「ドッキングしたよ。」
イーシャの声に、シモーンははっと我に返る。
目の前に、傷だらけの光る壁が見える。
「これなあに。」
「ハッチだよ。今開くよ。」
イーシャの興奮した声をシモーンは聞く。頭二つ分も背が高く、髭の剃り跡などをつけているくせに、いつまでも子供っぽい。そういうときのいつものように、シモーンの顔に笑みが浮かぶ。
ソファーの中でシモーンは身じろぎをする。十八になったばかりの人も二人乗っていたのだったかしら。シモーンははっきりわからない。もう三十年にもなる。−エアー充填開始。
無事に帰れたのかしら。シモーンはその中に乗っているだろうはずの昔の恋人のことを思う。
今まで何度か放映された光子ロケットからの映像は、なぜか不安定で、個々の人を見分けることが出来なかった。
−あの時、確か二十二歳。−
そのころのほかのことに比べると、はっきりと思い出すことが出来るが、それでもなかなかだ。 それもまた、色あせた多くの恋のひとつに過ぎないとシモーンは思う。様々な男たちと過ごした様々な恋も、いつも同じような別れの色の中に沈んでしまう。 もう、二度と会うことのない恋人だった人々。 新しい恋に夢中で古い恋など思い出すことさえない別れもあった。会ってもう一度取り戻したいと思った恋もあった。ただ、もう一度あって、昔のことやなんかを語り合いたいと思った事もあった。だけど、シモーンは二度と会わなかった。思いは思いのままに、寂しさは寂しさのままにしておくのがいい。シモーンはそう思う。
なのに今、シモーンは立体テレビを見ている。
シモーンに初めて寂しさを教えた男。シモーンが教育年限を終えて、社会に出て初めて知った男。初めて性交を伴う恋をした男。星間物質の研究をしていて、いつも宇宙に出たがっていた男。
エイサ。そう、エイサ。シモーンはやっと名前を思い出す。
エイサが、このロケットで行ってしまったから、私も旅に出るしかなかった。もし、エイサが行かなければと、シモーンは思う。私は旅に出なかったかもしれない。
でも、結局私は旅に出ただろうと、シモーンは考える。どの恋だって同じような別れがあったし、同じような寂しさがあった。分かれるために恋してるみたい。シモーンはほほえむ。
でもと、思う。
いろいろな場所で、いろいろな男と別れながら、そのたびに、星の間を光になって飛び続けている男のことを思っていたような気がする。
でも、わからない。ひとつひとつの恋はそれぞれに恋であったし、別れは、それぞれに別れであったのだから。
------温度四百三十度、冷却------
切れ 切れの高い声が聞こえる。ひどく聞き取りづらい。
イーシャの手の上にシモーンは自分の手を重ねる。今度はイーシャは手を引かない。「私は子供は作りません。」
男は一生懸命の声でそう言った。シモーンは、男の裸の胸をなでながら、真面目くさった言い方をおかしがる。
「残していくことに責任が持てないし、それに、出かけるのに未練が大きすぎると辛いし、それに、シモーンの自由がなくなる。」
男は最後のところだけ言い辛そうに言う。
男は、二ヶ月後に出発することになっている、第一号光子ロケットに乗ることになっている。
男の部屋には、そのロケットの大きな模型が飾ってあった。金色に光るその模型はひどくおもちゃっぽかった。せめて艶消しにすればかっこよかったのにと、シモーンは考える。でも、世界中から選ばれた五十人の一人なのだからとも思う。 シモーンは、訓練のために筋肉の盛り上がった男の胸に顔を乗せる。
「私待ってる。」
「ありがとう。そう言われるとうれしくなるな。」
「ほんとよ。」
「うんわかってる。だけど、三十年は長すぎるよ。自分の人生は大切にしなくちゃだめだよ。ただ待つって、とてもすばらしいけど、やっぱり少し悲しすぎるよ。」「でも待ってる。」
男はシモーンを抱きしめる。男はシモーンが待てないと思っている。だがそう言われるとシモーンが本当に待っていてくれるような気になる。
「帰ってこられないかもしれないよ。」
「そんなこと言わないで。」
「そうだなごめん。」
「こうしていていい。」
シモーンは身体を強く押しつける。
「いいよ。」
