空いっぱいに蝉時雨第4章の1
   エイサは飛び歩いていた。まるで鼻歌混じりだ。長い間、野心と研究の 中で生きてきた反動か、それとも昔のシモーンのように、ただ若さだけなのか、エイサはしょっちゅう旅に出ていた。グループの時もあるし、一人 の時もあった。時にはシモーンの知らない女性と行くときもあったようだ。 二三日で帰ってくるときもあれば、二週間ほども音沙汰のない時もあった。 疲れた顔で帰ってくるときもあったが、大概は、楽しそうに旅の話をした。
 はじめの頃、何度かシモーンは誘われたのだが、それとなく断った。イ ーシャのことが気にかかっていた。事情を話してもよかったのだが、なん となく話しそびれた。
 エイサは、何度か誘った後、諦めた。

 シモーンは、毎日温室にはいる。夏咲きのカトレアがいくつか咲いてい るほかは、みんな緑だ。エイサと交配した蘭の実が大きくなった。

 ある日、イーシャがだめだったと作り笑いをしながらシモーンに一枚の紙を渡した。題目やら、日付やら、登録番号やら、やけに仰々しく並んだ 後に、不採用、とただそれだけ。
 ほかにもっと書きようがあるだろうに。シモーンは腹立たしい。あんな に毎日トレーニングに通っていたのに。
「いつテスト受けたの。」
「ううん、書類選考だけ。」
「そう。」
「どうしてだめだったんだろう。」
「補充って二三人だけなんでしょ。そこに世界中から申し込んだら、はい るほうが不思議よ。」
「そりゃそうだけど。テストくらい受けさせてくれてもいいと思うんだけどな。」
「そうね。」
「まいいや、次の機会もあるだろうし。」
「そのうち次から次になるわよ。」
「でも、変なのはさ、搭乗員のほとんどが入れ替わるって噂なんだ。一人 残らずって言う人もいるんだよ。決まってから二年くらいだよ。それで全 員入れ替えるなんて。そりゃ中には、気が変わる人が何人かいてもおかしくないよ。でも候補者は何人もいるはずだし。それが全員というのは、き っと何かあるんだよ。」
「そうね。でもそれ噂なんでしょ。」
 エイサが部屋から降りてきた。エイサは最近あまり旅に出なくなってい た。町はこのごろどこも変に殺伐としているとエイサはいう。特にその国の言葉が使えないと殺気さえ感じるという。それに、ほかにちょっと大きな計画もあるし、と。
 しばらくなんとなくほかの話になる。
「どうやって選ぶのかね。」
 蒸し返された話にエイサが割り込む。
「俺たちの頃は、学者であればかなり優遇されたがね。今はみんな学者よ り偉いんだから。」
「最終選考では、かなり厳しいテストがあるんだって。一月くらい泊まり 込みで、生活全体の適応を見るみたい。」
「人間性と、体力って訳か。」
「そうみたいです。それに、精神力とか。」
「精神力か。もう縁がないな。」
 エイサも、自分のことを思いだしているのかも知れない。
「でも、それからがほんとの選考だって聞いたんですよ。何年もかけて選 りすぐった人たちを決めていくって。帰ってきたとき、地球がない可能性 があるでしょ。帰れないかもしれないし。どこかの星で生きていかなくっ ちゃならないかもしれないし。」
「すると、その星の新しい人類の始まりになるわけだ。下手すると、何百億、何千億の連綿と続く人類のご先祖様になるわけだ。まるで神話だね、 ノアの箱舟とかいう。知ってる。」
「ええ、知ってます。だから、偏らないように、いろいろな人種から選ん でいるし、いろんな生物の遺伝子も保存していくみたいです。」
「ひょう、人種か。そんなものがまだこの世に存在していたか。」
「いえ、偏見ではなく、科学的に。遺伝子の多様性が必要でしょ。」
 イーシャは慌てて弁解する。
「強い精神力。強い体力。協調性。すばらしい知性と教養。」
 エイサは自嘲気味に言う。昔のことをそういう風に思い出すのはよくな い傾向だと、この前までなら、シモーンは心配しただろう。
「そういえばおかしいですよね。今補充しても訓練も何もする時間がない のに。訓練の中で、勝ち残っていく人たちを選んでいくこともできないだろうし」
 イーシャは、今までその事を考えもしなかったことを不思議がる。
 シモーンは何も言わない。シモーンはその原因が突発性脳神経麻痺だろ うと思っていることを。この家ではなぜかまだシモーンだけしか不安に怯えては いなかった。

 しばらくの間、イーシャはぼんやり家ですごしていた。トレーニングへ も行かなくなった。モヒナととだけはときどき逢っているようだった。
 毎夕、西の空には、金星よりも明るく、イーシャの乗りたがっていたロ ケット、クェーサーが輝いた。イーシャは、時々望遠鏡でそれを見る。
 エイサは久しぶりにまた旅に出た。  

(4章の1おわり、4章の2に続く


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『妹空並刻』