シュレディンガーの猫について18
(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)
(以下{ }内は上記本よりの引用)
著者 高田敞
問題
{仮に空っぽの宇宙に粒子がたった一個だけあったとすると、その運動あるいは運動に対する抵抗を比較するものは何もないのだから、粒子は慣性をもちえなかったはずである。}
考察1
{比較するものは何もないのだから、粒子は慣性をもちえなかったはず}
相対性理論の考えに基づいているのだろうか。
相対性の説明に、「何もない宇宙に2機のロケットがすれ違う。絶対静止物質がないのだからどちらが動いているか、決めることはできない」というのがある。それと同じ理屈なのだろうか。
(1)この理屈の問題点、
@
絶対静止物質がないことは証明されたのか、という問題に、アインシュタインは証明で答えていない。
A
絶対速度があればそれに対して測ることができるということにも答えていない。
光(電磁波)は真空に対して絶対速度だといっている。絶対速度があればそこからすべての絶対速度が測れる。しかし、光速度不変原理で、光速も観測者に対して光速になるということから、あやふやにしている。
しかし、現実の宇宙科学者は、宇宙背景放射(電磁波)に対する地球や銀河系の速度を測っている。地球は光に対して相対速度を変えているということだ。
光速度不変の原理は実際の観測とは相いれないということだ。実験が間違っているのか、理論が間違っているのか。相対論者は、理論が正しいというだろう。もちろん実際の観測が間違っているとは言わない。単に無視するだけだ。
多くの宇宙観測者はニュートンの絶対空間で宇宙を観測している。科学者は相対論に逆らえないからそうは言わないが。いや、ひょっとして、言えないのかも。
B
絶対静止がなければどちらが動いているか決められないのか、という問題にも答えていない。
大型ロケットと、小型ロケットの場合、動いている方を変えると、運動エネルギーが変わる。人間の目では区別がつかなくても、運動エネルギーは明らかに異なるから、どちらが動いても同じであるとはいえないから、動いている方は決めることができる。
また衝突させるとわかる。衝突地点からどちらかにずれる。運動エネルギーの大きい方が、衝突地点より、前に進む。
太陽と地球はどちらが動いているかは決められている。共に、双方の重心のまわりを楕円運動しているということになっている。
地球は、背景放射に対して500km/秒で動いているといわれている。
すべての物質は動いている速度が決まっていると言えそうである。反対に、見る立場を変えると動いている方が変わるという現象は、実際には、観測も、実証実験もされていない。これも、思考実験という空想の産物である。
比較するものがないと、粒子は慣性をもちえなかったということの根拠と、証明がない。科学は実証しなければならない。実際の宇宙は粒子に満ちあふれているから、{空っぽの宇宙に粒子がたった一個だけあ}るという実験は不可能だが、それを逆手にとって、仮説が事実だというのは間違っている。証明しなければならない人は、仮説を立てた人である。
では、粒子が2個になったなら、粒子は慣性質量をもつことができるのか。これには説明がない。今の世界は、粒子が慣性質量をもっている。この慣性質量は、粒子が複数になったことが原因なのだろうか。その説明もない。
物質が慣性質量を持った原因は定かでないが、物質の質量に関してはヒッグス粒子が与えたということになっている。その仕組みには{比較するもの}は入っていない。ヒッグス粒子があると素粒子が動きづらくなる。その「動きにくさ」が、質量であるということだ(注1)。これも変な理屈で信じられないが、一応、科学者の間ではそう言われている。
すると、質量はヒッグス粒子が生んだ「動きにくさ」になり、慣性質量は複数の素粒子を「比較することで」生まれたということになる。
(注1;もしそのような仕組みで素粒子が質量を獲得したなら。摩擦熱が生じるはずだ。その熱は確認できていない。又、素粒子が動き続ける間は、常にヒッグス粒子とぶつかるのだから、常に素粒子の運動エネルギーがヒッグス粒子を動かすために奪われ、素粒子はやがて止まってしまうはずだ。これは、船が進む限り、水の抵抗を受けてエネルギーを奪われ、エンジンでエネルギーを供給し続けないと船はすぐ止まることから考えられる。なら、素粒子は、ヒッグス粒子がある限り、動けなくなるということだ。すると素粒子は巨大な動かしにくさを持ったことになり、現実世界の物質の質量と合わなくなる。又、素粒子の運動エネルギーを受け取ったヒッグス粒子は、そのために、常に動いていなければならなくなる。動いているヒッグス粒子は、素粒子に、エネルギーを与える。素粒子はもらったエネルギーで動きだす。と、新たな物質世界の理論を考えなくてはならないことになる。今のところ、ヒッグス粒子が素粒子に質量を与えた仕組みは、比喩でしか説明していない。お話を出ていない。科学の世界ではないといえる)
これは、人が見ていない物はリアルではない(存在しない)、ということと同じ考えに起因している。比較するのは量子学者のわれわれである。われわれが何事にも中心である、すなわち、われわれは神様であるという考え方だ。
比較するものがなくても動いていれば動いている、止まっていれば止まっている。人間が、見ようが見まいが関係ない。人間がわかろうがわかるまいが関係ない。もちろん粒子が一個しかないのだから、観測する人も機械もないということだから、困ったものだが。
物質はそれ自体で存在している。ここでいう粒子がこの世界と同じ粒子なら、質量をもっている。1個になったら途端に質量がなくなるということはない。すると、慣性質量をもっている。この質量も、慣性質量も、比較することで生まれたのではない。物質そのものの特性なのだ。
この宇宙が、他の宇宙と比較しなければ、存在がないということはない。又人間がいなくなったらこの宇宙は存在しないことになるかといえばそうではない。多くの人が毎日死んでいるが、地球も太陽も何一つ変わらず(私が死んでも地球の質量は何一つ変わらない)に存続し続けているし、人類がいなかったときも地球があったように、物質は、物質としての特性で存在している。
結論
比較しなくても、物質なら慣性質量を持っているはずだ。たった1個でも粒子があると言っているのだから、粒子の特性の慣性質量だけなくなるというのは、おかしな話だ。無くなるなら、質量も、強い力も、電磁気力も、弱い力も、万有引力も無くなってもいいはずだ。ついでに、粒子も。
比較物がなければ慣性質量がなくなるという、科学的根拠と証拠をまず示さなくてはならない。