空いっぱいに蝉時雨第2章の3
 シモーンはそういう患者に何をしてやっていいか解らない。ただ、身の回りの世話をしてやり、とりとめもなく話しかけたりして、半日そばにつ いていてやる。それだけ。
 彼らの大半は、周りになんの反応も示さない。時折、口の中でぶつぶつ言うことはあるが、ほとんど黙って座り込んでいる。

 その仕事について間もない頃,一人の患者を治そうとして必死で病院へ 通ったことがあった。そのためかどうか、その患者が話をし出したことが あった。シモーンが行くと、ぱっと、目に喜びの色さえ浮かべるようにな った。治るかもしれないと思った矢先、その青年は自殺してしまった。
 シモーンは、ずいぶん長く、その事から立ち直れなかった。

 シモーンは、今は患者に手を出さない。ただ静かに患者を見守るだけに している。
 この人たちは、人生なんかひとつも好きじゃないんだとシモーンは思う。 だから、身体が死ぬまで、静かに眠っていることに決めたのだろうと。

 エイサもそうだ。日毎に無気力になり。最近では、ほとんど何にも興味を 示さなくなっている。それでも、病院へ連れていこうという考えは浮かばな かった。
 そして、エイサは言葉を失った。

 それから二週間ほどして、シモーンは介護ロボットを手に入れると、また 働きに出た。こんな時はほっておいても何も悪いことは起こらない。良くも ならないけれど。
 この2ヶ月ほどで、シモーンはすっかり疲れてしまっていた。なんでもいい、外の空気が無性に吸ってみたかった。

 シモーンが休んでいる間に、病院には新しい患者が来ていた。
 元気になった患者が出ていき、日々新しい患者が入ってくるのは日常なの だが。その患者はどことなく変わっていた。
 シモーンを見るとにこにこ笑ったり、ひどく多動で、感情の起伏が激しか ったり、言葉が無く、ただ意味のない音声を上げるだけだったり、ボタンひと つかけられないことなど、どれをとっても別に普通の病人なのだが、なぜか違うにおいがした。
「簡単にいえば、大脳が麻痺している状態だね。」
と医者は言った。
「原因はなんなんですか。」
「一種の脳炎らしい。急に高熱が出て、それが二週間ほど続いて、こうなるら しい。」
「ほかにも同じ患者さんいらっしゃるんですか。」
「ああ、ここでは初めてだけど、かなり以前からね。」
「新種のウイルス病だと私たちも高をくくっていたんだけどね。どうもウイルスではないみたいなんだ。ウイルスが見つからないんだ。感染もしない。世界中どこでも単発的に発生している。ウイルスならば三日とかからず予防薬を作 ってみせるのだが。」
その、二十歳そこそこだろう患者を診ながら医者は話す。
「こうやって、隔離を解かれて開放病院へやってきたということは、いよいよ ウイルスではないということだね。」
「君はティーチングしてないんだったね。」
 医師は唐突に言う。
「ええ。」
「しばらくは、受けない方がいいよ。」
 そして、口が滑ったという風に少し慌てて行きかける。
「もうしばらくの間人には話さないでください。憶測だけだから。こんなことを皆が知ったら、大変なことになる。」
 最後の方は独り言のように言うと、足早に行ってしまった。

 その患者が、それまでの患者と違うのを感じたのは、次の出勤の時のこと だった。
 その患者が突然抱きついてきた。そういう風に積極的な行動に出られるのは 今までの患者にはあまりないことだった。
 シモーンは介護ロボットを呼ぶ。しかしそれより早く職員が駆けつけてき た。
 院長は、彼の行動様式について説明する。普段は何事もなくにこにこしてい るが、ときおり性行動に走るらしい。ところが自分では服を脱いだり脱がせた りできないから、帰って乱暴になる。そんな趣旨だった。
 服を脱がされたらどうするのと、シモーンは冗談ぽく思う。
「現実にここでこんなことが起こるとは思ってもみなかったので。」
と、院長は口ごもる。
「何しろ初めての患者なもので。あなたが一番適任と思えたので。」
 シモーンは聞き流す。それよりも、この前医者が言いかけたことが気になっ ている。
「原因はティーチングなのですか。」
「難しいところでね。らしいとは言われているのだが、まだ確証出来ないでいるんだ。コンピューターがその事を判断しないらしい。私もやってみたんだが 、あの拒否の仕方は意志を持ってしているような感じさえするくらいだね。」
「メーンコンピューターがですか。」
「そう。」
「なぜ。」
「解らない。」
「解らない。だから、今あるデーターは、みんな私たちどうしが直接やり取り したものだけなのです。」
「では、まだ確実にそうだということは解ってはいないんですね。」
「そう。だけど、はっきりとは言えないけれど、その可能性が大だと私は思う ね。杞憂であればと私も願ってますよ。だけどもね。」
「思うに、あれは脳の、そう、 言えば、脳のオーバーヒートだね。言語中枢を 中心に、大脳皮質がやられてる。ほかは正常そのものだ。」
「じゃ、誰もがああなるわけなんですか。」
「可能性はあるだろうね。だが何ともいえない。とにかくどのコンピューター もこのことについて何ひとつ計算しないからね。すべてのコンピューターは、メーンコンピュー ターに何らかの形で繋がっているから、メーンコンピューターが拒否すれば全部のコンピューターが拒否するってわけです。」
「まあ、現在の所、百万人に一人という人もいますし、十万人に一人という人もいますがね。まあ、自然に生まれてくる脳の機能異常よりは少ないからね。」
 そういうときの医師のポーカーフェイスには慣れている。シモーンは話の中 から事実を読みとろうとする。
 彼女の、三人の子供のうち、イーシャだけがティーチングをうけている。ティー チングの普及率が九十八パーセントを越えたいま、そういう家族も珍しい。
 十万人に一人なら、事故みたいなものだとシモーンは思おうとする。
「くれぐれも内緒にお願いします。このことで皆が混乱する方がかえって危険ですから。いや、すぐ治療法もできるでしょうし。」
「はい、解っております。」
 そう答えながら、シモーンの不安は増す。
 すべてを知る権利をだれも束縛してはならない。それをあえて隠そうとしていることが府に落ちない。そんなことをすれば重罪なのに。どのようなことも一人 一人の責任なのだから、すべてを知らせて一人一人に対処させればいい。何も一 人で責任をとる必要などない。そんなことをしても何一つよくはならないのは彼 も知っているはずなのに。
 よほどのことなのだと、シモーンは思う。

(2章の3おわり、2章の4に続く


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『妹空並刻』