シュレディンガーの猫について1−3
(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)
(以下{ }内は上記本よりの引用)
著者 高田敞
問題
波動のパターンと回折のパターン
二つの穴を通った水の波は、干渉の縞模様を描く。これは波が広がり(回折)ぶつかり合う(干渉)からということだ。
光も、これと同じように、回折したあと干渉し、干渉による縞模様をつくる実験がなされたという。光も波だから、当然水の波と同じことが起こると考えられる。
電子の場合
ア それほど不思議ではないこと
{代わりにわれわれが得るのは、波動による干渉のパターンである。}とあるから、電子が波ならば普通の現象である。
これは、光も光子という粒子と、電磁波という波の性質を持っているから、それほど特異なことではない。
また、水の波も、水分子という粒子が波になっていることから、マクロの状態では粒子の波ができるとも考えられるから、粒子が波を打っても不思議なことではない。
それぞれに波の作り方は異なるのだろうけれど、それぞれに元から備わった性質なのだろう。
イ {量子世界の不思議なミステリー}
{各回に1個の粒子を通過させて千回の実験結果を合計できるとして、それでも包括的な結果は回折と同様の分布パターンなのである。}
考察
電子が孔を通ると、波の性質を持っているならば回折する。1個1個の電子が波として振る舞うなら、孔を通り抜けたあと回折するのは不思議なことではない。それを千回合計すると、やはり回折の分布パタンを描くのは、当然のことである。不思議がる方が不思議である。電子は、粒子であって波ではないという立場なら、不思議であると思っても仕方がないが。
ただ、この本の分布パターンの図は、回折というより、干渉のパターンのようである。電子を1個1個通過させると、回折はするが、干渉はしない。干渉するには衝突する相手がいる。1個1個では衝突する相手がいないから、干渉はしない。だからこの図は、回折の図であると解釈するしかない。著者はこのふたつを同じに取り扱っている。これこそ不思議だ。
ウ {千回の実験結果を合計できるとして}
「として」ということは、実験はしていないということである。いわゆる思考実験という空想なのだろう。
ところで量子学者は、見ていないものは知りえないと述べている。思考実験は実際には見ていない。したがって量子学者なら、その結果がどのようになるかは、知り得ないはずだ。何故、回折パターンになるとか、回折パターンの図が書けたのか。量子学者の考えた現象は、見ていなくても知りえるが、量子学者に不都合なことは、見ていないから知りえない、と知らんふりできる。一般的にこれをご都合主義という。
また、{1900年まではだれも原子核と陽電子を見たことがないのだから、20世紀より前にはそれらは存在しなかったと主張しても筋が通るのだ}と述べてもいる。実際に見ていない、憶測だけの実験は{それらは存在しなかったと主張しても筋が通るのだ}となるはずだ。このことから、この思考実験は無効ということだ。
{包括的な結果は回折と同様の分布パターンなのである。}というのも、見ていないのだから、言っている人の希望的憶測にしか過ぎないということである。
まあ、これは回折なのだから、当然であるともいえる。一個の孔を通った波は回折する。だから、1個の電子が孔を通っても波なのだから、回折する。
問題は、干渉があるかないかだ。{千回の実験結果を合計できるとして}の実験も、回折はあるといっているが、干渉があるとは言っていない。
これはしっかりした実際の実験が行われてから検証すべき話である。空想では話にならない。
量子力学では、実際に行った実験と、空想実験が同じだと主張しているようだ。これは明らかに間違いである。量子学者も、{われわれが見ると、一つを残してすべてのゴーストが消え、その一つのゴーストが本当の電子となる。}と述べている。われわれが見る前は総ての電子が幽霊である。われわれ天才量子学者が見てあげたおかげで、見られた電子のお化けは実際の電子になると述べているくらい、実際に見ることが重要であると述べているのに、空想実験と、実際の実験を同一視しているのは、大きな矛盾である。
空想実験は空想にしか過ぎない。よくてせいぜい仮説である。仮説は必ず実証しなければならない。それが科学である。どんな素晴らしい理屈であっても、実証しなければ仮説にしか過ぎない。
続く
2014.2.9