いろいろな検査や、訓練や、学習会などが次々に入って来た。のんびり構えてはいられなくなった。それはまだよかった。大変なのは、イーシャだった。 彼を外へ連れ出すのが一苦労だった。あまりに長く部屋の中だけで過ごしたた めか、外をひどく怖がった。つい無理矢理連れ出そうとする自分に気がついて、 どうしてこんなことまでして、と自分に嫌気がさした。彼の部屋から、居間へ、 居間からベランダへ、ベランダから庭へ、シモーンはゆっくり何日もかけて生活の場を広げていく。
そんなある日、学習会の席で、シモーンは、隣のエイサに小さな声で尋ねた。
「ね、あそこの灰色のシャツの人。何処かであったことない。」
「どこ。」
「あそこ。」とシモーンはこっそり指さす。
「ちょっと顔が見えないな。」
「最初に見たときから気になってるの。」
「昔の恋人かなんかじゃないの。」
エイサは笑って片目をつぶってみせる。
「違うわ。そうならわかるし、向こうだって話しかけてくるはずでしょ。最初、 はっとした顔をして、後は知らんぷりよ。変だと思わない。」
「でも思い出せないんだろ。気のせいだよ。」
「そうね。知ってるなら、もう何回もあってるから思い出してるわね。」
二人は、話しやめてまた退屈な講義に耳を傾ける。ついこの前までなら、一 晩のティーチングで、こんな退屈な話しは聞かなくてすんだろうが、今はそう はいかない。
帰りぎは、建物の外へでると、例の男がいつも一緒の背の高い女性と立ち話 をしていた。
「やっぱり気になるから聞いてみる。」
シモーンはそう言うと、小走りに駆けていった。
「今日は。」
男はびくっと振り向く。シモーンの顔を見て、ふっと笑いを浮かべるのが見 えた。そしてそれもすっと消えた。
シモーンが、話しかけているのが聞こえてくる。日本語がだめなのか、英語 で話しているようだ。
シモーンはすぐにエイサのところへ戻ってきた。
「わかったかい。」
シモーンは首を横に振る。
「あとで。」
シモーンは、それっきりその話にはのらない。シモーンがもう一度その話を したのは家に帰ってからだ。
「きっと、シフスよ。」
シモーンはそう言った。 「顔は変わってるけど、そう。」
(12章の7おわり、エピローグに続く)