空いっぱいに蝉時雨第2章の1
 シモーンは毎日電話を待った。エイサからはそれっきり連絡はなかった。 思っていたとおりと、シモーンは思う。そのくせ、なぜか自分からは電話が できない。そしてある日何週間ぶりかで、また男の一人に会い、食事をし、 笑いあい、ちょっと楽しい気分で家に帰ると、エイサがいた。
 エイサは、うずくまるようにソファーに座ってイーシャと話していた。シ モーンは最初イーシャの友だちとばかり思って「こんばんは。」と声をかけ た。この前とずいぶん様子が変わっていたので、顔を上げるまで気がつかな かった。
 「エイサ。どうして。連絡くれれば。」
 シモーンはしどろもどろになる。
「いや、ちょっと近くまで来たものだから。」
 エイサは立ち上がると手をちゅうちょしながら差し出す。シモーンは慌ててその手を握った。
「待ってたのよ。ずうっと。」
「ああ。来たかったんだけど。なんだか気分が滅入ってて。」
「知らせてくれれば行ったのに。」
「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと疲れが出ただけだから。」
 シモーンはイーシャの脇に座った。
「ねえ、エイサさんは、トキの乗組員だったんだって。」
 イーシャの目が輝いている。
「そう。素敵でしょう。」
「うん。知り合いなら、もっと早く紹介してくれればいいのに。」
「だって、あなたなんか生まれるずっとずっと以前のことだもの。」
「いや、たったの三年だよ。」
 自信なげにエイサがつぶやく。シモーンはその顔を驚いたように見る。
「今、その話聞かせてもらってたんだ。
「よかったわね。」
 そして、「私にも聞かせてほしいわ。」とエイサに向き直る。
「聞かせるようなものは何もないんだ。行きも帰りも、外は何も見えないし、 光速に近くなると、外の世界と内の世界が断絶するから、宇宙塵を研究するといっ ても,サンプルひとつとれやしないんだ。ダークマターなんて論外さ。何もやるこ とがないってのは、容易じゃないから。」
「でも、まだそのころの方がよかったな。少なくとも目的があったから。帰って来 たらこのざまだ。俺が調べにいったことを子供でも知ってるんだから。なんのため あんなところまで行ったのかばかばかしくて。」
 エイサの前で、手のつけられていないコーヒーが冷めている。
「ああ、悪い。こんな話するつもりじゃなかったんだ。」
「いいのよ、明るいばかりが冒険じゃないわ。」
 どうしたのだろうとシモーンは思う。この前の元気ばかりじゃなく、以前、いつ も前を向いていた覇気も自信もまるでない。
「僕もね、いつか、銀河系の渦を直接みたいと思っているんだ。」
「銀河の渦か。いいな。」
「行くつもりなんだ。」
 言ってしまってから、慌ててシモーンの顔を見る。
「遠いぞ。」
「今のロケットは、もっと光速に近いから、銀河から飛び出したって、そんなに違 わなくなったんだ。」
「そうか。そうだろうな。私の場合は銀河の中をうろうろしていただけだったけど な。」
 それでも、地球は待っていてはくれなかった。駄洒落をひとつ言う間に、地球で は百年のときが流れる。人が生まれ生き、死んでいく。駄洒落ひとつの間に人の一 生が終わる。エイサの頭はぐるぐる回る。俺はもうごめんだ。
「今ね、宇宙の果てまで行くロケットを作っているんだよ。」
「ほう。」
「すごく大きいよ。今だと、夜明けの頃、東の空に見えるよ。」
「宇宙の果てか。」
「準星を調べるとか言う話ですよ。」
「準星か。遠すぎるな。」
「パルサーとか、ブラックホールは今行ってるところなんだよ。」
「帰ってくるまでに、何万年もかかるけど。」
 自分の後からもロケットは飛んだのかと、エイサは感慨に耽る。二三万年ならまだ人は生き続けているだろう。だが、銀河を飛び出して何十億年となるとーー。
「だいたい二十年くらいで往復できるらしいですよ。」
 ロケットの中の時間は止まっても、地球の時間は止められない。帰っても待って いる者のいない宇宙をあてどなく飛び続けるなんて。
 エイサの頭はまたぐらぐらする。
「え。」
「準星まで。」
 二十年か、その間に、億の単位で地球の時が過ぎる。エイサは思う。そして、宇宙の果てで、巨大な、銀河ほどもある準星の脇をかすめるロケットを感じる。宇宙 の果てる間際を、百五十億年もの遠い時間の果てを、ただただ飛び続ける。そこは、 光も、時さえも果てるところ。
 シモーンはエイサを見ている。そうだ、エイサはいつもこんな顔をしていた。シ モーンは思い出す。話しているときにも、ふっと自分の世界に落ち込んでいく。抱 き合っているときでさえそんなことがあった。当時はひどく気になって、泣いたこ とさえあった。そんなしぐさが、かえって懐かしい。シモーンの顔がほころぶ。
「どこまで行っても宇宙の真ん中で、この宇宙から飛び出したり、果てにさえ行き着けないのは、方法が悪いからなんですよね。ビッグバンの時の宇宙の広がり方は、 光速とは関係のない広がり方でしたから。やはりそういった法則を応用したものができないと、と思うんです。時と光りと物質は同じものだと言われてきてたでしょ。 時が光になって、光が物質になったとき,初めて時や光が流れ出し,それぞれに距 離ができ、時間が流れると。でも光りは物質の単に一現象にしかすぎなかったんで す。光りが物質であるならば、あるエネルギーがありさえすれば光りを越えられる のです。」
 エイサには、イーシャの話すことが解らない。ただ、ふうんと聞いている。

 そういうことが多すぎた。宇宙に飛び出す前は、自分が人に教えていた。人はそれをきょとんとして聞いていた。今は自分がきょとんとして聞いている。自分の専 門の星間物質のことでさえそうなのだ。光になった最初の人としてもてはやされた時期が過ぎると、何をどうしていいか解らないうつろな毎日が待っていた。
 学問、それはもう光を失った。あるのは喪失感ばかり。ほかに何もなかった。
 エイサは、そうしてシモーンの所へやってきた。行くところはどこにもなかった。

(2章の1おわり、2章の2に続く
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『妹空並刻』