シュレディンガーの猫について15
(「シュレディンガーの猫(下)」ジョン・グリビン,坂本憲一・山崎和夫 訳,地人選書)
(以下{ }内は上記本よりの引用)
問題
{雲が、ある意味で質問の過程で作りだされた答えであるように、電子も同じ意味で実験による探査の結果、生まれたのである。}
考察
これも、理性的な人の実験により電子が生まれたということなのだろう。ということは、理性的な人が実験する前の元素には、電子はなかったということになる。
では、私の体の電子はだれも実験していないから、まだ存在しないということだ。理性的な人が{実験による探査の結果}見た電子は、ほんの数百個ではないのだろうか。この私の体を構成している無数の電子は、まだ誰も探査していない。すると私の体には電子がないということだ。それとも、理性ある人が電子を一つでも探査できたら、この宇宙にあるすべての物質に原子がポッと生まれるとでもいうのだろうか。まだ誰も見たことのないこの地球の内部のマグマにも、核融合で煮えくり返る巨大な太陽にも、1億光年先の銀河の物質にも、100億光年先の銀河の物質にも。それともそんなところの物質に電子があろうとなかろうと見えないから関係ないというのだろうか。
理性ある人は素晴らしい魔法を使えるようだ。それとも神様ですか。実際はたんに人間にすぎない。なんの魔法も使えないし、電子の雲も、もちろん電子も生み出したりはできない。量子力学がわかる俺は偉いんだ、とおごり高ぶっているだけの鼻ばかり天を向いてるおじさんにしか過ぎない、というところが真相であろう。
何が間違ったか。
{雲が、ある意味で質問の過程で作りだされた答えである}ということである。この{質問の過程で作り出された}{雲}はたんなる文字である。実際に空にある雲ではない。{雲}という文字が、実際の雲と同一であるという錯覚に陥っているだけである。{質問の仮定}から実際の{雲}はできない。雲は水蒸気と、塵と、空気からなっている。{質問の仮定}から湧きでることはない。魔法使いとか神ならそれもあるのかもしれないが。
20人ほどが集まってやったクイズごっこと、科学が同じというのである。比喩から科学は生まれない。比喩から生まれるのはごまかしだけだ。科学で実証できないと比喩が出てくる。
結論
{理性的な人}の鼻が、お前たち凡人には理解できないだろうと、そっくりかえって天を向いている。おごり高ぶりもいいとこだ。だから、文字の{雲}と本当の雲の区別もできないのだろう。
問題2
{自分の論を明確にするために、ホイラ―はまた別の思考実験を考えだした。}
考察
二つの孔の実験装置を改良するという。{1回に1個の光子が装置を通過するようにすれば、それがとおる経路がはっきりと確認でき、状態の重ね合わせはないのだから干渉は起こらない。}という装置だそうだ。
思考実験なんて考えた人の思いどおりの結果しか出ない。思考実験じゃなく実際に作ってみなくてはならない。それが科学の常識だ。
二つの穴でも、人間が観測しようがしまいが、1個1個の電子が出れば、干渉は起きない。干渉は複数の波がぶつかるときに起るのだから、1個づつでは起こらない。
量子論では、孔が二つあれば電子が多数のゴーストになると考えるから、干渉が起こると考えるのである。それが絶対正しい答えであるとかたくなに思い込んで、二つの孔の思考実験をしているから、干渉が起こると考えるしかないのである。
科学なら、思考実験ではなく、実際の実験をしなくてはならない。電子にしろ、光子にしろ、1個1個きっちり分けて発射して実験しなくてはならない。その結果で判断しなくてはならない。思考実験なんて、勝手に好きな答えをでっち上げられるのだから、仮説を立てるときはいいけれど、それで実証することはできない。
光子を確実に1個ずつ切り離して発射できるのかしら。お手並み拝見したいものだ。
結論
思考実験でなく、実際の実験をしてからの話だ。しっかり1個ずつ確実に電子や光子を発射できる装置を作ってからだ。
問題3
{問いと、答えのゲームが終わってしまうまでは“部屋の中で決められた言葉は何か”判断できないのと同じく、“光子が何をしているか”については、それが記録されるまではわれわれは何も言う権利がないのである}
考察
{“光子が何をしているか“}だって。光子は意志を持って動いているのかな。なくしたものを探しているとか、道に迷っているとか、お友達のところに遊びに行こうとしているとか。量子学者は、量子をペットのように扱うのかな。まあ理性ある人の奴隷になって、矛盾だらけの無理難題を吹っかけられても思考実験の中でリアルにしてもらった量子は言うとおりに働くのだから可愛いくなるのはわかるけど。
問題4
{答えのゲームが終わってしまうまでは“部屋の中で決められた言葉は何か”判断できない}
考察
普通のことである。仕事から帰って、今日の晩御飯は何か、見るまで分からない、なんて当たり前だ。妻が何をしていたかなんて、聞くまで分からない。なんだって知らないことはわからない、知ったときにわかる。ご大層に言っているけれどなんの不思議があるのだろう。
問題5
{“光子が何をしているか“については、それが記録されるまではわれわれは何も言う権利がない。}
考察
記録を見てはじめて分かるのは当たり前だ。光子の動きについて、知らないときはわからない。実際の光子の動きについて正確に記録されたものを見たとき初めて人間は光子の動きがわかるのは、日常生活でも同じだ。妻が昼間何をしていたのか、仕事に行っていた私には分からない。家に帰って妻から聞いたとき初めてわかる。それと同じだ。なにも量子世界に限ったことではない。
問題6
{われわれは何も言う権利がないのである}
考察
夫が妻に、遊び暮らしてないで、少しは家事をやったら、とか、妻が、夫に、稼ぎが少ないからもっと働けとかいう権利はひょっとしてあるかもしれない。しかし、この場合{われわれは}どんな権利を持っているのだろう。物理現象に人間の権利があるなしは含まれているのだろうか。
これも{“光子が何をしているか”}と同じで擬人化である。物理は科学なのだから、物質として扱うべきである。擬人化はごまかしになりやすい。上の例で、クイズの比喩を使ってごまかしているように。
結論
まあ、普通のことだ。取り立てて量子世界にだけ起こっていることではない。人は知ったことしか判断できない。知らないことは知らないことだ。天動説をガリレオが言った時から、地球が公転を始めたのではない。ホモサピエンスが生まれていないはるか昔から、地球は公転していた。物質世界はそれだけで成立している。人間の思考とは全く関係ない。物質は素粒子の塊にしか過ぎない。物質の世界は素粒子の世界である。それ以外の物質はない。したがってマクロな世界も量子の世界も同じ物質の原理で動いているはずである。理性ある人なんて威張っている人の思うままに動くなんて、思い上がりもいいとこだ。
2014,2,16 つづく