シュレディンガーの猫について1−2

(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)

(以下{ }内は上記本よりの引用)
著者 高田敞

     

(問題)

{1900年まではだれも原子核と陽電子を見たことがないのだから、20世紀より前にはそれらは存在しなかったと主張しても筋が通るのだ}

(考察)

では、1899年のヒトは何からできていたのだろうか。原子核が存在しないヒトは、今のヒトとどのように違うのだろうか。

1899年の原子核の存在しない地球はなにでできていたのだろうか。今の原子核からできている地球とどのように違うのだろうか。答えられないでしょう。誰も見ていないから、誰も答えられないのは当然であるとでもいうのでしょうか。

では、今の地球はどうだろう。今の地球は、無数の原子からできていることになっている。その原子をすべて観測したのだろうか。否である。観測したのは、ごく一部、おそらく地球の原子の10500分の1もないであろう。すなわち今の地球の原子も観測されていない。ということは、今の地球にも原子は存在しないと{主張しても筋が通る}ということになる。

人は生きた恐竜を観測したことがない。すると、恐竜は、生きていなかったと{主張しても筋が通る}ということになる。

マクロの世界は量子の世界と違うから当てはめることはできないというのだろうか。しかし物質は総て原子からできているというのも物理学者の言っていることだ。原子が少し密に集まっているだけだ。体のすべての原子は量子の法則で動いているはずだ。するとその集まりである身体は、総て量子の世界の法則で動いていなければならないことになる。単独の場合と、集合した場合とはまるっきり違う法則に支配されるというのだろうか。まあ、そういうのもありだろう。その時は、どうして違う法則に支配されるのかの理論を作り証明する必要がある。言うだけならなんとでもいえるのだから。

ところで、私の体の原子を見た人はいないから、私のからだには、原子が{存在しなかったと主張しても筋が通るのだ}ということになるのだろうね。私は何でできているのだろう。観測しないときは何でできているか知り得ないが、観測すると、必ず原子が観測されるなんて言わないでね。量子学者はあらゆる可能性の中から原子を選ぶに決まっているなんて言わないでね。私は量子学者が観測しようとしまいと、原子でできているのです。量子学者が選んでくれたときに原子からできているということになるのではない。量子がう者が、おまえは、われわれの言うことを信じないからと言って、得体のしれない謎の、へんちくりんななにかを選んだらどうしよう。

 まあ、われわれが選ぶんだ、とうそぶいても、量子しか選べないんだから、あきれる。たまにはほかのを選んでみな。ネバネバ、とか、グルグルとか、アッテナイモノトカ、フカシギとか。今言われている素粒子しか選べないだろう。物質は、量子学者がいくら偉ぶっても、最初から素粒子でできてる。あなたが選んだから素粒子になったのではない。

(結論)

量子学者が見たものしか本当に存在しない。量子学者が見ないものは本当のものではないという。量子学者は神様である。まあ、思い上がりもここまでくればいかんともしがたいね。

 

 2014,2,9
つづく シュレディンガーの猫について3