ある日、シモーンは院長に呼ばれた。院長はひどく疲れた顔をしていた。 無精髭さえ生えている。いつも身だしなみがよく、長身の身体をピシッとスーツで包み、髪の毛一筋乱さず、いわゆる石鹸の匂いのするような人というイメージがあっただけに、驚きはひとしおだった。発病。シモーンは 一瞬そう思った。
「とても頼みづらいことなんだが。」
彼は迷いまよい話出す。あの、自信に満ち、揺るがぬ男が。
「もちろん、今から話すことは、断られて当然だし、断るのがあなたの権利であるのだから。」
院長は口ごもる。
「実は、就業時間の延長をお願いしたいのです。いえ、こんなことを頼む のが間違っているのはわかっています。ただ、現在の病院の状態からいう と、ほかに方法がなくて。ほんと、気違いざたです。秩序も何もあったも のじゃない。」
シモーンは、その内容より,話し方に驚く。確かに、この一ヶ月、病院 は、もう、その体を備えていなかった。一人部屋にさえ三人の患者がいた。 今まで、嫌な匂いなどしたことのない病院が、様々な匂いに満ちている。
今までは、五十人の患者と、百人の医師と、三百人の看護士で構成されていた。今は、患者はおそらく二百人は越えているだろう。しかも世話す る人は減り続けている。 毎日、新しい患者が入り、退院するものはいない。
「昨日、ネーションさんもやられました。突発性脳神経麻痺です。」
シモーンは息をのむ。シモーンより少し若い。いつもにこにこして,気 さくな医師だった。
「うちの病院だけで、もう二十人目ですよ。それなのにまるで打つ手がないなんて。神経の専門の病院がですよ。」
「いや失礼。それで悪いことは重々承知で調べさせてもらいました。ティ ーチングのことなのです。」
「悪く取らないでください。してはならないことはしっています。いつ、 どこで、誰がやられるかわからないんです。何人生き残れるか。おそらく。 いや止しましょう。きっと方法があるはずです。これだけの科学を誇って いるんです。きっと。」
院長はデスクに目を向けたまま話す。目はかつてのように、シモーンを見ることもない。
「頼れるのはあなただけなのです。この病院でも、こんなに人がいて、ティ ーチングしてないのはあなただけです。治療法が確立すれば、この埋め合 わせはします。いや、ええ、たぶん私には無理です。でも、ちゃんと記録として残しておきます。」
「それで、」
院長は切り出しにくそうに言う。
国は、個人は幸福を追求する権利を有し、国は、これを、完全に保証しなければならない、という単純な原則に基づいて動いていた。もちろんそんなことは、つい百年ほど前にもどこの国の憲法にものっていたことなのだが。ただ違っていたのは、今はそれが実際に運用されて機能しているこ とだ。
かつて、人々は、自由、夢の実現、その言葉に信頼を置いて生きていた。夢を実現したものは御殿に、 敗北者はスラムに住んだ、無能力者、あるいは怠け者と言われて。そして 大多数の人々が、働き働き働いた。自分の、父母の、子供の幸福のために。 その幸福を守るために、戦えと。それこそ正義だと。 軽く指を触れるだ けで、百万人、うまくすれば一千万人の人々を溶かしてしまうことの出来 る武器の前に座って、彼らがどんな父母の幸福や、正義を守ろうとしてい たのか,今になっては考え及びもしないが。
しかし、正義や、徳という言葉がもはや死語になって久しくても、その 言葉が、多くの、血や涙を飲み干したことはまだ語り継がれていた。正義 が必ず勝ったのではなく、勝った者が必ず正義だったのだから、正義には いつも血の匂いが付きまとうのは当然の理だった。そして、今、世界から 貨幣がなくなったと同時に、正義も戦争もなくなった。正義の使者も,英 雄も金の卵を生む鶏に過ぎない。笑うのは飼い主だけだということに、人々はやっと気づいた。
個人の自由を狭める結果になることを、公が口にしてはならないのを院長ももちろん知っていただろう。その理由が道徳であることは厳に戒めな くてはならないことを。それでも、彼は言わなくてはいられなかったのだろう。それでは、ひとつの不幸を、他の人に転嫁するだけにしかならない ことを知ってはいても。
「後半日を二回彼らのために出てやってくださいませんか。」
シモーンは下を向いている。シモーンが顔を上げると、それまでシモー ンを見ていたのだろう目がすっとそれた。
「それは、してはならないことですから。」
シモーンは、机に手をついて、まるで頭を下げているような院長の頬を見ながらしっかりとした声で言う。
「そうでした、そうでした。私としたことが申し訳ないことを言ってしま いました。断っても、承諾しても損をするのはあなたで、私じゃないですからね。」
院長は慌てたようにおどおど言う。
「機械の力は出来るだけ借りたくなかったものですから。人は、人によっ て生きていかなくてはならないと思いますから。特に、彼らのように、自 ら選択できない人たちは機械に任せられないんです。人生が、自分と機械 だけになってしまいますからね。それじゃ、ただ命があるだけですからね。 どんな形であれ、人生は人と人との関係でなくてはならないと思いません か。」
「その事は、おっしゃるとおりです。私もそう思ったからこそ今までやっ てきたのですから。でも、今度の場合,私が後二日出たところで、何一つ よくはならないような気がするんです。そうやって、いろんな人が二日よ けいに出たところで、問題は何一つ解決しないような気がするんです。た だ先送りして、あなたも私も苦しんで、いよいよにっちもさっちもいかな くなってしまうような気がしませんか。」
「ああ、そうですね。そうです。おっしゃるとおりです。信念というやつは、どう も臨機応変の処置を鈍らせますな。」
「足りないところは機械に任せましょう。」
院長は立ち上がった。
「申し訳ないことを言ってしまいました。この事態を何とか乗り切りたか ったものですから、つい考えもなしに、馬鹿なことをお願いしてしまいま した。」
「人類の、マンモスの牙は、どうも、核兵器でも化学兵器でもなかったよ うですな。人類の滅びの牙は、ティーチングマシーンのようですな。マン モスと同じく、進歩への希求そのものだったようです。」
院長は手を差しだした。シモーンも、ふっとその手を握る。初めてのこ とだ。
「ノンティーチングだからだけではないんです。あなただからお願いした かったんです。」
「もしもの時はお願いします。ここのボタンを押すだけでいいです。」
院長はそう言って手を離す。シモーンは軽く礼をして部屋を出た。
シモーンは、院長の気持ちを推し量っている余裕はなかった。
「誰もがいずれ発病する。院長はそう思っている。院長はそれを隠してい る。イーシャが。」
(3章の3おわり、3章の4に続く)