帆が風をはらみ損ね、ばたばた鳴った。
「みろよ、いい空だぜ。」
シフスが唐突に言う。
「どうして空がきれいだか知ってるか。」
「知る分けないでしょ。」
声に棘がある。
「見慣れているからだよ。」
かまわずに言う。
「俺がだけじゃなく、何千年も、何万年も、いや、何十億年も、毎日毎日見てきたからなんだ。何十億年もいろんな形に変化しながら今は俺の形になってる命がさ。」
「それがなんだっていうの。」
「安心できるってこと。それだけ。」
「苦しくなると、馴染んだ所へ帰りたくなる。」
「ばかばかしい。人一人殺したくらいで悲劇ぶらないでよ。言ったでしょ、正しいことのためには、目をつぶらなくてはならないことがあるのよ。歴史の中では無数に血が流れたわ。でもそれがなかったら、未だに奴隷社会のままよ。そりゃ、あなたが苦しいって言うんだからそうよ。だけどそれがなんなのよ。一時の感情に負けて、理性を見失って、それじゃ何一つできやしないわ。」
風が強くなった。船は大きく傾き、船首が切る波の音が激しい。
「あいつだって、喜んだり悲しんだりして生きてたんだ。」
「同じこと何度言ったら気がすむの。優しぶって、自分を慰めてるだけで しょ。うんざりだわ。」
「そのとおりだ。本当は、あいつのことじゃないんだ。」
船の揺れが激しい。シフスは身体を起こす。 「俺は死にたくない。いつかかならず捕まって死刑になっちまう。」
「そんなことないわよ。」
リサの声が和らぐ。
「死刑の制度はないのよ。」
「いや、俺たちは別だ。キル・ヒムだ。聞いたことあるだろ。みんな、生け贄を求めてる。」
船首が波の谷間に落ち込み、激しく波しぶきをあげる。
「奴らは、何でもかんでも俺たちを八つ裂きにしなくっちゃ気がすまないぜ。」
「大丈夫。そんなに簡単には死刑は復活しないわ。」
「そうかな。マスコミが中心になってそれとなく報道してるだろ。あいつら の常套手段だ。毎日ほんの少しずつ。いろんな意見を報道しているようでいて、トータルすると、ほんの少しキル・ヒムに傾いてる。一日、二日じゃなんてことない。一週間、一月でもなんてことない。だけど、半年立ったらはっきり差がついてる。キル・ヒムに反対しようものなら、おまえもあいつら の仲間だなってなわけだ。完璧だ。」
「今の時代は、何か憎悪の対象がいるのさ。こんな混乱は、歴史の教科書の中だけで しかなかったからな。俺たちの曾祖父の時代の一触即発の時以来だろ。その時は、戦う相手がいたからね。今度のは相手がいない。」
「そうよ、私たちは、それをもっとうまく利用すべきだったのよ。大衆の不満と、恐怖をテイオウに向けて扇動すれば、もっと簡単に破壊できたのよ。」
「だめだ。しょせん能力が違いすぎる。それは俺たちもずいぶんとやったじ ゃないか。で、結局は、みんなが俺たちを攻撃している。」
「確かに向こうの方が一枚も二枚も上だったわ。大衆は力を信奉するものよ。 ことの正邪を真実ではなく,言った人間の力の強弱で決めるのよ。」
「おかしいと思わないか。俺たちは、真に人が人にかえって生きることを目指してただろ。それなのに、どうして、大衆なんて古典的な言葉が甦って来るんだろう。大衆なんてのは、ここ何十年も世界から消滅していただろ。いや、今だって、俺たちの考え以外の所では、大衆なんて存在しないのさ。」
「どういうこと。」
「大衆てのは引っくるめて馬鹿ってことだろ。自分の考えを持たずに、今おまえが言ったように声の大きい奴にただくっついていく。支配されてることを知らない非支配者のこ とだろ。自由自在な整形と、ティーチングは、やり方はどうであれ、俺たち をそのことから解放しただろ。そう思わないか。」
「そうかしら。大衆の方がまだましよ。人間の企画化でしょ。顔かたちから、 脳みその中まで。端末機よ。知ってるでしょ。」
「そうかな。本当に端末機かな。そのために、人は何か自由を失っただろうか。俺は、また戻るけど、人の最大の自由、生きるってことを奪っちまった。 人間の解放を目指して、人を殺す。殺しちまえば、彼にとって開放も何もあったもんじゃないだろ。昔、人がまだ生きていた頃、なんて俺たちは理想に してたけど、あの時代は、本当はくそくだらない時代だったのかもしれないんだぜ。ただ金を奪い合ってるくせして、正義のための戦争などという殺し合いをしてただけのな。」
