シュレディンガーの猫について8

(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)

(以下{ }内は上記本よりの引用)

著者 高田敞

     



問題

回折と干渉(電子は、孔が二つあるとゴーストになり、多数に分かれるということは本当か)

 

問題1

 二つの穴のあいた板とその向こうの探知スクリーン。

{1個の電子が1つの孔だけを通り、探知機に到達すると想定しよう。それから次の電子をもう1個通そう、という風に。十分な数の電子が通過するのを辛抱強く待っても、探知スクリーンに描かれるのは波動の場合と同じ回折パターンである。

 ジョン・グリビンは、この原因を、{代わりに多くのゴースト電子がそれぞれ違った道を通って探知スクリーンに達するとして、解釈できる。}と述べている。

 これについて考える。

考察

水の波と比較してみる。

一つの穴の開いた板と、その向こうに反応板を置く。それに波を当てる、という思考実験をしてみる。

水の波は一つの穴を通るとその向こうで回折する。これをその向こうに板を置いて、波と板との衝突痕を取ると回折の模様ができるはずだ。このとき、板には無数の水分子が衝突している。しかし、1個の水分子は一か所の分子に見合う小さな点の衝突痕を残しているだけのはずだ。

電子の場合。電子は波でもあるということだ。したがって、1個の電子も波として空間を移動しているということだ。

この電子が孔を通り抜け、探知スクリーンに当たるとき、その痕跡は、一個の点である。この本ではそれを、弾丸と同じだと述べている。そうではない、弾丸は波ではなく、放物線を描いて飛んでいる。そして1個の点の痕跡を残す。電子は波として探知スクリーンまで飛び1個の痕跡を残す。水分子と同じだ。痕跡は同じ1個の点であるが、動きは、波と、放物線だ。

痕跡は1個でも、当たり方は違う。弾丸の場合、おなじ条件なら同じ処に当たる、しかし電子の場合は異なる。電子は波だから、探知スクリーンに当たったとき波の頂上か谷の底か、あるいは途中のどこかで、当たる場所が異なってくる。又、探知スクリーンに対して、縦に振動しているか、横に振動しているか、あるいは斜めに振動しているかで当たる場所も違ってくる。

この本の実験では、電子の振動方向をコントロールしていないから、飛ぶ電子によって、探知スクリーンに当たる位置が異なってしまう。するとその反応痕を集めると、波の模様、すなわち、回折の模様と同じになることになる。

水の波と同じである。マクロとミクロで同じ現象である。

{代わりに多くのゴースト電子がそれぞれ違った道を通って探知スクリーンに達する}では1個1個のゴースト電子が弾丸のように飛ぶというのを想定している。弾丸が違った道を通るから、回折痕になると述べているようである。そうではない。普通の電子が波として飛びそのままで回折痕を作るのだ。

問題2

電子はゴーストになるとどうして知り得たのか。見てもいないのに。

@ 観測したときは、電子は、必ず一つになって、どちらかの孔を通っている。

A 観測しないときは多くのゴーストになって二つの穴を通り抜けている。

考察

 観測で実証されている(本当にその実験をしたとして)のは、一つの穴を通る電子である。一つの電子は必ず一つの穴を通っているということが実証されたということになる。

 このことから、いつ見ても電子は一つの孔を通るのだから、見ていないときでも、一つの電子は一つの孔を通ると類推できる。古典科学の常識的判断ではそれで正解だ。どちらの孔を通るか、あるいは遮蔽板に当たるかはそのときの物理条件による。これは、弾丸でも同じだ。発射された弾丸がどちらの孔を通るか、あるいは外れて、孔を通らずに、遮蔽板に当たるかは、その時の物理条件による。

 ところが、現代量子物理学では、観測していないときは、電子はゴースト電子になって多くのゴーストになり二つの穴を通るというのである。古典物理学の方法の完全否定である。見たときは100%一つの孔を通るが、見ていないときは100%ゴーストになるというのだ。もちろんゴーストを見たことはないにも関わらずだ。

 この根拠はどこにあるのだろうか。

 量子論者は、観測していないものは知ることができない、と言っている。だから、観測していない電子がどのような軌跡を描くか知ることはできないということになりそうである。ゴーストになるかならないかも知り得ないはずである。ところが、観測していないときは電子が多くのゴーストになるということを断言している。見ていないのに、ゴーストになると知っていると主張している。大きな矛盾である。

 シュレディンガーの猫は、人間が箱を開けるまで、何億年でも生と死が重なったままで待っていなければならない。

すると、電子も、人間が観測するまで何億年でも待っていなければならないということになるはずだ。では電子はどのような重ね合わせで待っていなければならないか。量子学者によると、二つの孔のどちらを通るかが重ね合わせであると言っている。すると、天才量子学者が観測するまでどちらを通るかゴースト電子は決められないから、観測を待っていなければならないはずだ。実際に観測すると初めて電子に収束してどちらの孔を通るか決まると述べている。だから観測するまで、ゴースト電子はどちらを通るか決められないから、どちらの孔も通り抜けられないはずだ。しかし、実際は、途中を観測しなくても電子は孔を勝手に通り抜けて観測板まで達しているという。

観測しなくても電子はどちらかの孔をとおっているということだ。このとき選べないから両方の孔を通ったはずだというのだろう。そうだろうか。

電子は、孔を通ると通らないとの2者択一も可能性として浮かぶ。通ると、通らないとが重なって観測を待っているという可能性もある。この場合もゴースト電子は観測してもらわないと、孔を通り抜けられなくなるはずだ。

 

