話したからか、シフスはずいぶんと落ち着いたようだ。
「なぜ行きたいのか、俺にもよくわからないところだな。たぶん、誰かがスイ ッチを入れたんじゃないかな。さなぎの背中がパチッと割れて蝶が羽化するよ うに、長い生物の流れの中で、やっぱりパチッと進化の枝を別れさせるように、 決められたスイッチが入れられたような気がしてる。」
「怖くない。」
「そりゃ怖いよ。今度は帰れないんだものな。まんがいち帰れても、誰もいないし。たぶん、地球もなくなっているだろうしな。」
「それでも行きたいの。」
「出来たらね。」
「それに、故郷ってのはさ、みんなのいうように、生まれたところばかりではないような気がするしな。カトマンズからやっと出られたとき、とにかく帰ろ うと思ったのはここだったんだ。」
エイサはちょっと言いよどんで、
「ここといっても、場所じゃないよ、シモーンの所へ帰りたかったんだ。」
「エイサ。」
シモーンは言う。
「故郷は、愛してる人と人との間に生まれてくるもんだとわかったんだ。ずっ と旅してて、このまえの宇宙の帰り道からそのこと考えてたような気もする。俺は、それまで、知ることや発見することにばかりかまけてて、それがすべてみたいに思って生きてきただろ。ところが、どこまで行ったって星空ばか りの所にぽつんと浮かんでたら、そんなことがばかばかしくなってな。俺が何を知ろうが、何を発見しようが、みんな無意味に思えてな。おかしくなったのは、本当はその辺りからかもしれん。」
「価値ばかりを追い求めていたのがつくづく空しくなって、それで、アフリカ まで探しに行って。別に、そこにあるとは思ってなかったけどね。」
「あの死にものぐるいの暑さの中で、ああ、俺はシモーンの所へ走っているん だって、ふっと思ったら、あのロケットに乗ったときから、君の所へ帰るため だけに旅してきたような気がしてきたんだ。あのときはまだはっきりとはわかっていなかったけどね。」
「それなのに、どうしてまた出かけるの。」
「わからない。それがわからない。君の所へ帰るためかな。」
「そうじゃないわ。あなたは新しいものを求めて飛び出したいだけなの。子供みたいに。夕方になっておなかがすくと、帰るところを思い出すのよ。」
「そうかな。そうかもしれない。」
「そうよ。でも、今度は帰れないのよ。」
「そう、」と、エイサは話す。そして、その眼が久しぶりに光るのをシモーン は見る。
ーまた宇宙塵を集めて分析する。ここからじゃ、点にも見えない星ぼしが、 やがて巨大な火の玉になって通り過ぎていく。理解できなかった宇宙の歪みも 理解できるかもしれない。ひょっとしたら、宇宙の果てに行き着いて、そこに佇むかもしれない。その時、ぼうぼうたる広がりの中で、きっと、君のことを 考えると思う。まだ、だれも想像さえ出来ない場所。もう二度と人類が来るこ とのない場所を、俺は光になって飛びすぎてゆく。ー
シモーンは、黙ってエイサの話を聞いている。ずっと以前、もう何年前だろ う、いや、もっと遙かな昔に、やはり、エイサがそんな話をしていたような気 がする。
ーどうして、エイサは、希望にきらきらする眼で寂しい話をするのだろう。 そういえば、イーシャもそんな目でそんな話をしていた。ー「イーシャも行けないかしら。」
唐突に言う。
「イーシャ。」
目が、シモーンを捉えるまで時間がかかる。そして驚いたように聞き返す。
「イーシャも行きたがってたから。」
「どうだろ。今の状態では無理じゃないかな。」
「無理かしら。でも、乗組員が集まらなくって困ってるって言ってたわよ。」
「それは、ティーチングを排除したためだよ。ノンティーチングなんてほとんどいないし、その中で、そんなところへ出かけてみようなんて物好きはほん と、まれだろうからね。」
「じゃ、空きがあるならひとりくらい潜り込めるんじゃない。」
「そうなあ。」
「エイサ、もう申し込みしたの。」
「いや、これから。まだそんな元気なかっただろ。」
「それもそうね。じゃあ、申し込むときは三人申し込んでみて。」
「三人て。まさか。」
「そう、私も。」
「どうして。」
「いいじゃない。だめで元々よ。」
「あなたは、研究者だし。私は医者の経験者よ。特に精神科はコンピューター じゃ代用できないから貴重なのよ。」
「そりゃわかるよ。だけどどうして。」
「ここに住んで、もうずいぶんになるわ。そろそろ変化を付けてもいいじゃな い。」
「俺に義理だてして、一緒に行くのかい。ならすごく嬉しいけど、苦しいな。」
「故郷が逃げ出すなら、追いかけていくしかないでしょ。」
シモーンはいたずらっぽい笑いを頬に浮かべる。
「冗談。あなたを困らせるつもりないわ。いやならいいの。」
「あと百年、こうしてここに住み続けるなんて出来ない。」
「いや、先のことはどうなるかわからないよ。考えるほど単純じゃないよ。考 えた未来には心がないからね。肝心なのが。」
