空いっぱいに蝉時雨第10章の4
   航海はひどくのんびりしたものだった。だれも何一つ怪しまなかった。 一本マストのスクーナーは偏西風にのって軽やかに波を切っていた。旧式 の自動帆走装置も捨てたものではなかった。普通の装置はメーンコンピュ ーターに居場所を知られてしまうので取り外してあった。
 三日ほどはひどい船酔いに悩まされたが、それも収まった。一人だけの逃走の不安と緊張から解放され、狭い甲板で寝ころび、最後の目的地へ向 かう興奮に身を任せていた。風は冷たかったが、午後の日差しの中でかえって心地よかった。
 その脇へリサがきて黙って座った。
「釣りでもしたら。」
 ややあって言う。
「そうだな。」
 リサをちらっと見やってまた目を閉じる。
 以前男だったということが頭をかすめる。
「気晴らしになるわよ。」
「気晴らしか。それもそうだな。」
「なんにもしないでいると、いろいろ考えてだめになるわよ。」
 シフスは黙っている。
「後少しで終わるわ。」
「終わると思うか。」
「そうね、また世界中を逃げ回るしかないわね。でも、いつか捕まるわ。」
「そうな、終わるにはそれしかないか。」
「テイオウを破壊すれば人の意識も変わるわ、きっと。」
 「かえって恨むんじゃないか。あいつらは、のんびり暮らすことしか考えて ないから。例の病気もあるし。」
「そうね、ひどい混乱になるわね。恨まれるわね。」
 キル、ヒム。シフスは、逃走の途中で何度か聞いた言葉を思う。
「でも、いつか理解してくれるわよ。時代を超えるものは、いつの世でも迫害されるものよ。」
 シフスは答えない。船首で砕ける波が、不規則なリズムを刻み続けている。
「クェーサー知ってるか。」
「知らない。」
「ほかの星へ移住しようって宇宙船だ。」
 リサは黙っている。
「俺も弱気になっちまったのかな。このごろ考えることといったら、逃げる ことばっかりだ。」
「お互い様よ。」
「いや、後二三日君に遭わなかったら俺は逃げてたね。誰かが秘密をしゃべ ったんじゃないかって戦々恐々としてたからね。」
 風が波しぶきを二人の所まで運ぶ。シフスは、風をはらんだ三角帆の向こ うの空を見る。
「本当のところは、もう、テイオウなんてどうでもよくなってたんだ。」
 しばらくして言う。
「一人で逃げてるのが怖くてね。行くところがなくて、それでふらふらと喜望峰まで来てた。」
 リサは、黙って海を見ている。
「目の前で吹っ飛びやがった。」
「武器ってやつは、ほんと人を殺すためにあるんだなあ。」
「訓練のときは、ほんとかっこいい装身具みたいなつもりでさ。ばかみたい だよ。」
「人類を守るだって。あああだ。」
「過ぎたことを悔やんだって何も出やしないわよ。新しい道へ突き進むとき は犠牲者が出るのは仕方ないのよ。もう一度、本当に人類が生きることを見 つけて、真に生きる時代が来たら、私たちは、そのために命を懸けた人とし て歴史の中に浮かび上がってくるわ。それが革命というものよ。」
「それはそれでいいかもしれん。だけどな、あいつを殺してしまったんだ。 もし、俺があいつだったら、どんな復讐をしても足りないと思うだろうな。 爪を一つづつ剥いで、そこに油を塗って、火をつけて、指を一本ずつ切り取 って、耳をそいで、鼻をそいで、目玉をえぐり出して。だめなんだなあ。どんな復讐をしたところで手遅れだ。もう恋もできやしない。あいつだって好 きな女がいただろうに。夏の草原を肩を並べて歩きたかっただろうに。俺は、 それをみんな奪っちまった。こんないい天気で、俺はひなたぼっこなんかしてる。だけどあいつは真っ暗けだ。」
「これは戦争よ。個人レベルで、物事を判断しては何も成し遂げられないわ。 だれも一度は死ぬのよ。何年生きたかが問題じゃないのよ。何を成し遂げたかが問題なのよ。ただ楽しいとか苦しい とか言ったって、そんなの問題じゃないでしょ。」
「そうさ。それはそうさ。だけどあいつは死にたくなかっただろうな。そう思うんだ。」
「そんなの当たり前でしょ。いったいだれが何十億もの人を廃人にしている と思ってるの。それは悪くはないの。いつの時代だって、革命に犠牲者はつ きものよ。そりゃ、だれも犠牲者を出したくはないわ。でもそうなったんだ から仕方がないのよ。」
「あのとき、なんにもしないで捕まってたらどうだろう。」
「ばかみたい。」
「そうかな、ばかみたいかな。」
「そうでしょ。取り返しの着かないことをああだったらこうだったらと考えて、逃げてるだけよ。いったい、なんのために私たちは苦労したのよ。だれがテイオウを止めるのよ。みんな、テイオウの奴隷よ。」
「そうさ、臆病風に吹かれてるのはわかってるんだ。わかってるんだけどな。」
「わかってるんなら、しっかりしなさいよ。今このときだってテイオウは果てしなく自己増殖してるのよ。一秒間に何百人もが廃人になって行ってるの よ。」
「そうだよな。ティーチングなんかして自分から端末機になってしまいやがって。だけどそれがどうだっていうんだ。あいつらが選んだことだろ。俺の口出しすることじゃないんじゃないか。」 
「違うでしょ。彼らの問題は私たちの問題でもあるのよ。不正は不正よ。 間違ったときは、誰かが正しい道に戻さなくてはだめなのよ。それが間違い を見つけた者の責任よ。」
「責任か。俺には縁がないな。逃げ出すことばかりだ。キル・ヒム。みんな 言ってるぜ。逃げて、逃げて、それでここまで来た。」
「見損なったわ。」
「ああ。」
 二人は黙り込む。
       

(10章の4おわり、10章の5に続く



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『妹空並刻』