問題

 回折痕があれば電子はゴーストになったといえるか。

考察

 見ていないのに、ゴーストだと決めた理由。

 回折痕があるから、というのが理由である。回折痕を見たということから見ていないときの状態を推論しているようである。もし、証拠から推論できるということが量子論でも通用するなら、観測したときは必ず電子はゴーストにならずにどちらか一方を通る、という観測から、見ていないときも電子はゴーストにならずに必ず一方の孔を通るということも推論できるはずだ。

 どちらも、観測結果からの推論だ。そこで、どちらがよりつじつまが合うか考えてみる。

 

ゴースト説では、回折しているのだから二つの穴を通っているということなのだろう。しかしそれは間違っている。回折は波が1個の孔を通ってもおこる。2個の穴を通る時起こるのは波同士の衝突による干渉である。したがって、回折は、電子が同時に2個の穴を通ったという理由にはできない。かえって、干渉痕ではないということだから、干渉は起こっていない、すなわち、1個の電子は1個のまま孔を通り抜けた、ということの証拠になる。

2個の孔を同時に通ったのなら、干渉痕が起こらなければならないから、それが起こっていないということは、同時に2個の孔を通っていないという証拠である。

観測したときは必ず一つの穴を通っているのだから、観測しないときも1個の穴しか通っていないということは古典物理学では当然の推測である。

天才量子学者が、見る、と見ないでは、物理的なエネルギーの違いはない。質量の違いもない。このことから、見たときと見ないときでは、エネルギー不変則から、物質の物理的な運動に変化はないと推論できる。すると、電子がそのままで孔を通り抜けるという説は矛盾がない。しかし、電子が多数に分かれるとなると、エネルギーが変化することになるから矛盾が生じる。このことからも、電子はそのまま孔を通り抜ける方が正しいといえる。

以上から、見ないとゴーストになるという説は実証が何一つないが、見ていなくても電子はそのままで1個の孔を通り抜け回折を起こすという説の方は、観測したときは電子のまま必ず1個の孔を通るということから実証されたといえる。電子はゴーストにはならず、電子のまま一つの孔を通るといえる。

(1)電子がゴースト電子になるというとき量子論者が証明しなくてはならないこと

 ア 1個の電子が、多数に分かれる仕組みを述べなくてはならない。それがない。

イ 観測したときと、観測しないときは明らかに違うというが、観測者が、どのようなシグナルを発して電子にどのような影響を与えたのかを示さなくてはならない。又それを証明しなくてはならない。それがない。

 ウ 人が見たということを電子は何によって知るのかを示さなければならない。

 それは電磁波なのか、音波なのか、あるいは、気なのか、とか。見たという現象から何らかのものが電子に届いているから電子は見られたということを感知するのだろうから、それが何なのかを示し、証明しなくてはならない。それがない。

エ 電子は、孔が2個あるのを知ることができるということだ。

電子は何により、孔を探知するのだろう。人は可視光線で孔を知る。コウモリやイルカは、超音波で探知できる。では電子は何を使って、孔の存在を知るのだろう。それがない。

オ 電子は、どこで、孔の存在を認識するのだろう。

人は脳で、目から入ってきた情報を処理して、孔と認識する。コウモリも、跳ね返ってきた超音波を耳で聞き、その情報を脳で処理して孔を認識する。では電子はどこで、情報を認識しているのだろう。それがない。

カ 電子は、どのようにして、多数に分かれるように命令を出すのだろう。

電子は孔が二つあると認識したら、ゴーストに分裂をするという。その命令はどのようなシステムなのだろう。それがない。

キ 電子はどのようなシステムで多数に分かれるのだろう。

細胞が二つに分裂するときの仕組みは究明されている。では電子が多数に分裂する時はどのような仕組みで分裂するのだろう。電子は素粒子だということだから、それ以上小さなものはないから構造はないはずだ。それがない。

ク 二つの穴を通るとき、多数に分かれた電子のどれがどちらを通るというのはどのように決めるのだろう。二つは元1個だったのだから、軌道は同じはずだから、同じ穴を通るはずだ。違う孔を通るためには、ゴースト電子は軌道を変えなければならない。そのためにはエネルギーが加わらなければならない、そのエネルギーはどこから湧いてきたのか。孔と孔の距離はどれくらいまで許容範囲があるのだろうか。それらの説明はない。

ケ ゴースト電子は、どちらの孔を通るのか

別れたゴースト電子の1個は、どちらの孔を通るのか、確率は5分5分である。すると個のゴースト電子も孫ゴースト電子に別れなくてはならない。孫ゴースト電子の1個も、孔を通る確率は、5分5分だ。す炉と、この孫ゴースト電子も又曾孫ゴースト電子に分かれなくてはならない。そのあたりはどうなっているのだろうか。

コ 電子はゴーストになるという。ゴーストとは何なのか。電子とどこが違うのか。科学的に説明する必要がある。おとぎ話に出てくるゴースト(幽霊)とはどのような関係にあるのか説明しなくてはならない。それがない。

サ ものが二つになると、一つのときの倍のエネルギーを持っていることになる。多数に分かれた電子は、元の1個の電子の多数倍のエネルギーを持っていることになるはずだ。そのエネルギーはどこから来たのか。ゴーストだから、エネルギーはないのだろうか。そのことについて言及はない。

結論

 電子は、人が観測しようとしまいと、1個のままであるとすると、何の矛盾も生じない。見ていないと、電子はゴーストになるなどとしなくてもいい。

科学にゴースト(幽霊)は似合わない。幽霊は墓場だけで十分である。分からなくなると、神や、魔法や、幽霊を出してくるのは、SFのやり方だ。ゴースト抜きで説明するべきである。


2014,2,12  つづく