空いっぱいに蝉時雨1章の8


 家に帰ると,珍しくイーシャがいるようだった。二三度呼んでも返事がないので,そのままシャワー室に行く。それほど潔癖でもないのだが,外から帰るといつもシャワーを浴びる。そのときのほっとした気分が好きだった。
 今に行くと,いつのまにかイーシャが間の悪そうな顔をして座っている。そしてその脇に女の子がちょっと緊張して。
 なんだそうだったのと,ほほえましくなる。
「あら,友達。こんにちは。」
「うん,モヒナ。」
恥ずかしそうに紹介する。今までにも何度か女の子を連れてきたが,恥ずかしそうにしたのは初めてだ。
「母のシモーンです。よろしくね。」
「モヒナーシカ・ティレイです。」
モヒナはぴょこっと立って、ぴょこっとおじぎして、トンと座る。
「ゆっくりしていってね。留守にしていてごめんなさいね。」
 シモーンは澄まして言うそれから,コーヒーでいいと聞きながらテーブルの脇のスイッチを押す。
「スイミングクラブがいっしょなんだ。」
 イーシャが言う。
「すごいんだ。僕なんかよりずっと速いんだ。」
「やだ、そんなことないわよ。」
 モヒナはイーシャの横顔を見つめながら,にこにこ話す。
「いや,ほんと。魚みたいだよ。」
「見てみたいわね,二人が泳いでいるところ。」
 シモーンは自動的に出てきたコーヒーを二人の前に置く。
「どうぞ,熱いうちに。」
「いただきます。」
「わたしね、まだイーシャの泳いでいるところ見たことないのよ。」
「あれ、そうだっけ。」
「見せてくれないのよ。だめだって。」
「今度いらっしゃれば。型がとっても自然で,きれいなんですよ。」
「そう。」
「いいよ。」
 コーヒーを飲み終わるまで雑談した後,二人は外へ出かけていった。シモーンは自分の部屋に引き上げると,椅子に座り込む。
 今日,エイサに逢ったというのに、まだ、そのことをゆっくりと考えているひまがなかった。
 エイサが昔のままに若いということのほかはいい一日だった。再会としては,申し分のない再会だったのかもしれない
 あんなふうに,若いままでなければ,とシモーンは思う。もう一度自分が歳を取っていることにこだわりを感じる。
 シモーンは今すぐにエイサに逢いたいと思う。何もかもが,部屋さえも輝いているようにさえ感じる。何年ぶりだろう,こんな気持ちになったのは。恋人はいても,恋らしい恋はしていなかったのかもしれない。
 シモーンは,ソファーの背を倒す。エイサの顔,エイサのしぐさ,昔のエイサことが少しづつ浮かんでくる。頼りないもどかしさが身体を包む。そのもどかしさの中で,シモーンは夢に沈む。

空いっぱいに蝉時雨1章の8終わり
空いっぱいに蝉時雨2章の1に続く

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