「心なんかない方がいい。もういい。お手上げなのよ。」
「わかる。シモーンが苦しんでるのは知ってる。」
シモーンははっとエイサを見る。
「何を知ってるの。」
「みんな。」
言葉を探して、それから見つからずに躊躇して言う。
「俺にはシモーンのやり方がわからない。自分で自分の首を絞めているような 気がする。」
「いいのわからなくったって。」
「そう言うなって、俺はシモーンのことを非難しているわけじゃないよ。心配 してるんだ。シモーンは罪悪感を持ってるだろ。だからいつかそれに押しつぶ されるんじゃないかって思うんだ。」
「いつわかったの。」
「それほど前じゃないよ。自分のことで手一杯だったからね。」
「それで、ずっと知らん振りしてたの。」
「言っては悪いと思って。」
「そんなの卑怯よ。」
「そうかもしれん。だけど俺は第三者だから、シモーンが思っているほどそのことについてとやかく思ってないよ。俺は別にかまやしないと思ってる。親子であっても自分たちがそうしたいならいいじゃない。」
「そんな言い方ひどいじゃない。そんなつもりじゃないわ。」
「わかるよ。でも罪の意識で崩れかけてる。本来なら、それを分かち合うはず の相手はイーシャだろ。だけど話してもわかりっこないし。いつかちゃんと相談相手にならなくっちゃと思ってたんだ。」
「私どうしていいかわからない。」
「罪の意識から逃れるためにロケットに乗っても罪もも一緒に乗ってくるよ。」
「本当のところはどうしたいんだい。」
「そんなの決まってるでしょ。イーシャが元通りになればいいのよ。」
「そうだよな。」
「いつか、きっと治療法が見つかるはずよ。」
「ああ、たぶんね。どんなことだって人間はやり遂げてきたからな。」
「そうよ。」
それはいつか必ず可能だと思う。だけど、今は、雲をつかむような話なのは シモーンの方がよく知っている。壊れてしまった脳を元に戻すのはコンピュー ターの元に戻すキーを打つのとはわけが違う。
「百年では遅すぎるのよ。五十年だって、一番大切な時間をイーシャは失って しまう。いっそ、ロケットに乗って、千年か、その後に戻って来れば、きっと 治すことができるはずよ。そう思わない。」
「そうか。そういう手もあるな。」
だけど、と言おうとしてエイサはやめる。あのロケットは、千年二千年では地球に戻れない。
「こんなふうにして、ただ待っているなんてできない。」
「十年も二十年も。研究は始まったばかりなのよ。それも次から次に倒れてい くし。いつできるかわからないものを待っているなんて私にはできない。」
「シモーンらしくないな。以前なら待てたのに。」
「買いかぶりよ。今までこんな目に遭わなかっただけよ。」
「いいや。俺のときだって。」
「イーシャとは違うわ。」
「いや俺は。」
シモーンの剣幕に押される。
「イーシャだって普通に暮らしたいのよ。それをあんな風に閉じこめて。だれだって幸せに暮らさなくちゃだめなのよ。イーシャだって、みんなと同じよう に、好きなことをして、楽しんで、希望を追いかけたいのよ。それをひとりぼ っちで私と機械だけなんて。」
「だれも相手にしてくれなければ、私がしてあげるしかないでしょ。」
シモーンが泣いた。
「だれも何も言いやしないよ。悪いなんてだれも思いはしないよ。」
「だれも何も言わないわ。そんなことじゃないのよ。私のことなの。私の心が だめなのよ。」
「違うよ。人を愛して、そのために生きるのは悪くないよ。」
「違うわ、一緒に寝てやることが、イーシャのためなの。それだけなの、イー シャの人生は。」
「治療法は見つかるよ。科学はめざましく進歩してるんだから。」
「だめよ、今は何もできなくなったわ。そんなのシフスにもわかるでしょ。」
シフスは自分がただ慰めに、話していることを恥じる。
「イーシャは、銀河が回るのを見たがってた。だから連れてってあげる。もう、 自分だけでは行けないから。」
「気持ちはわかるよ。でもな。」
「そんなのわかってるわ。」
「いやわかっちゃいない。」
「シフスだって行くんでしょ。」
「それはそうだけど。条件が。」
「いいの、手伝ってくれなくても。」
「いや、そういう意味じゃないんだ。宇宙はきついぞ。」
「いいの、私ひとりでやるから。」
「よし、三日待てよ。三日待ってそれでも行く気なら掛け合ってみる。これでもそっちの方には顔が利くから。」
「ほんと。今からじゃだめ。」
「いや、三日待てよ。俺だって決心が付きかねているんだから。どっか、宇宙 の果ての、岩と風だらけの星に墓をたてて眠るなんて寂しすぎるもんな。それでも良すぎるくらいだ、きっと。実際には真っ暗な宇宙を、永遠に漂うだろうからな。」
話したシフスも、聞いたシモーンも、しばらくその話にとらわれる。暗い宇宙をあてどなく漂う自分を思う。
(12章の2おわり、12章の3に続く)
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