人工音声が淡々とそれを訳していく。
 症状のこと、原因のこと、予防のこと、治療のこと。あらゆる公機関は 事実を故意に偽ったり、歪曲したり、粉飾したりしてはならないという、 公開の原則の手本だと言わんばかりだ。
 そりゃ、本当のことがわからないと解決しないことはわかるけど。シモ ーンは思う。原因がティーチングらしいことで、誰もがいつ発病しても不思議でないことや、予防法や治療法が見当もつかないことや、発症者が既 に人類の八パーセントに達していることなどを聞いたところで何の助けにもならないのに。
 シモーンはイーシャをちらりと見やる。イーシャはじっと画像を見てい る。シモーンは目をそらす。
 今まで、一度もこのことで、イーシャと話し合ったことがないことを思 う。言いそびれて、いつの間にか今日まできてしまったことが心苦しい。
 アナウンスは、現在まで行われた治療と研究の報告を延々と行ってい る。しかし、どれも最後にノンとつくのは、シモーンがこの病気のことを 知ったときとひとつも変わらない。ただ、めったやたらといろいろの治療 や、研究が行われているのだけが違う。
 シモーンはまたイーシャを見る。
 イーシャには、この難しい言葉も難なく理解できるのだろう。同時通訳 など本当は彼には不必要なことなのだろう。何だってわかる。そのために イーシャは病んでいる。  万が一発病したときには、アナウンスは続く。公の病院や、個人の介護設備の案内が続いた。シモーンは記録しようと思ったがやめた。イーシャ の前でそれはできなかった。

 人々の反応は様々だった。放送された内容の大半は、既に噂となって流 れていたものだが、噂が呼んだデマ以上の恐慌を引き起こした。
 まず、ティーチングマシーンが破壊された。それから、端末機が。
 自殺、殺人、放火、ここ何十年と発生しなかった犯罪が日常化していっ た。どこから持ち出したのか、爆弾さえ炸裂した。
 南極の地下深くにあるという、中枢コンピューターを破壊しようというグループさえあるという噂さえあった。
 しかし、時とともに混乱は終息していった。端末機を破壊すれば、即飲 み水にも事欠いた。人々は、改めて、自分たちの生活がコンピューターに 完全に依存しているのを思い知らされた。闘う相手がいなかった。破壊し たコンピューターの前で、それが修復されるのを飲まず食わずで見守って いては、もう一度それを壊す気にはなれなかった。
 頭を使わないこと、ストレスをさけることが今考えられる唯一の予防法 だという。一年、長くて二年、発病から逃れられれば何とかなるだろう。 そうすれば治療法も確立するだろう。人々はそう信じようとした。現在の科学で、ひとつの病気の治療法を見つけるのに、二年は有り余る時間だ。 そこまで生き残れば。

 イーシャもまた不安と闘っていた。シモーンにはなすすべがなかった。イ ーシャの顔と同じように、シモーンの顔からも笑いが消えた。

 シモーンは以前の病院を利用して、できる限りの情報を集めた。だが、 どれもほかと変わらず、悲観的なものばかりだった。

 はじめ、人目に付かないところに建てていた突発性脳神経麻痺専用の病院も、今はどこにでも建っていた。患者も、既に十パーセントを越えたという。
 家庭用の自動システムも至る所で目に付いた。全自動の部屋と、看護ロ ボットが一台セットになっている。電話をして、設備が完成するまで、二 日とかからない。

 ある日、すぐ近くに病院が建つ。ある日、隣の家に、小さな部屋がくっ つけられる。人々は、もう噂する事さえしない。

(4章の2おわり、5章の1に続く


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『妹空並刻』