待っていてほしいと男が言わないことがシモーンは辛い。男はその事に気づかない。
「本当に光になるの。」
「わからない。専門外だから。光速とか、時間が止まるとか。」
「怖くない。」
「少しね。」
「私なら寂しくてとても行けない。星空の中をどこまでも行くなんて。地球も太陽も見えなくなって、それでも光になって飛んで行くんでしょ。」
「考えるとね。」
「このままでいたい。」
「俺だって。でもな。」
男は言葉をとぎらす。そして話を変える。
「訓練で帆船に乗ったことがあるんだ。シモーンに遭う少し前だな。遊び半分て気分で乗ったけど、あれはきつかったな。だいたいが服従の訓練でさ、参ったな。どこか港についたら逃げ出すぞって、そんなことばっか考えてた。船酔いもひどかったけど、一番いやだったのがマストに登ることだったな。俺高所恐怖症でさ、上まで登り切るのに半月かかったな。でも、慣れるといい気分だったな。最後まで怖さは抜けなかったけどね。
「どこ見ても、果てしなく海だけなんだ。ずっと。」
「航跡なんかずっと続いてて、穏やかな日なんかそれが水平線まで続いているんだ。あああんなところ走っていたんだなってね。そして、今残している航跡を、あああんなところ走ってたんだと見ているときがくるんだな、とね。さっきの今はどのあたりかなとずっと目で追うんだけど、海ばっかりではすぐ見失ってしまうんだ。馬鹿みたいだろ。でも、その航跡も航海もどこかへ消えちまった。」 「光はね、人でも蛍でも作れるけれど、次から次へ過ぎていく時は誰にも作れないし、留めることは出来ないんだ。光りになったところで、同じで、航跡はずっと果てしなく置き去りにされて行くんだ。きっと。」
「子供の頃そんなこと考えなかった。みんな眠っちゃってて、自分だけなんだか寝そびれててさ。ほんと馬鹿みたいなこと。死ぬ五分前があるんだ、なんてこと。今ここで独りで天井なんか見てるけど、必ず明日の夜があって、今のことを昨日の夜は、なんて考えてる瞬間がくるんだ。今、昨日の夜もあって、やはり天井見てたなんて思っているように。明日の今があるってことが怖かったんだ。どうしてかって云うとね。その順で行くと、死ぬ五分前の今が必ずあるってことなんだよね。そして死んで五分後の今がかならずあるって。ピラミッドの最後の石を積んだ今があったように。自分が死んで千年後の今があって、その石を積んだ人が今はもうなんにもなくなっているのと同じように、自分はもうなんにもなくなってて、ただもうずうっとずうっと真っ暗闇なんだって考えると、怖くてね。子供だったんだな。眠ると気がつくと朝だろ。その間の時間がとてももったいなくて眠るのが出来なかったんだ。それでめそめそして。まあたいがい母が起きていて、話したりしてくれてあっさり眠ってしまったりしたけどね。」
「ま、子供って暗闇から出てきたばかりだから、まだその暗闇のこと考えるんだろうな、きっと。」
「それで、宇宙のことばかり考えてきたの。」
「ううん。かもしれん。わからないな。」
シモーンは男の足に自分の足を絡ませる。-----三百八十度。冷却中止。-----
立体画像から声高い声が響く。
-----ハッチ上部に歪み発生。-----
「あれくらいの温度で歪むなんておかしいな。」
イーシャが独り言のように言う。
--イーシャも暗闇を怖がったのかしら。--
シモーンは、ごく最近までイーシャが部屋を明るくしたまま寝ていたのを思い出す。
--あの人も、母にはその事を話さなかったという。「どうして。」と聞くと、「どうしてかな。話さなかったな。お化けが怖いなら話したろうけど、その事は話そうと言う考えさえ浮かばなかったな。」イーシャもやはり、死の五分前と、死の五分後に立っている自分に怯えていたのだろうか。--
シモーンは、そっとイーシャの髪を撫でる。三人の子供の中で、独りだけ、自分に似た黒い髪。一番の甘ったれ。つくるつもりなどひとつもなかった。ほんの行きずりの父親。今はもう、名前さえ定かでないほどに。ほかの子供の時は、しばらくは一緒に育てたものだが。本当に気楽にやってきて、気楽に出ていった。子供が出来たことに気がついたときにはもう男はいなかった。
