空いっぱいに蝉時雨1章の5
 エイサは道路ぎわにぼんやり立っていた。
「お帰りなさい。」
 シモーンは車から降りながら笑顔で近寄る。
「やあ。」
 少し戸惑ってから,エイサはシモーンを軽く抱き寄せる。本当にシモーンなのか半信半疑なのがその抱き方に現れている。
「逢いたかった。」
 最初の言葉を,百回も練習してきた大根役者のように言う。その,引き締まった体の中に抱かれながら,シモーンは目をつぶる。
「私も。」
 そして,エイサもまた目をつぶっているだろうと思う。再開とはそういうものなのだから。目を開けて相手を見るまでには時間がいる。お互いが見詰め合ったとき,再開はもう終わりだ。後はどう時間をつぶすかしか残っていない。いつもそうだった。

「旅楽しかった。」
 目的地のボタンに迷いながら,シモーンは言う。
「うん。まあね。」
「どこか行ってみたい所ある。」
「そうな。ナツミなんかもずいぶん変わったかな。」
「行ってみる。」
「行きたいな。」
 シモーンはキーを押す。
「ちょっとやらせてみて。」
 脇から覗き込みながら言う。
「えっと,ここだな。」
 画面に地図が写る。
「それからどうだっけ。」
「場所をさわればいいのよ。」
「そうか、ゲームと変わりないんだ。」
 エイサは自信なげに言う。シモーンはちらっとエイサの顔を見る。昔は,科学や機械のことになると目を輝かせていたのに。
 車は音も無く走り出している。
「便利になったもんだ。」
「これなら,私にも運転できるから。」
「どうもだめだな。誰も,運転していないなんて,怖くて。」
「これのほうがよっぽど安全よ。」
「そうだろうけどな。」
「すぐ慣れるわよ。」
 話の接ぎ穂を捜すのにも飽いて、シモーンは言う。
「私、おばあちゃんになったでしょ。」
「ああ。驚いた。」
 考え込むように言う。
「あなたはそのままね。」
「理屈ではわかってたけどね。実際、こうなってみるとな。」
「すぐ慣れるわよ。」
「そうかもしれないけどね。いつになるやら。」
 ふっと、シモーンはエイサの手を握る。
「そんなに考えないの。あなたには,これからいっぱい恋人ができるわ。」
「そうな。かも知れない。でも,俺はシモーンが欲しい。」
「ありがとう。でもいいのよ。私はもうおばさん。」
「ううん。きれいだよ。すごく。」
 それから,唐突にシモーンの法に,体をねじると,かぶさるようにキスをする。シモーンはその背に腕をまわす。
 昔は,そんな風には決して言わなかったように思う。
 でも,長い年月を埋めるのには,こうするのが一番手っ取り早いと思う。そして,惨めになるのも、と。
 抱擁が一段落すると,シモーンは車のキーを押しなおす。ホテルの案内が出、説明が流れる。
「しらね。」 
 その中のひとつの名を言う。
「大丈夫かい。」
「大丈夫よ。言えば勝手に走ってくれるのよ。」
「いや。そうだよな。」
 なんだか支離滅裂なことを言う。
「いいのよ。心のままで。」
 その心を見透かしたように,シモーンは言う。

空いっぱいに蝉時雨第1章の6へ続く
空いっぱいに蝉時雨1章の4

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