空いっぱいに蝉時雨第2章の5
   「そうな,光になったという感覚はなかったな。僕なんかそっちの ことは門外漢だからわからなかったけれど、光の衝撃はみたいなのが あって、機体が瞬間的に蒸発するんじゃないかとかさ、身体が光の粒子になってしまうんじゃないかとか、行く前は少しは心配してたんだ。 だけど、乗ってしまったら、地球の重力と同じ推進力で飛んでるだろ、飛んでる感じすらないんだ。ほら、地球だって秒速二百五十キロかなんかで銀河を回ってるって云うだろ、それを実感できないのと同じようなものだ、きっと。そのうち忘れてて、気がついたら光速って訳だ。案 内があって、そうか、ってくらいでね。」
 エイサが、何ヶ月ぶりかでイーシャと話している。シモーンも脇に座っている。
「びっくりしたのは、地球へ帰ってからだね。一応は解ってはいたん だけどね。」
「君のお母さんより、私の方が年上だとはとても信じられないだろ。」
「あのとき子供がいたら、僕の方が年下になっていたろうな。」
 エイサはシモーンをちらっと見る。
「そうですね。」
 イーシャはただ相づちのための相づちを打つ。
「でも、そうやって本当は、時を越えたのでなくても、そうやって現象面で時を飛び越えられるのはおもしろいと思いませんか。人類が今後どうなるかとか、次代の地球の支配者はどんな生物かとか、その気 になれば自分で確かめられそうじゃないですか。ほんと、哺乳類の次 ってどんな生物が出現するんでしょうね。」
 イーシャらしいとシモーンは思う。エイサの言う人間のごたごたにはいっこうに気づかない。
「うん、それは可能かもしれないね。だけど誰もい ないんだぜ。耐えられるかな。僕なんかには絶対無理だな。」
 エイサはもう大丈夫だとシモーンは思う。
「でしょうね。いざそういう旅に出るとしたら怖いでしょうね。」
「自分の知った人や、町があるから帰ってくるのだし、それでさえ耐えられなかったのだから。」
 エイサはふっと自分の考えの中に沈む。シモーンはその顔を見つめ る。
「誰もいない方が楽かな。」
 ぽつりと続ける。
「見てみたいと思いませんか。不可能だけど。宇宙の終焉とかそうい うこと。光の何乗倍ものスピードで宇宙が縮んで、宇宙全体がまち針の先ほどになって、それから、ふっと消えてしまう。それをロケット に腰掛けて見てるんです。後はもう何もない。もう、まるっきり、ど こまでも何もない。闇だけ、いや、闇さえもないのか。」
「怖いね。」
 シモーンは、黙って二人の話を聞いている。昔、どこかで聞いたこ とがあるような気がする。
「昔、文字をまだ人間が書いたりしてた、その始まりの頃、時よ止ま れと書いた人がいましたね。老人だった主人公が、もう一度若返って 人生をやり直す話です。人生の満足と、魂を交換する話だったかな。 満足したときに、この時よ止まれと言うわけです。すると、悪魔が魂 を持っていくという段取り。」
「で、最後は、結局今に満足したのじゃなくて、美しい瞬間を夢見て かなんかで、この時よ止まれって言うのかな。それとは、違うんだけ ど、その、時よ止まれっていうのがいい感じで、ずっと覚えてるんで す。」
「いくら人生をやり直しても時が動いているうちは、みんな過ぎてい ってしまう。ぼやけて消えてしまう。いくら覚えていてもそれはもう 覚えているだけにすぎない。今この瞬間が、一瞬一瞬無の中に消えて いくのが耐えられない。時よ止まれです。なら、い っそのこと,自分では、絶対に見られないはずの世界、本当は、死ん でしまっているはずの,何十億年後の世界が見てみたい気がするんで す。」
 シモーンはイーシャを見る。子供にしか話せない話。そんなふうに感じる母には話せない話。おとぎ話は、それを信じる人の中にしか生 きてはいない。そして、誰も、自分のおとぎ話の共有者を探しまわっ ている。
「怖いです。でも、絶対に見られない未来を見てみたいですね。自分 が本当は死んだ後に来るだろう未来を知りたいです。ずっと、永遠の先まで。」
 イーシャにも眠られぬ夜があったのだとシモーンは思う。
「そうな。もし勇気があったなら。」
 エイサはその後は言わない。シモーンは少し不安げにエイサを見る。 そういう話はまだエイサには危険なような気がする。
「一億年たったら、大陸だってまるっきり違った形をしているだろう し、チョモランマが海底に沈んでいることだって充分可能な時間です から。」 「五十年に一種の割で変化しても、二百万の種が絶滅して、代わりに 二百万の種が生まれてるんですから。本当はもっとはるかに早い割で 変化してますから、地球上のいまいるすべての種が絶滅して、まるっ きり新しい種ばかりになってますね。もちろん人も。たとえば、鳥 は、今は恐竜から変化したものばかりですよね。それが絶滅して、 哺乳類から変化した鳥ばかりになってますよ。きっと。」
「ふうん、するとおっぱいぶら下げて飛んでるわけだ。」
 シモーンは冗談を言うエイサを見た。そしてほっとした顔になる。
「まあ、そういうことです。」
「でも、ぶら下げるほどにはならないと思いますね。飛ばなければな らないから。第一胸が大きいのは、人間と牛くらいなものでしょ。特殊なんですよきっと。まあ、そのときは、おそらく、哺乳類は地球の片隅にもいないでしょうけど。」
「やはりそうなるか。」
「ものの順序では。」
 二人はちょっと黙り込む。
「ノアの箱舟の話知ってますか。」
 イーシャが唐突に言う。
「あのようなことをもう一度やろうというのがコスモムーンという計画なんです。」
「コスモムーン。」
「ええ、さっき話した、銀河を飛び出す話。」
「宇宙を調べる目的もあるわけですが、本当のところは、人類を存続 させようとする夢なんです。どんなに頑張ったところで、生命の変化 から逃れられないですから。持って百万年ですか。百万年というと、 類人猿からヒトの間ですよね。ヒトから何かになっても充分な時間です。一千万年たつと、ヒト科ヒト属なんて化石でしか存在しないでしょ うね。だから、それを跳び越えるわけです。一億年先か、二億年先か 解らないけど、もう一度そこへヒト科ヒト属をつなぐわけです。」
「へえ。」
「原始社会みたいに、百人前後が乗り組むみたいです。ノアの箱舟のように、男女一組では滅びてしまいますから。」
「それで、君も乗り込みたいと思っているわけ。」
「僕が。」
 イーシャはちらっとシモーンを見る。刺繍をしていたシモーンも顔 を上げた。イーシャは慌てて目をそらす。
「興味はあります。行ってみたいですね。でも、まだまだここが好き だから。」
 シモーンは、また刺繍に目を落とす。そして、忘れてしまった目を 数え直す。ずっと、以前から、そして、これからも変わらずにそんな 夕べが続いているとでもいうように。
 若い頃、世界を飛び歩いていたことも忘れ、ついこの前まで、エイ サの病気に疲れ果てていたことさえ忘れたかのように二人の話を聞い ている。
 若い頃なら、とてもじっとしていられなかったろう。
 シモーンはもう多くを望まない。
  

(2章の5おわり、3章の1に続く


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『妹空並刻』