「いや、違うわ。昔は、みんな信念を持って生きてたわ。戦争だって、そりゃいろいろあるけれど、自分たちの希望や信念に乗っ取って戦ったのよ。今は、 このパニックが起こるまでは、自分のことしか考えない、ううん、考えもしないのよ。その結果がぷっつんよ。テイオウにすべてを任せ、そのうえにあ ぐらをかいて、怠惰をむさぼったりしてるからよ。みんなテイオウの陰謀よ。 そんなの今更話すことじゃないでしょ。」
「そうかもしれん。だけど、自分とその周りの人との関係を大切にしさえす ればことが足りるというのは、それなりにいいことじゃないのかな。競争社会などという、弱肉強食の社会では、いろいろ行動しないとひどいめつく から仕方ないけど。権力を人の手から離して機械に任せたのは、その部分で は、正解だったような気がするな。結果は恐怖に追っかけ回される羽目になったけどな。」
「なぜそうなったと思うの。権力を握ったら、人間もテイオウもやることは 同じなのよ。自分が支配するものを、いかに効率よく働かせるかだけよ。だからいつもチェックしなくちゃだめなのよ。権力をみんなに平等に分け持たさなく ちゃだめなのよ。テイオウのおかげで果てしなく人が廃人になってるって言うのに,それでもテイオウを頼って生きてる。狼から守ってもらうために虎を雇ったひつじみたいなものよ。毎日虎に仲間が食べられてるのには目をつぶって,守護神だとあがめてる。いつの時代でもどんなことをしても,いつだって大衆はいるのよ。そして権力におもねっている。兵隊が何人死んでも当たり前だけど、大将が死んだら大騒ぎするのよ。命に変わりないはずなのに、権力の多寡で人の値打ちを決めるのよ。」
「今はそんなことなくなっただろ。」
「あるわよ、ティーチングとノンティーチング。テイオウと人間。」
「テイオウは人間かい。」
「もっとひどいわよ。人間より機械を大切にするなんて、愚の骨頂よ。あれはね、世界に君臨する帝王よ。」
「それはわかる。でもな、テイオウがなくなれば、人はまた戦うことになるんじゃないかな。物を作るということは、ものに価値を置くということだろ。 何を創ったかが人間の価値になる。何をどれだけ持ってるかが人間の価値になる。もので換算する価値だ。すると結局奪い合うことになるんじゃないかな。前世紀みたいに。今は,少なくとも人間の間では権力はなくなってた。」
「じゃ,今までみたいな怠惰な生活がいいっていうの。なんの目的もなく、打ち込まれた知識のお化けで、テイオウの言うなりで、ただごろ ごろ寝ころんでいてサイコビジョンに現を抜かしている。そんな生活がいいの。お笑いだわ。」
「お笑いだよな、確かに。じゃ、どうする。俺にはわからん。ただ、俺はこんなことを始めずに、のんびり生きていたかったな。かわいこちゃんとふざ けまわってな。みんなのためにやったんだぜ。それが何でこんなことになっ ちまたんだ。わからんよ俺は。」
「堕落したわね。」
「そうな。疲れちまった。」
二人はしばらく黙り込む。「終ったら、後どうするんだ。」
「考えてないわ。」
「俺はモンゴルへ行こうと思う。羊と山羊を連れて、ずうっと草原を渡って いく。」
「モンゴル。」
「今はそんな暮らしする人はいないけど、なん百年か前まではそうやって暮 らしていた人がいたんだ。」
「ふうん。」
「一緒に行かないか。」
「いいわね。行こうか」
「そしたら、私がふやけた精神を叩き直してあげる。」
「お手柔らかにな。」
「モンゴルだ。」
ほとんど独り言のように言う。ぐるっと、見渡す限りの地平の真ん中に、独り いる自分を思う。冷たい風が、草原を渡っていくのが見える。
いつ来たのか、空の高みに飛行船が浮かんでいる。偏西風に乗って、ゆったり と流れていく。
帆綱がまた、ひとしきり風に鳴る。
「キル・ヒム。」
その声が風に乗って聞こえたような気がする。
シフスは目をつぶる。
(10章の5おわり、11章の1に続く)