----五百十度。五百十一度。------
技師の声が興奮気味に響いていく。
「本当に光りになったと思う。ママ。」
珍しく、ママと呼ぶ。
「ううん、光りにはなれなかったのよ。」
「僕もそう思うな。計算では光りになったんだけど、やっぱり光りにはなれなかったような気がする。」
-- 帰ってきたのだから。シモーンは思う。あの人はなんて言ったのだったかしら。そう、闇の中から生まれてきて、また闇の中に戻っていくって言ったのだったかしら。あの人は闇に戻るのが怖くて光りになろうとした。そのために星の向こうまで行ったのに。結局戻ってきた。「帰ったら連絡するから。」なんて、ほんと気楽そうに出かけていった。まるでちょっとほかの州に出かける調子で。でもあの人は、本当は帰ってくることなど考えてはいなかった。--
---五百三十度。結合部異常発生。ドッキング解除---
「大きいからね。一部を冷却しても無理みたいだね。」
シモーンは待つことに苛立っている。長男が家を出て、最初の頼りを待っていったときのように。長女が家を出て、最初の頼りを待っていたときのように。
趣味のように子供を育てる人が増えた。シモーンもその仲間。何もかもコンピューターが完璧に作り上げた。唯一残されているのが子育てくらいだ。それさえ近々ボタンひとつで出来るという。急激な人口減少に歯止めをかけると言うが、誰が自分の卵子や、精子を機械に提供するのだろうと、シモーンは思ったものだ。
作り出すことの意味が消えたら、その喜びも消えてしまった。人々はもう何も自分では作り出さない。
シモーンはサイコビジョンで出ていった子供たちに会う。彼らのデーターを入れ、好きなプログラムをクリックすればそれでできあがり。シモーンは好きなように子供たちと暮らせた。
シモーンがサイコビジョンを使うようになったのはそれがきっかけ。今でも、時々はすばらしい恋のために使うこともあるが、大概は子供たちとであった。
しかし、それもそうたびたびではなかった。何となくなじめなかった。自分が生きることくらい自分でできた。恋人も三人いるし、話したいときに話したい人と話せばよかった。セクスをしたければそうすればいい。そうしたいのに会えないこともあるし、会いたくないのに会わなければならないときもあるし、楽しいセクスもあれば、うまく行かないときもあるが、それはそれで人生なんだからとシモーンは思う。ただ、子供にはあまりに会えなさすぎた。
「今日はだめみたい。」
イーシャはがっかりした声を出す。
シモーンは不安定。
「あれでも、」
と、また、部屋の中に全体像を浮かべたロケットを見ながらイーシャが説明する。「光速の十五パーセント近い速さで飛んでいるんだよ。それが木星や、太陽の引力を利用して、ちょうど一ジーの圧力になるように減速しているんだ。大きいから大変なんだ。」
「ほら、あのお椀のようなところあるだろ。あそこ、なんにもなっていないみたいだけど。本当はすごい光子を噴射しているんだ。真空だから脇からは何も見えないけど。それに、そんなのまともに電送しちゃったら、部屋中光りになっちゃうから。」
シモーンはイーシャの手をいじる。
--あの人は光りになったのかもしれない。だからうまくいかない。--
「あとどれくらいで地球に着くの。」
「えっとね、けいさんしてみるから。」
イーシャはしばらくぶつぶつ言いながら考え込む。
「へえ。五日くらいで着くんだ。」
イーシャは独りで感心している。
「でも検疫が厳しいだろうから、二週間は最低だね。」
「そう、あと二週間。」
シモーンも独り言のように言う。
そして、それに乗っている男のことを、話したいと思う。だが、イーシャに乗せた手をそっと動かしただけで話はしなかった。
「今日はもうだめかしら。」
「そうみたい。」
二人は、少しとりとめもなく話す。それからイーシャは寝に行く。
シモーンも、少しの間ぽっかり浮かぶ宇宙船の前でぼんやりしていたがやがてスイッチを切って寝室へ行く。シモーンは久しぶりにサイコビジョンをするだろう。出ていった子供たちではなく、ありきたりの甘い恋の話を。それともあの男のイメージを思い出すままにプログラムして。
(1章の2おわり、一章の3に続く)